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陪審員制度
今度、一般市民から陪審員を集めて裁判を行うという制度が採用されるようですが、どうもよく分からないんですが、法律の知識もない一般市民に、人の一生を左右する裁判の審判をさせるというのはどういう事なんでしょうか。今までのやり方ではいけないんでしょうか。何で今、制度を変えないといけないんでしょうか。教えてください。
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- kawakawakawa13
- ベストアンサー率25% (514/2010)
要するに、司法制度の自殺ですね。 交通違反で何度か検察庁に呼び出されましたが、いい加減なことこの上ないです。 まともに機能していないから、国民に参加させて権威付けしようとしたのでしょうが、鹿児島の事件や富山の冤罪事件等、それ以前の問題だと思います。 前記2件の事件でも、無実の人を犯罪者扱いしておきながら、犯罪者扱いした当事者は、その犯罪行為で処罰されません。 私も、検察庁で、検事が上司を呼び出し、私が違反を認めないと、関係者全員を呼び出すと脅迫しましたが、一市民では対応方法もわかりません。検事が「知りたいことがあったから呼んだ」と言えばそれだけです。現実は、「お前のところは暴走族を雇っているのか」とか、言いたい放題だったそうですが。 実際、前記の事件や、ほかにも善意で届けた落し物を警察官がねこばばして、届けた本人が泥棒扱いされたり、交通事故で、被害者が加害者にされたり、また、報償費問題もいまだうやむやのままです。 裁判員制度で扱われるような事件は、そんなにあるとは思えません。 今、高額の資金と多数の人材を投入してまで裁判員制度を発足させても、実際私たちの身近な問題の解決には繋がりません。 大騒ぎすることによって、現状の問題から視点・論点をそらせようということでしょう。
弁護士や検察官や判事に成る為には、それらの資質が有って、認められた人達ですが,陪審員制度は、素人が判断下す訳で,庶民感覚と言っても、元に成る裁く根拠が無いので単なる感情で判断を振り回すのは危険では無いかと感じます。 まるで、西部劇に出てくる裁判劇を思いだして仕舞います。
私はこの制度に疑問を感じます。 少なくとも、手を叩き、嬉々として裁判に参加するという気持ちにはなれません。 対象になる事件が死刑また無期懲役に当たる重罪であること。 また被告人に対する量刑にまで踏み込まなければならないこと。 裁判員の資格として、義務教育以上の学歴で犯罪歴が無い者を選挙人名簿の中から「くじ」で選ぶと言う、非文明的で曖昧な選出方法。 その方法で選出された裁判員が負うべき守秘義務の確実性。 裁判員の名は非公開となっているが、顔が被告人その他に知られている事での報復など、後々起こりうる犯罪への発展性。 欧米と違い、ディベートという学習を積んでいない(今の学校はわかりませんが)国民によって人の一生に関わる問題を冷静に議論する事の可能性。 またこれも欧米と違い、被告人が陪審員制度を拒否出来ないという人権に関わるかもしれない問題。 (もし、私自身が犯罪者として裁かれる立場の場合、職業裁判官に裁かれる方が、納得出来ると思います) ざっと考えてもこれほどある問題に対して今この制度を導入しなければならない理由には説得力が欠けるように思えてなりません。 いくら、溜まりに溜まった事件を効率的に片付けたいからと言って、素人の集団が人の生き死にまでに関与するのは魔女裁判の様相を帯びて来る心配が拭えません。 公明党が主導して通ったこの制度、支持母体の宗教団体の思惑がどのようなかたちで絡んでいるのかと勘ぐらざるを得ません。 何故今制度を変えなければいけないのかと言う質問には答えていませんが、あまりにも重大な問題なので投稿させていただきました。
- moo943
- ベストアンサー率0% (0/0)
No.2の方が書かれているところで大体お分かりいただけるのではないかと思います。御質問の趣旨からは少しずれますが、一点お話しさせていただきます。 裁判員裁判の対象になる事件は、裁判員に選ばれる方々が住んでいる街やその近くの街で起こり悲惨な被害が惹き起こされている事件です。その「犯人」であるとされている人(「被告人」)も私たちの国に住んでいる人です。 その「被告人」が本当に「真犯人」なのかどうかを判断し(当然ですが、「被告人」が「真犯人」でない場合もあります。法廷で罪を認めると言ったからといってそれだけで「真犯人」だと言えるわけでもありません)、また、仮に「真犯人」であれば、その「被告人」に相応の処罰を与えることは、私たちの社会や被害者のために必要不可欠なことです。それは、間接的には、裁判員に選ばれる方々の住む街の安全にもつながっていくことであろうと思います。 裁判員裁判は、再来年5月までには始まることが確実になっていますので、皆さんにはこのあたりのことを御理解いただきたいと思います。 なお、ネチケットの関係がありますので、詳細は書けませんが、今お話した点を歌った広報ソングのCDが作成されており、在庫がある限り裁判員裁判に関心のある方には差し上げているようです。御関心がおありであれば、ネットで検索して関係先に問い合わせられたらいかがでしょうか。
法律の知識もない一般市民に、人の一生を左右する裁判の審判をさせるというのはどういう事? 陪審員制度は現在、画一的な審判が多い中、一般市民レベルの感情が反映され、民主的ではないでしょうか。多額の弁護士報酬を払える身分の者は間違いなく有利であることもできれば是正できるかもしれません 専門家ではありませんが 法律は絶対的というより流動性があるべきものなのに、常に事件から遅れているし、判例があるため簡単に変えられないような気がします そこで市民の出番になるのでしょう
- popesyu
- ベストアンサー率36% (1782/4883)
どのような制度であれ、メリットとデメリットは常に存在します。 裁判員制度導入の背景は、まず現制度のデメリットが目に付くようなったということです。 従来の裁判官制度の特徴は、その判断は全て専門家に完全に任せてしまうということ。陪審員を何らかの形で取り入れた制度の特徴は、現在進行形で日々移り変わる市民感覚を常に取り入れて判定を下すということです。 裁判官制度の究極的な形は、出来るだけ主観や感情を取り除いて要は機械的に・プログラム的に方程式の解のように常に一定の判断を下すことになります。それはそれで一つのメリットでもありますが、それは同時にデメリットにもなります。方程式ではなく、その人の直感や経験から得た常識が基準となる陪審員制度でもそれは同じことです。ただ法律の知識は最初から不要です。法律の知識以外の部分からの判断が必要ではないのかということなんですから。 「一般市民に、人の一生を左右する裁判の審判をさせる」ということについては、本人は自覚はないかもしれませんが、別に今の制度でも間接的には人の一生を左右させています。法律を作るのは行政ですが、その行政を選んでいるのは国民ですし、最高裁判所の裁判官の罷免権も国民は持っています。そういった選択を常にしているという自覚がない人は、実際に被告人を目の前にして、量刑の判断をするというのは負担があるかもしれませんが、目の前にしなくても結果的には同じことは常に行っているわけで。これは例えば、食肉をする上でその前段階でトサツという行為があることを見て見ぬふりをしているのと同じことです。 臭いものには蓋をしておけばそれに気付く事もないかもしれませんが、蓋をしようが現実にそこにあることには変わりありません。少なくとも質問者さんのような人に臭いものが存在している現実を目の前に突きつけるという効果はあります。 今までのやり方は、その臭いものを処理する専門のプロに白紙委任していたわけで、これはこれで勿論メリットはあります。ただ昨今の風潮では、そのような専門化された判断だけに偏ることで市民感覚と隔離しているのではないか、それが昨今の司法への不信感を呼んでいるのではという危惧があったわけです。プロに任せておけば全て安心であれば、昨今の政治不信だって起きるはずはありません。官僚制度だって何の問題もないことになります。 まぁもちろん全てアマチュアに任せておけというのも乱暴です。例えば「裁判官の資質を国民目線に改革する」というようなことは、単にその辺のワイドショーに流されているおばちゃんを裁判官にしろと言っているのと同じことです。これだって同様に危険です。プロはプロ、アマチュアはアマチュアでそれぞれが存在し、その上で両者の意見を取り入れた判断が出来る仕組みを作ろうとしているわけです。
- mat983
- ベストアンサー率39% (10265/25670)
下記は首相官邸のhpに書かれた裁判員制度についての記述です。 裁判員が国民感覚と違うので皆さんに加わってもらい、また、理解を深めて欲しいと言っています。 国民が加わるより、裁判官の資質を国民目線に改革すれば良いだけのことです。 必要な制度とは思えません。 困ったものです。 ●なぜ国民が裁判に参加するの? 裁判員制度を取り入れることによって法律の専門家ではない、普通の生活をしている一般市民の感覚が裁判により生かされるようになり、国民の司法に対する理解と信頼を深めることができます。 また、裁判の手続や、裁判で使われる言葉が今より分かりやすくなること、裁判がよりスピーディになることも期待されています。 下記のサイトも参考に http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6