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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:当然という思い)

「当然」という思い 哲学と宗教から考察

このQ&Aのポイント
  • 「当然」という思いについて、哲学や宗教の視点から考えてみましょう。
  • 私たちは当然だと思っていることが多いですが、それは意識せずに当たり前のように行われています。
  • 「当然」なことについて考え、無味無臭で普遍的な存在としての意義を探求してみましょう。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tappara
  • ベストアンサー率37% (260/694)
回答No.2

失った多くの物事は全て今考えると大切な当然のことだったように思えます。 ありきたりですが、失ってはじめて気がつく。 無味無臭だからこそ失わないと大事さに気がつけないことが多いのかなと思います。 現状気がついている当たり前の幸福って、とても素敵なことですね。 なくす前に気がつけた幸福に感謝です。大事にしなければ。

krya1998
質問者

お礼

 ≪失った多くの物事、はじめて気がつく≫ そうなんですね。 そして≪無味無臭、そして主張もしてくれていない。癖もない。変な発言や音も立てない≫   だから、それを失う前に気づいていたい。ありがたさを大事にしたい。そんな思いです。    遅れました。  本当に有難う御座います。今後もよろしくお願い申しあげます。

krya1998
質問者

補足

 人間にはどうしても、わかる所から、判るところまでしか判らない。 ということですよね。  つまり、実証や科学や、理論弁証というのは何か地球で言えば、地表の1センチ四方平方メートルしかないみたいですね。もっと宇宙や何かは大きいのでしょうね。  意識というもの一つとっても。

その他の回答 (9)

noname#80116
noname#80116
回答No.10

krya1998さま コメントをいただきありがとうございます。 蛇足ですが 自分のコートに球が来たなら 打ち返すということについて 北朝鮮の振る舞いを思い浮かべてください。 さすれば 失って 空気のような掛け替えのない当然のものという思いに・・・?

krya1998
質問者

お礼

 brageloneさん  北朝鮮の振る舞いも、一つの対応として受けなければならない、関係諸国、指導者、国民は苦労しますね。北朝鮮の今日に不可視のところで、やはり私達もずいぶん共同責任があるのかもしれません。  と言い聞かせています。  それは気づける振る舞い、気付けさせすぎる振る舞いですが、気づけない振る舞い、自然や、存在基盤の振る舞い、球がきているのに、空気をもたらしているのに、気づけないことがたくさんあるのでしょうね。  心したいですね。  有難う御座います 

krya1998
質問者

補足

 いろんな球、気づけない球。人生は難しいですね。

noname#80116
noname#80116
回答No.9

krya1998さま お邪魔します。 答責性です。 説明責任などと言ったりしますが 咎めたり詰(なじ)ったりする場合でなくとも 問いに対して答えを返すという話し合いのことです。 わたしは ふつうの家庭でふつうに育ちましたが 一つだけ あとから ちがっていたと分かったところがあります。父親が わたしに一定の距離をおいていたことです。もっと言えば はねつけて寄せない ですから 対話がないという情況です。 成人したとき こう言いました。《獅子は子を産んで三日たつと、その子を千仞(せんじん)の谷に蹴落とし生き残った子だけを育てるのだ》。 だからと言って その後 態度が変わったというのではないのです。よく育った よかったよかったということではないのです。ひとこと 弁明を差し挟んだということでした。 おかしいじゃないか なぜ 話しを避けるのかと詰め寄るのですが らちは開かなかった。そして ひとことだけ・一回だけ もう一つの弁明を漏らしたことがありました。《人にはそれぞれ自分のカラーがある。俺には俺のカラーがある》でした。 わたしにとっては これが 唯一と言っていい問答となったのでした。《とにかく答えている》という内容をもって よしとしたのでした。 話しかけられたら こたえるという内容の答責性 これが 当然という思いです。

krya1998
質問者

お礼

 有難う御座います。  きちんと真正面から、答責を果していけるように、自分の躾をします。  有難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 bragelone様  有難う御座います。  昔の男親はどうしても、そんな風でしたね。いえbragelone様のお父様が、何年頃のお生まれかは存じませんが。    やはり対応、応える、答責。これは重要で、当然なのですね。  これは創造界の、いえ創造の基本要素かもしれませんね。  有難う御座いました。

noname#40981
noname#40981
回答No.8

種よ この地球上で 絶滅に追いやられる種たちよ 最後の審判を下すものは 誰か

krya1998
質問者

お礼

 奇抜なお言葉に、月並みともとれるお礼を申しあげることを  どうかお許し下さい。  有難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 種ですか、主の誤植ではなかったですね。  審判が有るのですか。誰かに下してもらいたいのですか  それは甘いです。全能の創造者は、ここに居ながら、超然存在です。  貴方みずからしかそれをしません。  相手も其の方自らが自分を裁きます。

noname#40981
noname#40981
回答No.7

世界の調和と人類の滅亡を天秤に掛け 死の川をわたる

krya1998
質問者

お礼

 有難う御座いました。  生も死もないとしたらどうなさいますか?  あなたの肉体や、感情、意志が見えなくなると、死なのですか。  あなたは生まれも死にもしないし、していないとしたらどうですか?    調和も滅亡も、所詮は、これなんなのでしょう。  人類という意識が誕生したのかどうか、知りませんが、この意識が意識している調和や滅亡とは何なのでしょう。  大昔といわれる時から、そういうふうに人は思ってまいりましたね。  人は、その意識をこえられないでいるのでしょうか。いえ越えている状況がその大きな宇宙にはあるのではありませんか?そうおもわれませんか?そうでしょう。あなたという意識がそこで何かを知覚している以上。どうかお鎮まりくださいますように。

krya1998
質問者

補足

 生と死を分けても意味はないと存じます。  錯覚です。

noname#40981
noname#40981
回答No.6

恐怖のうちに 人類が滅亡することを 全精力をかたむけて祈祷しながら 死の川をわたる

krya1998
質問者

お礼

 しっかりお互いにいのりましょう。  あなたはどういうご自分に祈るのですか。  他人に祈るのですか。  神仏や鬼神や道祖神や生活の神々、竈の、スサノウとか、ですか。  望むと祈りは違いますからね。  中途半端だと怪我をしますよ。何事も。しっかりお互いに祈りましょう。

krya1998
質問者

補足

 私もあなたとともに、あなたのそういうお祈りの元について祈らせていただきます。

noname#40981
noname#40981
回答No.5

一人ひとりの顔を思い浮かべながら この身に受けた恨みを 呪いにかえて

krya1998
質問者

お礼

 ANo.4のお礼に同じです。有難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 ANo.4の補足に同じです。  どうかお許し下さい。でもそういう仕方を早く、整理なさってください。 どうしても自傷的になりますから。消極、否定というしかで。  それは結局は受け身的な生き方ではないのですか。

noname#40981
noname#40981
回答No.4

教えて!gooの回答群 死ぬときは 人類を呪いながら 死ぬ

krya1998
質問者

お礼

 有難う御座います。  全てを呪う、感情、心情を知らないわけでは在りません。  私もお礼の気持ちを綴っていますが、人を怨む気持ちやのろいが皆無になってはいません。些細な人生で参りましたが、それなりに多様なことに浮き沈みしてきています。その全てを悔いもなく、怨みもなく、そしてすまないという気持ちもなく、ではもちろんありませんが。  それを何とか乗り切るには、波風に翻弄されないように答えていくしかありませんでして。

krya1998
質問者

補足

 凄まじいお言葉を噛みしめて、自分を誡めます。

回答No.3

やはり家族です(特に両親です)。 どんなことより特別ですね。 私は両親が幸せで居られるように、 出家を思い留まりました。 人は人である限り、今の世界でしか生きられないのです (仏教の説くところでは)。 だったら、そこで味わった全ての物事に感謝して、 今を生き尽くそうと思う訳です。 水も、風も、光もすべてあるがままで、 何一つ変わらないのに、私たちは生まれ老いて死にます。 それを美しいと感動できる心に感謝したいです。 まあ、時が来て出家する場合になった時は 今より、より高い目的を持つことになります。

krya1998
質問者

お礼

 有難う御座いました。  ご両親、そうですね。親はありがたいものです。  私も両親にはとても批判を持っていますが、私の親も、親が子を慈しむというのは、何か宇宙的原理みたいに感じますね。理屈や感情ではなく、親という役目に負っている大いなるお方の、お仕事みたいですよね。どの生物も、確かに子どもは可愛いけれど、だから親が慈しむというのとは違いますよね。本能みたい、せざるを得ないというところ。  ご出家とご両親のこととの関係は、必ずしも納得はできてはおりませんが、当然でしょうが、どうかご両親のせいにすることにつながりませんようにお祈りいたします。  そうですね、いましかないですよね。私達には、いつも。  ご出家にどうかお拘りになることなく、ご精進のほどを今後もお祈りします。

krya1998
質問者

補足

 ご出家ですが。私も実は小さいころから、何かそんな傾向がありました。腕力も、知力もあまり人並みでもなく。敗戦前の少年たちは、一定の基準や標準が求められましてね。とても自分は共同の行動がとれない、情緒的な子どもでした。戦後中学で運動部に入り、少し以上、異状的変身をしまして、自分を取り戻すのに骨です。  やはり、宗教者の道は、自分の生活のことも、家族達のことも考えて、躊躇したのですが、まぁ回帰してきているということでしょうか。

noname#45642
noname#45642
回答No.1

生きてること。感じること。

krya1998
質問者

お礼

 まことにそうですね。  有難う御座います。  

krya1998
質問者

補足

 当たり前であり、不思議ですね。  なお、ちょいと、随筆風に、何かコメントを戴けないでしょうか。  おことばが更に加わると、私も更に感じることが有るのではないかと存じまして、ご無理をお願いしております。

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