下記はあるサイトからの引用です。参考になれば幸いです。
終戦前から始まっていた米ソの確執は、1950年6月の朝鮮戦
争勃発を境に明確な対立となった。米国は日本を共産主義の防
波堤にすべく、サンフランシスコ講和会議において対日講和を
希望する国すべてを集めて、一括締結するという戦略を採った。
この時に、米国全権代表ジョン・フォスター・ダレスが採用
した戦略が、日本側に千島列島を放棄させておいて、しかもそ
の帰属先を決めない、という巧妙なやり方で、日ソの間に諍い
の種を蒔いておくというものだった。
アンドレイ・グロムイコ・ソ連全権代表は、ダレスの策略に
乗って、講和会議には出席したものの、北方領土におけるソ連
の主権が認められなかった事を不満に、講和条約には調印せず
に帰国してしまった。
逆に日本側は、吉田茂全権が受諾演説において、主権放棄し
た千島列島には、日本固有の領土である4島は含まれない、と
の指摘を行い、講和条約に調印した48カ国のどこからもこれ
に関する異論は提出されなかった。
ソ連側は、その後、北方領土領有の根拠として、ヤルタ協定
と並んで、このサンフランシスコ講和条約を上げるが、この条
約はソ連自体が調印しておらず、また4島が含まれていないと
いう日本側指摘にどこからも異議がなかった事から、その主張
には国際法上の根拠はない。
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