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三身常住は 三位一体とどう違うでしょう
絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。おしえてください。 じつは 一度質問しています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3130694.html 法身は 絶対と捉えていいのでしょうか。生身の人間(つまりゴータマ・シッダルタ)が出現したというからには さらにつまりは応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。 あるいは あくまで 時間過程を伴なった悟りの結果 絶対者としての実現が成ったというのでしょうか。 それでも――つまり この応身としては 無常の存在であるが それでも―― 報身としては この地上の経験世界(つまりわれわれ人間)と現実においてかかわりを持つ永遠の絶対者であるという説明になるのでしょうか。 三位一体については 神の受肉という点で 対照させていただけばよいかと思うのですが。
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- littlekiss
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こんにちは、bragelonさん。 ●設問にふれるべし。←|(>_<)| あっ?!わっちゃちゃ))))) 仏の顔も……なんとやらと申しますものね、 恐る恐るですが…話、ぶってみます。 途方に暮れると、時に人は、"神も仏もありゃしない"と、こんな言葉を口にしたり、そうかと思えば "地獄に仏"とか"苦しいときの神頼み"と、様々な場面で都合よく言葉を発っします。こんな場面を想像してると、神の定義、仏の定義ってあるのかなと。総体としての絶対者は存在するのだろうか?などと考えつつ、仙を思い浮かべてみた。意味付けされた文字"仙"という文字に水を注げば"水仙"という一輪の花が現れ、時間の経過とともに水仙が群となればそこは水仙郷と呼ばれ、辺り一面にお花畑が広がる。で、"仙"に人を添えれば、仙人が現れ、現れた人に掌を合わせれば、いつの間にやら仙人掌へと変化。摩訶不思議な変化。つかめそうでつかめない実体。そもそも、いるのか?いないのか?わけのわからなさだけが残ります。風に戸惑う。意味をもたせることで、実体は如何様にも変化する。逆をかえせば、意味なくばただの文字の羅列。ただの文字の羅列の中に何を見いだすかは、人に委ねられているのではないでしょうか。こと、数字においてもはじまりは文字の羅列だったのでは? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa429496.html
- littlekiss
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おはようございます、bragelonさん。 クシュン=☆ あっ?!失礼 (*^^*)>゛゛゛ 風邪ひいちゃいました。 ここはゆっくりとお願いします。m(_ _)m ちと回想… http://www.ricoh.co.jp/net-messena/ACADEMIA/JAMIT/MITVM/MRI/FURUSE9907/index.htm#P7 http://www015.upp.so-net.ne.jp/overhead-TML/shurui.html http://www.jeea.or.jp/course/contents/04201/ http://j-parc.jp/ http://www.kek.jp/ja/activity/j-parc/index.html ところで、"軽き接吻さん"って…? "仮面の男"…鉄仮面…鉄の仮面で顔を覆うといえば…何してる?もちろん溶接。アーク。ジュージュージューシー三銃士。ダダダダダダダン カ.イ.カ.ン。物騒というよりも物相。
お礼
回想は 置いときまして――いや たしかに ここ二三日こちらも冷えます。のどと体を暖かくしていることです。葛湯を そういうときよく 飲んで(啜って)いました―― 《 littlekiss 》は 軽き接吻という意味ではないの? ちいさなキッス? あるいは 決まった熟語があるのだろうか? 《仮面の告白》ではないから 心配しないでよろしい。同じ言葉を繰り返すのには プライドが許さないところがあったりする。 《ちと回想》は措いときまして。 だが 設問にもひとこと触れるべし。そういう場であるゆえ。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●補足と言う割には 今回 言葉少なめなり。 ↑ |(><)| キャーッ! オニー! 意地悪C゜あっぷかい?こわいっちゃよ、こんな急斜面で、ここを滑れと?……言葉少なにもなりますなり。 【ギャップ(でこぼこ)の滑り方】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa432428.html 聞こえない、聞こえない。聞こえないから、"由利とおる"バリに針仕事。もくもくもく。 http://www.salvastyle.com/menu_baroque/vermeer_kantklosster.html そうそう、夜なべしながら針仕事、イテッ=☆ 夜はどこから 来るかしら あの星越えて 月越えて おとぎの国から 来るかしら… 来る 来る きっと 来る… |(><)| キャーッ!『 リング』かい?! 【MRI】 MRI装置の内部には、静磁場をつくる筒状の静磁場コイルと、その内側に傾斜磁場コイル、さらにその内側に電磁波を発生する照射コイルと体内の水素の原子核から発生する電磁波をとらえる受信コイルを含むRFコイルがあります。このうちRFコイルは検査部位などによってさまざまな種類があります。RFコイルに集められた電磁波は、接続してあるコンピューターに送られ解析されます。MRI装置は、静磁場の発生装置が銅またはアルミニウムで、外部から電流を流すタイプの常伝導装置、鉄などでできており電流の供給なしに長時間にわたって磁気を維持している永久磁石装置、液体窒素やヘリウムガスによる冷却装置を備えた超伝導装置の三種類に分けられます。このうち常伝導装置は安定度が低いことなどから現在はほとんど使われなくなっています。磁場の安定性、均一などの点で最も優れているのは超伝導装置といわれています。 出典:『新医療機器辞典』 http://www.geocities.jp/kuma89922000/no-to.htm 【やさしい超伝導のおはなし】 http://moniko.s26.xrea.com/cyoudendou_kiso.htm 【1998/03/05】 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/10/03/980309.htm " スパーク " で、スプリング8まで飛ぶ http://streamer.t.u-tokyo.ac.jp/~iesj/photo2002/photo.html 【盲点】 http://www.geocities.jp/ja2agp2/GearUSA/National/NA_HROTO50.html http://gc.sfe.koio.ac.jp/class/2005_14454/slides/05/31.html http://www.engineering-eye.com/rpt/shockwave/index.html ー魔笛ー
補足
軽き接吻さん ご回答をありがとうございます。(きちんと言わなくちゃ)。 今朝の新聞を見ると 五千年前・縄文中期に大豆の栽培がなされていたその痕跡が発見されたとのことです。 www.asahi.com/culture/update/1017/TKY200710170329.html 近代人の合理精神とちょっと違って 時間的存在であることの自覚を内容とする歴史知性の獲得 これを 弥生日本人が成し遂げたということ そしてそれは 穀物の栽培という時間的な仕事の日常生活化とともにであったろうということ このような持論にとって 栽培文化が この発見によって 三千年ほど早く実現していたとなると どうなりますやら。 まあ 開始と成熟との違いは あるでしょうけれど。 もう一点:《土器の取っ手の中に〔あった〕長さ約十二ミリの豆粒状の空洞〔に〕 シリコン樹脂を流し込んで型を作り 電子顕微鏡などで調べたところ 粘土に交じっていた豆が焼成の際に燃えてなくなった痕跡で 形態やへその特徴から 野生種ではなく栽培された大豆と確認された》(日経・38面)とのことです。――《痕跡》は 見えたというだけなのでしょうかねぇ。 さて 今回は 【やさしい超伝導のおはなし】が 面白かったです。最初から順序を追って説明してくれている。昔このような話しを聞いたときには やがて送電線の電力について効率がよくなると確か言っていましたねぇ。そうではない模様。 《オンネスの夢であった超伝導マグネットの実現に・・・近づく・・・。しかし 世の中はそれほど甘くはなく もう一波乱待ち受けていた》(《5》つまり最終編の末尾)のだとか。思わせぶり!!! 【ギャップ(でこぼこ)の滑り方】【フェルメール:レースを編む女】は 類推のみと判断。 【医学概論】(それにしても 項目の列挙だけとしても 137枚分あり。コピーせず。鬼コーチーー!)は 【MRI】の解説とは別ゆえ スキップ。 【超伝導加速器による自由電子レーザー装置で世界最強(1998年)の光発振】――ふーむ。そういうもんなのですね。 【放電写真】――ふむふむ。 【盲点】;【NATIONAL HRO TO HRO50】――これも よく分からず。申し訳ないけれど スキップ。 【http://gc.sfe.koio.ac.jp/class/2005_14454/slides/05/31.html】――これは 《ページが表示できません》と出ましたよ。 【衝撃波の科学】――最初(1~5)と最後(45・46)を読んだ。面白そうなのだけれど 少し感覚が・あるいは性格からか なじみがないような印象である。複雑系とかいう方面ですか。フラクタル? (なあんて言葉だけ)。 《ー魔笛ー》は なんのこっちゃ? モーツァルトのオペラをWikiで見ると タミーノ王子の魔法の道具? * * * 優しき律動 ひと言も理解できない はずなのに 鍵盤がピアニストをたたき出すように 陰影が点描画を奏でている のではないだろうか 明日も同じだろうか ひと山の風が吹いて 旋律が揺れる 小さな波にそっと触れる 慰めは遠心力に吹き飛ばされる 絶対の音符がみえるようだ 五本の軌道に乗って 裸の電車が進み入る 蝶のように嘘のように (その昔 まったくちんぷんかんぷんという評しか出て来なかった現代詩に接して 真似してやれと作っただけなので 恥づかしいというより 失礼かも知れないけれど)。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonさん。 おたずねの件の補足です。おっと、その前にちょいと用意していただきたいものが…。 スプーンは手近にありますか?あれば持って来てください。ハイ!いいですか? ほでは、手に持ったスプーンの凹っとなった面に顔を近づけのぞき込んでみてみてください。 【目で見るということ】 http://homepage3.nifty.com/law_of_causality/eye/eye1_3.htm http://homepage3.nifty.com/law_of_causality/eye/eye1_1.htm 【夢の電波吸収体 幻の光回路】 http://www.titech-coop.or.jp/landfall/pdf/30/30-4naitoumizumotoken.pdf 【マンガン酸化物における光によって誘起される電荷整列短距離秩序】 http://www-surface.phys.s.u-tokyo.ac.jp/sssj/Vol23/23-11/11g681-687.pdf "人は己の行為もて……云々" ↑ "禍福は糾える縄の如し"
お礼
littlekissさん いかがお過ごしでしょうか。ひと山越えて来ましたね。 補足と言う割りには 今回 言葉少なめなり。 【夢の電波吸収体 幻の光回路】が面白かった。 少し前に ブルーバックスの杉晴夫著『生体電気信号とはなにか』(2006年)を入手しました。ただし わたしは 生体の電気が 電磁波となって もし外に(つまり 主に 人に向かって)流されうるとなれば 面白いというべらぼうな関心を持っていたのですが 生体の中の問題を扱っているようで 中断してしまっています。 どうなのか まだ分かりませんが 電波吸収というのも おもしろそうです。そして 光回路。 (大岡山には 行ったことがあります。建築と化学(触媒)専攻の二人の友(高校からの)がいたので。これは これだけ)。 【マンガン酸化物における光によって誘起される電荷整列短距離秩序】 まあ わかるわけないのですが ごく短い瞬間の瞬間でも 物質の状態が 一定の秩序をもって安定すれば それが 応用が効くということですかねぇ? (このN大は 現在の地元)。 【目で見るということ】 スプーンはおもしろかったけれど つながりがピンと来ない。網膜の上で 上下が逆さまに映って そのあと 元に戻って知覚するということですか。眼の水晶体レンズの上下の幅を超えたところから来る光線は 網膜に焦点を結びがたいのですか? 【イソップ】 "人は己の行為もて……云々" ↑ "禍福は糾える縄の如し" ――これは ちと的がずれてる感ありでは? 町のねずみ田舎のねずみは あらためて接すると どこか 感慨深いものがあったけれど。 *【以心伝心】 テレパシーとは言わずとも 以心伝心は 起こる。これは 生物・物理学としては いかなる現象なりや? *【光】 光の速度は 自然科学の前提としては 絶対なのですか? それを超える場合というのは どうなるのでしょう? 法(ダルマ)と言っても 《諸行〔無常〕》という意味では ものごと・つまり自然的および社会的な現象のことであり これを ありのままに見ると言っているようですから その限りでは 自然科学の範囲内にとどまるはづです。 法身が 《法則》つまり摂理であるとなると 自然科学の法則を超えたところにも 触れようとしているのかも知れません。で 光速やその法則をさえ超える場合というのは いかがあいなるでしょう?
- katyan1234
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全く違う価値観を比較しても仕方がないです。 三位一体を言うなら一枚の食パンを3つに分けた感じ 神様という中に創造主 イエス 聖霊 と言う3人がいる 創造主はこの世を作り、イエスは旧約聖書の通り聖霊が乙女マリヤを通して預言し生んだ そしてイエスは十字架にかけられ天国に行き神の右の座に座り その間に助けぬし聖霊を私たちに送ったということでしょう?もし神が一人と考えるならおかしくなりませんか?もしイエスが神ならわざわざ十字架にかかる必要もない、十字架にかかるまでにバリサイ人を神の技でひれ伏す事は簡単だよ~ 神様が天国にいるのにどうしてイエスキリストは救い主なんて言えるの?そこに聖霊が宿っているから主であると告白できるはず、また聖霊は神にとりなしの祈りをするんだよね。イエスが天いるのにどうして信じることができるの? そしてどうして奇跡が起こるの? 僕たちは聖書の書いていること「アーメン」と言ってるだよね~ 後仏教に関しても http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/04_05_20.html それぞれの考え方は違うからね。尺度の違うものを比較しても意味はありません
お礼
ご回答をありがとうございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本来の誓願が要となる真実信心を仏性(仏になる性質)といい、これを「法性」ともいうのです。 「法性」というのは、真如や一如などと同義語で、法が「あるがまま」・「存在の真のすがた」・「真実そのもの」・「一切の現象(存在)を貫いている絶対の真理」・「一切のものの真実常住なる本性」であることを意味し、これが信心の内容と一体であることを示します。 (小笠原信『法身と報身の違い― 色や形や名を現わし兆載永劫の修行を積んだ仏 ―』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《法身が 誓願を経て 修行し功徳を積み その報いとして 報身となった》(要約)と言わずとも 《絶対の真理》と言えば すべては 明らかだと思います。誓願・修行うんぬんは むしろ 衆生がそのような菩提心を発するようにとみちびくための方便ではないかと思われます。 そして引用の文章によれば 《信心の内容と一体であることを示します》と明言されています。これが 絶対者の信仰だと思うのですが? ただ たしかに《全く違う価値観》とおっしゃっているように 三位一体とも違いますし ゴータマ・ブッダを 神の受肉と見るのも 違うのでしょう。 法身と報身とに分ける必要はないでしょうし そして応身ブッダは 絶対の真理そのものでは むろん ないわけですが ゴータマ・ブッダもそうであるように われわれ一人ひとりが そうである=つまり応身ブッダであると考えられます。そうではないでしょうか? 三位一体についての理解は ここでは 詮索しないこととします。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●(以前、神の証明にかかわって……云々…… ……。だって絶対=無限が 分割されることは ありうるのでしょうか?うんぬんでした)。 ↑ ここの箇所は、"きってもきってもきれないものはなーんだ?"のお話のことでしょうか? ●つまり、図がまちがっていますよね? ↑ そか?そんなことないんじゃない?四つ折りにしちゃえば。パタン、パタンと折り畳んじゃうと、第一象限の位置に重なる。折り畳む程に、場(領域)が2つ消え、1つ消え、1つ残る。 【コマの性質】 http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/koma1.htm ここで、ANo.5の補足を少し… ANo.5を差し入れるにあたって、"絶対値"を例に用いたかといいますと、お察しの通り 《絶対なる神には性はなく…》のことばに止まりました。だって、男性も女性も総称ではmen(総称)。前後の文脈なしにmenだけを見て性を言い当てられましょうか?仮に言い当てることができたとしたら…その確率は?2分の1?果たして、そうでしょうか?menには性を持たないmenがあるのも見逃せないですよね?なーんてことを面面と思いを重ねながら読んでいましたもので…ひょいと、"絶対値"が思い浮かんだわけです。 【音の回折】 http://www.onosokki.co.jp/HP-WK/nakaniwa/keisoku/kaisetsu.htm 【伊曽保物語】 http://www.geocities.co.jp/Bookend/9563/Nusubito.html 【イソポのハブラス】 http://esopo.fc2web.com/ http://esopo.fc2web.com/Esopo/esopo_monogatari/esopo1_06.html http://maldoror-ducasse.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_fb5a.html 人は己の行為もて… 云々 http://www.jeea.or.jp/course/contents/01109/
お礼
おはようございます。 littlekissさんのお話は 問題点に対して 一定の距離をおいて 落ち着いて捉えつつ 解決に迫る。(もしくは すでにlittlekissさんの中では 解決していて その方向を示すように 手引きする)。という性格を持つと思われます。 大体はわかるのですが わからない部分もある。いわば暗示が多いと思います。 ○【コマの性質】と y = x のグラフ(右肩上がりの直線ですよね)とのつながり具合いが 不明。 / 《重心が上 / 下の独楽》について 《歳差運動》との関連で ややわかり 《マックスウェルの独楽》は さらにどう違うかなど まだ不明のままです。 ○【音の回折】へと 絶対値の問題が どうつながっていくのか。むしろ 光のほうの問題? ○【伊曽保物語】《人は己の行為もて / 下へ下へと進み行き / 或るいは上へも登り行く。… 云々》――これは ひょっとすると 《蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る》といった意味あいですか? つまり 絶対なる神に 相対世界の何やかやを 自分の好き勝手に 当てはめ押し付け象(かたど)ってしまうといった・・・? ○【複素数の手ほどき】――これは よくわかりましたよ。電気抵抗のところも R(抵抗)のほうは わかる。コンデンサーのほうは 無明のまま。ただ いまの課題とのつながりが 分からない。 ◇ さて 【集合の濃度】ですが このブロガーの言うように 《最後まで 一対一対応させる》というところが 腑に落ちません。 ◇ 上の課題と合わせて 【絶対は分割可能か∽切っても切れないものなあーに?】について 場をあらためて 補足欄にて 考えます。 ○ なお 絶対値の件については プラス・マイナスの符号を落とした値というのが 《中性》という意味だとすると それは この経験世界での話しに留まります。もし そうでなく 《プラスであるか否かが分かり得ず マイナスであるか否かも決め得ず まったくこの是非を超えた世界のこと》だとすれば それは 神と呼ぶべき絶対のことだと思います。(うまいこと言うでしょ?) ――これが 三位一体の神としては まったくはっきりしているのですが 三身と言わなくとも仏教では 非常にあいまいのようです。
補足
下のお礼欄の話を承けて つづきです。 ○【集合の濃度 / もしくは 無限集合には 濃度の差を持つような種別が そもそも あるか】 まづお礼欄で書きこめなかった部分として それは ブログのコメントのほうで ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アレフ1 の定義は、アレフ0 の次の基数(濃度)です。 従って アレフ0 と アレフ1 の間の基数が存在しないことは定義そのものですね。 連続体仮説は 2^{アレフ0} = アレフ1 が成立するかどうかの仮説で、ゲーデルによりその整合性、コーエンによりその否定の整合性が証明されています。(投稿 通りすがり) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とあります。これが わからないし どういう意味を持つか その方向も判じ難いのが 悔しい。ひょっとして カントールの議論が それを応用するには 必ずしも定かな内容ではないと言っているのでしょうか。 これは措きまして さて 課題については 残念ながら はっきり言って わたしには 分かりません。数学にゆだねるしかありません。 ただ 別の方法で 無限ないし絶対を規定する行き方もあるのではないかと思うのですが。 それは 相対性の支配するこの世界に対して この世界の中にありつつも 絶対を想定した上で 経験思考も意志行為も行なっていく(要するに生活する)というものです。収まらないので 一つ前のNo.5の補足欄をお借りしてつづけたいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行為によって分かるようになると考えられること。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ 分かるか・分からないかが 分からないこと。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そのことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくことがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義のなかに――あるいは 外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 たとえば 経験領域における未知のことがらは はっきりと非経験 X ではない。未知は 不可知ではなく 非経験 X ではない。けれども 不可知も はっきりと 経験 Y であって 非経験 X ではない。可知か不可知か決められ得ないことが 非経験 X である。(不可知は そもそも 無いと言える)。 人間の精神は 人間も経験存在 Y であり 精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在= Z とすれば 経験領域 Y に対する人間 Z の関係が いまの議論では《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが 意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 (No.5補足欄につづく)
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 うーん、神さんの話はようしりません。ようしらんから、ただただ閲覧。ほでも、繰り返し読み返してると、不思議と神さんの話をしてはるんやろとはおもうねんけど…神さんの話やのうて数学の話のようにおもえてくるから頭が痛い。絶対は絶対であって絶対ではないと、絶対つながりで、絶対をひいてみたら"絶対値"に行き当たった。 【絶対値について】 http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/graph/absolutevalue.htm ここの問いと共通してへんやろか?
お礼
littlekissさん こんばんは。 よく読んでくださいました。《絶対》あるいは《無限(無限集合?)》とは そういうもので いいのですよね? (以前 神の証明にかかわって カントールの可算・不可算の無限集合に出会いました。まだ 無限=絶対が 可算であるということが分かりません。どうだったですか・・・元どうしを 投射するとか言ってましたね。だって 絶対=無限が 分割されるということは ありうるのでしょうか?うんぬんでした)。 絶対値のほうは まづ 最初のグラフの中で《x軸対称移動》とあるところは xもyも負の領域(ここは 第三象限?)の45度の直線が 第二象限のほうへ 移動するのですよね? つまり 図がまちがっていますよね? 《ここの問いと共通してへんやろか?》 ――つまり 《問い》というのは 《応用例をもっと出すとよいのではないか》ということでしょうか? 残念ながら ぴんと来ません。littlekissさん どんどん 具合いのわるいところを指摘してくださいな。 《神さんの話やのうて数学の話のようにおもえてくる》と言ってもらったことは 喜んでよいのでしょうか。 とにかく 絶対の世界に 経験思考を侵入させてはならないと考えます。そのあとでは 信仰としては 一定のドグマがあります。経験的存在(ナザレ村のイエスという生身の人)が 同時に 絶対者(キリストなる神)でもあるというそれです。 昔 仏教にも首を突っ込んでいましたので ただし 途中で 聖書のほうへ移ってしまったので ひととおり整理しておきたいと思っております。 いま気づいたのですが 絶対値について 《絶対なる神には 性はなく 男神も女神も ほんとうには ない》という話が共通のようだと? そのようにも感じますし どこか違うようにも・・・。数ないし絶対値が 経験世界のものなのかどうか?・・・ちょっと保留です。 とりあえず このようにて。
補足
(No.6補足欄よりつづく) 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X )》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考して抱く神の像(――すなわち《神》と言っていても それは《考える》の問題= Y-Zi である――)ではないということである。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間Zの歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者Xを想定したときから すでにわたしZiは そのXによる介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形( nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われる。) 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮に変化を受けつつも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計の誤解やら対立やらを 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示をも含めて わたし Zi の X 体験および X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば それは はじめの想定や規定の成否・当否にかかわるものであるはづだ。吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合いながら 認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず ここまでを ご批判にさらしたいと思います。
- kigurumi
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No.2です。 >今回(これまでにもありましたが) 《質問の意味をちゃんと理解できていない》です。 論争? 覚えていないです。 まず、私が書いたことが明確ではなく、誤解されていた場合、再度「そういう意味ではなく」と例を出して、言った意味を説明することはよくあります。 説明と論争は違います。 そして、質問者が捕らえ方を間違えいるため、理解不能に陥っていると思えた場合は、「その言葉はそういう意味では使わない。」として例をあげて説明することもある。 説明をしているのに、私が質問者にケンカをふっかけているように見えたのでしたら、ケンカをふかっけていたのではなく、説明を試みていただけです。 ただ、誰でも言葉の捕らえ方を間違えていますよ と言われたら、いい気分はしないかもしれません。 知らないということを恥だと思っている人は、もっと得ようとせず、相手にケンカふっかける言葉を選んで、攻撃的になるかも。 だからいつまでたっても無知のまま。 知らないということは恥じゃない。 知らないということを自覚しないことが恥なんです。 で、私はあなたの名前を覚えていません。 私は回答するとき、質問者の名前を見ない。 で、今後私からの回答を望んでいないのに今までムカついていて名前をよく覚えている私から(笑)回答がついて、血管がキレそうなほどの感情になってしまったら、返信内容を読まないことです。 私は質問者を選ばず名前を見ないで回答するし、何度か会話した人の名前すら覚える気など無いんです。 だから、また今後 また 返信をつけてしまうかも。 そしたら一切読まず無視してください。 返信を一切しないことです。 どの返信を読むか 読まないかは あなたの自由なんです。 今回、私自身は質問の意味をちゃんと理解できているとは思えませんでしたが、質問の内容自体、コピーのコピーのコピーでしかない、紛い物でしかない と思ったから返信を書いたんです。 メッキがしてある偽者を、これは只の石ではなく大変効果な希少価値の高い石に違いない と言ってどれほどの価値か確かめようとしているように思えた。 「やはり宇宙人は確実だ。どういうことで宇宙人は地球に来ていると思います?」という質問に適切なのは、宇宙人の目的を回答することが質問者の満足度が上がることでしょうけど、「そもそも質問に書かれている現象は実際起こってなどいない」と回答に書いてもいいと思うんですね。 あなたの一回目の質問に書かれた内容が、ちゃんと説明できているのか、他のこれからの回答者の返信を見て判断させていただきたいと思います。 1度の質問で質問者は疑問の全てを表現できるか。 回答者は一度の質問で質問者の疑問の全てを理解できるか。 それが可能なら一冊の哲学書はあんなに分厚くならないと思うんですが。。。。。 では、他の回答者の方 頑張ってください。
お礼
参考に。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 三身(さんじん):ブッダの三つの身体。 《法身 dharma-kaya 》は 真理(法)の身体の意味で 永遠不変の真理(真如)の当体をさ〔す〕。 《応身 nirmana-kaya 》は さまざまな衆生の救済のために それらに応じて現われる身体。 《報身 sambhoga-kaya 》は 仏となるための因としての行を積み その報いとしての完全な功徳を備えた仏身である。 (『岩波 仏教辞典』1989)(原語を 簡便な綴りにしています)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
kigurumiさん お答えをありがとうございます。 ただ 逃げてはいけません。 《捕らえ方を間違え〔て〕いるため、理解不能に陥っていると思えた場合は、「その言葉はそういう意味では使わない。」として例をあげて説明することもある》とおっしゃるとおりに わたしは kigurumiさんの《神》の用語の使い方が間違っていますよと 説明したつもりです。 おかしいですが そのままを ここにも 掲げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶対者に 性はありません。(性別は この世の事柄です。絶対者は 性があるか・ないかを超えています)。 《父なる神》と言うのは 表現の便宜です。たとえば経験行為として《精神が精神する》と言った場合 あたかも前者が後者を《生む》という内容で理解しうるように 《子》に対するペルソナとして その関係があたかも《親》であると代理表現するためのことばです。 三位一体を 比喩として 光の源(あたかも父)と 光そのもの(あたかも子)とその明るさ・暖かさ(それとしてあたかも聖霊)から成ると説明したりします。絶対者に 女神も男神もありえません。 ということは No.1でも触れましたが 《この経験世界の事柄を 超経験世界(絶対者)に持ち込み あてはめてはならない》のです。(想像は自由ですが 絶対という概念には違反します。相対なる人間が 絶対を規定することは適わない)。 〔提示されているところの〕三相一体が〔問題です。それが〕 神話や伝説として あってもかまいませんが 絶対の問題とは 別です。創造のための破壊ではありませんが 《処女-養母-老婆 // 創造-維持-破壊》といった〔三相としての〕現象や行為が この経験世界で行なわれ観察されることは それだけのことです。 貶めるつもりは毛頭ありませんが すべては 縁起・色即是空・無常の世界であり 相対性の問題です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから この経験的な現象や行為を 超経験の世界に持ち込み あてはめてみても それが絶対にかかわることだとする限りでは 無効です。経験を超えている事柄が 経験存在である人間に分かったという矛盾を露呈します。 《「そもそも質問〔いえ ご回答〕に書かれている現象は実際〔――絶対の世界では――〕起こってなどいない」と回答〔へのお応え〕に書いてもいいと思うんですね。》 というよりも 起こっているか・いないか そのようなことは どちらとも 分からないのです。なぜ 分かるのですか。なぜ 神のことが 分かるのですか。表象不可能でしょう。表象不可能のことを 絶対あるいは神と言うのです。 そして経験世界で捉えたものごとを やはりこの神なる絶対の世界に 投影しても 何の意味もありません。神に 男も女もないのです。 この議論から逃げてはいけません。そうではないでしょうか。
- mmky
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(「全知全能の神」とも呼びうるとき 法意識は 世界の創造主なのかどうか。 ・・・法意識は 世界の創造主ですね。黙示録にある「私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。」が「法意識」ですね。寺院の門には「あ像」と「ん像」つまり「アルファ像」と「オメガ像」があるでしょ。 (《法意識が肉体を持つとき》 それは 人間としての誕生の時から 法意識であると同時に 肉体を持つ普通の人間であるということなのか。 ・・その通りですね。・・イエス様もそうでしたよ。 ひとつお訊きしてみたいと思うことは 次のようです。 つまり 《仏陀再誕》とおっしゃるのは 《法意識が肉体を持》ったブッダが 釈尊のほかにも 幾人かいたということだと思いますが 釈尊のあとは もう出ないのでしょうか。 ・・約3千年に一度は出ています。イエス様もそうですよ。ルシフェルが地獄に落ちてサタンになって以来出てますね。ルシフェルのせいでしょうね。人間にいくら正しい道を教えても1000年もすればすぐ忘れ、あるいは悪魔にだまされてわけのわからんことをいいだすからですね。仏教やキリスト教の現状をみるとわかりますね。仏陀もイエス様もいつの日か再誕するでしょう。仏陀は80年を全うされた。イエス様は・・ですね。イエス様には次回は人生を全うしてほしいですね。でも妄信のキリスト者が迫害しそうですね。おそらくその時代に私も生まれかわってイエス(名前は違ってるが)の弟子の一人でいるはずですから妄信のキリスト者(ユダヤのパリサイ人のように)と法戦することになるんでしょうね。 何人か応身ブッダが現われてもいいかも知れませんが 一人ひとりにそれぞれ必然的な出現の理由があるといいのではないでしょうか。そうでないと 法意識のその法則が 一体どういう内容なのだろうといぶかるようにならないですか? ・・仏陀の教えは一乗ですから何回でても基本はまったくぶれないということですね。例えば過去七仏の教えは同じといいますね。北極星を指差せばぶれないですね。 絶対が分割されるということ自体が 理解不能です。 ・・残念ながら理解されようがされまいがそのようですね。モーゼやイエスの教えにはないですね。肉体を持った時のご本人及び弟子の認識力の問題でしょうね。救世主とよばれても仏陀までいってないということですね。霊界は哲学的に理解できるものじゃないですね。また新約、旧約聖書にあるほど単純なものではないということです。すべてが高度に体系化されておりまたその不可思議さを理解することができるものはそう多くないということですね。それゆえ特定の時代に特定の人達にのみ伝えられてきたんでしょうね。 最後に それから、仏陀もイエス様も何度も転生されています。そのたびごとに我らも転生し、教えを学んできたんですね。モーゼの時代、エジプトからの長い旅、釈尊の時代、精舎での学び、イエスの時代、ナザレでの説法を聞いてきたんですね。そして現代ですね。みんな持ってる知識や経験を一度すべて白紙に戻して静かに心の中を振りかえってみれば思い出しますよ。その長い道のりを。
補足
補足してくださって ありがとうございます。 けっきょく 奥義をお持ちのようで それは 人間の経験合理性を超えているとおっしゃっるからには 他門の者が 教えを乞うには へだたりが大きいと言わざるを得ないようではあります。 細かい事柄はありますが―― (1)《最初であり最後である》と なぜ創造者であることになるのか。(また これは 明らかに ブッディスムとは異なる説ですよね。それはそれで いいわけですが その宗旨を命名されてもいいのではないかと)。 (2)ゴータマ・ブッダも もし生まれた時から 完全な人間であると同時に 完全な《法意識》であったとするのなら 時間的に発心し修行をして成道したというのは あくまでただの方便なのか。なぜ方便を用いる必要があったか。 (3)ブッダ降臨が何度もあると 有り難味が薄れます。というより 同じ《一乗》のおしえなのなら 一度明らかにすれば あとは 人間の側の問題だと考えられます。法意識は 人間をばかにしていませんか。また そんな存在として 造ったのですか。 (旧約聖書では 人間はどうしようもない存在ぶりを見せていて ヤハウェーから一方的な愛の手が差し出されるのみではありますが。その場合も 預言者としてあくまでただの人間が 神の言葉を担ってはたらくのみでした)。 あと これも覚え書きになりますが―― ブッダが 何度も転生し 《教えを説く》というあり方に抵抗を感じます。説法などいっさい要らない(目覚めのちからは 例外なく誰にも備わっている)ということを伝えるために キリスト・イエスという存在が出たのだと理解していますから。 すでに《法戦》の様相を呈してまいりましたが もちろんここは 論争の場ではありません。経験思考で理解しうる説明の範囲で よろしかったら お答えを寄せてみてくださいませ。(超経験の内容も 必然的にかかわるようでしたら それは 仕方ないことです。参考に勉強してまいります)。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。 質問の意味をちゃんと理解できていないかもしれませんが、、、 思想って変化しますよね。 人が移動すると、思想も移動し、移動先で変化することもある。 別の地域に移動したとき、あるいは別の社会になったとき、それに適合するため、元の思想に改造が加えられ、その社会に改造されたことにより、受け入れられたりする。 MAという言葉は印欧諸語において「母親」を意味する基本的な音節であり、しかも、マーそのものが「女神」の本源的な名称として崇拝されていた。 仏陀のおかあさんの名前にも(MA-ya)その思想として使われているし、イエスのお母さんの名前としても(Ma-ria)登場している。 エジプトの最後の審判をする女神(MAーat)にも使われている。 (10戒はこのエジプトの死者の書の内容の簡略版) で、この根源の最初にして最後の絶対者である女神の概念は、過去ー現在ー未来 と考えられ、それを別な言葉で表すと、処女ー養母ー老婆、創造主ー育成主ー破壊主 などともされた。 イランの月女神MA-hをQis-MAh(運命)と呼び、キス・マーがトルコに入って転訛し、キスメトになった。 MAhは一連の救世主を生むとされた。 それぞれの救世主は「母なるMAhによって導かれた者、与えられた者」 の意でmahdi(マーディ)と呼ばれた。 ペルシャ人はMAhの名を「死と再生」Mourdad-Ameretatという文字から作られた聖なる言葉 とした。 この表意文字MAは、女神の乳房からの父を飲むことによって得られた不死の状態を意味すると言われた。 で、古代からMAの概念は三相一体とされていたわけなので、 で、仏陀という意味は、奥義を窮めた者、あるいは祝福されたもののことで、油を塗られ聖別たものと同じ概念。 多くの仏陀がいたが、この世に復活された秦の仏陀はただ一人マイトレーヤ、仏教の世界でいう師 あるいは「未来のブッダ」で、カルキという者に似た存在だった。 カルキは神ヴィシュヌが化身する最後の9番目のもので、審判の日が近づくと現れると言われた。 救世主は正しき者を判定し、悪しき者を滅ぼし、最後に新しい天界と地界を創造するために用意されたものとした。 この思想はヘブライ人のユダヤ教の発展 または キリスト教の誕生に影響を与えたと思えます。 で、三柱神の概念は、紀元前14世紀に、ハッティ族とミタンニ族から生まれ、紀元前5世紀のバビロニアでは、三柱神は太陽神シャマシュ、月神シン、星の神イシュタルとして現れたりした。 もともとは女神の属性とされたものが、その三柱の一つまたは二つを男神に変えていったり、父ー母ー息子として、息子を救世主としたりしだしたようなんですね。 しかし、変化させてしまったことで、元もとの意味が見えてこなくなります。 三相一体という概念がわからなくなる。 >あくまで 時間過程を伴なった悟りの結果 絶対者としての実現が成ったというのでしょうか。 法身の意味も知りませんし、そう日本語に約される前の単語 及び意味も知りませんが、、、、 ゴーダマ・シッダールタはMA-yaから生み出されたとされていますよね。 性交無しに生まれたと。 漢字の木という文字。 本来の形は逆じゃないかと聞いたことがある。 なるほど逆にすると形が現実と一緒になる。 山。 日本では神、またはの住む場所としていますよね。 ヤという音は神を意味することもある。 これも逆にして読んでみるとma-ya。あら ただの偶然でしょうか。 なぜ修行僧は神が住んでいるとされる山にこもるのでしょうか。 絶対者 女神のもともとの概念は、創造者ー維持者ー破壊者という山荘一体ですが、バラモンがこの3つの機能を果たすブラフマー ヴィシュヌ シヴァという男神の三相一体の神を考えたとしても、タントラ経典は「三相の女神」こそがまず最初にこれら三神を創造したと主張している。 じゃ、ゴーダマ・シッダールタを生んだマーヤーは誰が創造したか。 女神は自らを創造したとされる。 だから根源であり絶対主なわけです。 この根源の女神の概念がマーヤーという意味で、ゴーダマ・シッダールタの本当の母親の名前じゃあないと思えます。 三身常住は初めて聞いたので、どういう意味か調べてみました。 どのサイトも曖昧に書いてあり、よくわかりませんでしたが、 「常在此不滅」(三身常住) というのを見つけました。 ああ、、、だからそれが女神の概念。 最初にして永遠者ってことですよね。 別の表現だと、初めであり終わりである者ってこと。 再度、 >絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。 神の受肉としだしたのは、女神の概念が男神にとって変わられだしたからじゃないでしょうか。 <男性の出産> 神話には「神が口から他の神を生んだ」というのがいくつもありますよね。 口から生んだ すなわち言葉によって誕生した とか言い出しますが、もともとは男神崇拝の人が男は子供を埋めないという絶対的なものをなんとかするために、男神が口から生んだとかしたようなんですね。 「神は言葉であった」という概念が生まれたのは、そういうわけだったわけです。 そこから賢者や救世主は性交なしに誕生するというお決まりの話ができることになった。 だから、賢者の母親は息子から生まれたという理屈の通らない神話も残っている。 ブラフマーは蓮から生まれた という意味は比喩で、文字通り花から生まれたんじゃなくて、蓮は女陰の比喩。 蓮の上に座っているのは、ただの女からじゃなくて三相一体の女神から生まれたって意味だと思います。 で、なんとか女神と同質になろうとして、まず形から入ったようなんですね。 それで男の修行者は女神と同じになろとして女装をして儀式に臨むようになった。 全てにおいて女神と同質になろうとしたわけです。 女神と同質になれば、最初にして最後の者、つまり永遠者になれるはずって考えたんじゃないかと。 >三位一体については 神の受肉という点で 対照させていただけばよいかと思うのですが。 夜明けの明星 救世主キリストとして、ルシフェルっていますよね。 ルシフェルは創造主 すなわち女神と同質になろうとして、女神と性交するうことを挑んで、落とされてしまった。 旧約聖書に彼の失敗が同情的な見方で書かれている。 バビロニアの神話からきており、「明けの明星シャヘルは父である至高神エルの地位を奪うため、母アシュラを娶ろうとした。母なる女神との婚姻は、至高神としての地位獲得の証であった。」 母 すなわち 最高神になろうとして失敗してしまった。 神の受肉という概念がいつ頃からなのかは今のところわかりませんが、族長がだんだん勢力を拡大していき、神により選ばれた強い者である→神の受肉したもの というふうに変化していったんじゃないでしょうか。 >応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。 たとえものすごい賢者であったとしても、死んで終わりです。 生前どんなに偉大な思想を確立したとしても、その思想を学んだとしても、死を免れません。 何も持っていけません。 生きているうちにこそ「俺は悟った」と知覚できるんです。 しかし、思想は後世に残せます。 前の人の思想を自分なりに消化して、確立して、そして死に、その思想を後世に人が参考にしてまた作り、そして死ぬ。 それを、、、、 でも思想を確立した人は、死ねばそれで生は終わり。 ただ、前の人の思想を後に人が受け継ぎ発展させることはできます。 すると前の人は今も生きていることになるのか? 再度、大昔に解いた内容をスラスラ説明できる人が誕生したら、その人は、再生したということで同一人物か? ノーですよね。
補足
《三身》についての説明は たとえば こうです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《法身》は絶対的真理そのものをさし 永遠不滅ではあるが人格性を持たない。 《応身》は歴史的世界に現われたブッダの身体であって 人格性を持つものではあるが無常な存在である。 《報身》はその両者を統合した仏身である。それは 衆生済度の願いと実践を重ねることによって報われた功徳を持つ身体であり 真理の生きた姿であるとされる。 (『岩波 仏教辞典』1989年版) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これと 三位一体との異同を問う質問です。 後者については さしづめ 《絶対者が そのまま 人間となった。すなわち 完全な神であると同時に 完全な人間である存在が 世に現われた》という思想として対照させるなら どうでしょうかという意味です。 以下は 付録です。 絶対者に 性はありません。(性別は この世の事柄です。絶対者は 性があるか・ないかを超えています)。《父なる神》と言うのは 表現の便宜です。たとえば経験行為として《精神が精神する》と言った場合 あたかも前者が後者を《生む》という内容で理解しうるように 《子》に対するペルソナとして その関係があたかも《親》であると代理表現するためのことばです。 三位一体を 比喩として 光の源(あたかも父)と 光そのもの(あたかも子)とその明るさ・暖かさ(それとしてあたかも聖霊)から成ると説明したりします。絶対者に 女神も男神もありえません。 ということは No.1でも触れましたが 《この経験世界の事柄を 超経験世界(絶対者)に持ち込み あてはめてはならない》のです。(想像は自由ですが 絶対という概念には違反します。相対なる人間が 絶対を規定することは適わない)。 三相一体が 神話や伝説として あってもかまいませんが 絶対の問題とは 別です。創造のための破壊ではありませんが 《処女-養母-老婆 // 創造-維持-破壊》といった現象や行為が この経験世界で行なわれ観察されることは それだけのことです。 貶めるつもりは毛頭ありませんが すべては 縁起・色即是空・無常の世界であり 相対性の問題です。そしてさらに この相対の世界に 果たして 絶対者が どうかかわるのか あるいは かかわらないのか これを問題にしており いまは ブッディスムとクリスチア二スムとの基本的な原理における比較対照です。 しかも すべては なぞです。或る意味で《死ねばそれで生は終わり》の存在であるゆえに われわれは けっこう 知恵と知識と力と心を尽くして 観想をもおこなうようです。 それには われわれは 心を清め〔られ〕なければならなかったのです。《心の清い人は さいわいだ。神を見るであろう》。(と言っても おそらく――顔と顔を合わせてではなく―― その背面を見るということだと思いますが)。 ありがとうございましたと述べると これからの回答をこばむように響きかねないので よします。つまり これまで何度もおこなってきた論争の相手 kigurumiさんにしては 今回(これまでにもありましたが) 《質問の意味をちゃんと理解できていない》です。 なお言語の音韻の対照としては 次の説があります。 (1)擬音擬態語:必ずしもオノマトペではないですが / ma /は 赤児が音を出しやすいので 《母:ママ》を意味したり 《食べ物:まんま》を表わしたりするようです。 (2)語源を調べる:釈迦の母の名 Mayaは《まぼろし・魅惑》の意味で Maria(あるいはミリアム)は 《水》に関係してなかったですか。《マイトレーヤ》は 《友情・慈悲》で 弥勒菩薩の名だったのでは?うんぬん。 (3)恣意性によって成り立っているとの説。 (4)その他。
お礼
こんばんは littlekissさん。 《設問にもひとこと触れるべし》とは 絶対者を向こうに回しての科学の勉強を進める中に ひとこと質問の中の概念などにも触れておくならば この場が成立しますよという意味です。 正面から答えてくださったのですね。 とは言うものの littlekissさんは 絶対者の洗礼をまだ受けておられないようですね。いわゆるキリスト教なり マルクシスムなり あるいは ブッディスムでは親鸞(他力本願)なり日蓮(これは迫力だけの絶対の問題のようですが)なりの洗礼を浴びるような機会がなかったというふうにお見受けします。そういう日本の昔からの思想情況の中にいらっしゃる。まさにスサノヲ・アマテラスの世界であるようにも思われます。つまり へその曲がっていない人でいらっしゃる。 神と仏の定義にかんしましては よろしかったら わたしのNo.6&5の補足欄の《論文》をいじくってみてください。 なお上の補足欄は 余計な文章です。今では 書いた当時の自分の心境とは いくらか違って来ているように思われます。ようやく《日本人であること》に馴染んで来たのかも知れません。そういう状態だったということも 絶対者との関係を現実に自分のこととして捉えるようになったことに まちがいなく つながっていると思います。 今回は 手前勝手な言説にて失礼します。(歴史は歴史ですので)。
補足
わたしがいかにどん底に落ちたか いちど 聞いてくださいますか。仏教の温(ぬく)い慈悲では満足し得なかった。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 誇るのなら 1 太宰治ではないけれど わたしは萎縮していた。 わたしが萎縮していたのは 抵抗力の現われである。 萎縮という反応じたいが わたしに与えられたわが抵抗力である。 2 わが日本人は 勇敢にも不仕合わせに耐えている。 萎縮しない。 3 だが もしそうだとすれば わたしから見れば そこに抵抗力はない。 4 いや抵抗力があって強いからそうなのだと言うとすれば 互いの仕合わせは すでに諦め 放棄したからだ。自分自身のそれは 放棄していないかもしれない。 5 ここでいう仕合わせとは シンライカンケイのことだ。 6 だから実際には 自分自身の仕合わせ自体は放棄していないというのは ありえない。自己矛盾なり。カンケイなのだから。 7 そもそも〔根はいい人だからという理由で〕人を信じたことのないわたしは そもそも人間じたいについて〔信じてくれと言われて〕信用することはできないと考えているわたしは 信頼関係に入ることについては 諦めていない。 8 たとえば 約束を守ることだ。違えるならば 訳を説明し 詫びることだ。 9 生身の人間どうしの信頼関係にひびが入るのは 実際だ。だから 修復する。諦めない。 10 欺かれるならば 萎縮する。抵抗力があるからだ。諦めていないからだ。 欺かれたというその不仕合わせに勇敢にも耐えることはできない。 存在を放棄することができないからだ。 《欺かれるならば 我れ在り。Si fallor, sum. 》だったのだ。 11 嘘と演技とで 勇敢にも《抵抗する》ことはない。シンライカンケイの破綻なる不仕合わせに勇敢にも耐えて 萎縮はせずに 大胆にも嘘と演技なる虚構のうちに立ち向かうことは しない。そうすることは 抵抗ではないからだ。そうするのは すでに抵抗力がなくなったからで 信頼関係の修復を諦めたからで だからこそ 《果敢なる忍耐》が始まるのだ。萎縮という・存在としての抵抗は消える。 12 なぜって 虚構で破綻を修復しようというのは 修復をほんとうには諦めたからだ。 13 ましてや その破綻に輪をかけて いまのフィクションを二重・三重に膨らますことは出来ない。そうする人 そうできる人は 勇敢にもその不仕合わせに耐えようとしている。 14 破綻という事実は 取り返しのつかないことだと考えているのかもしれない。けれども その破綻の上に城を築こうという。相い対する別の人ごとに蜃気楼閣をふくらませる。 15 不仕合わせに耐える《勇気》は ストーリをこしらえる想像力の豊かさ その演技のうまさへと そこでは 《発展》する。これが 《世の中》であり 《大人の世界》だとなる。 16 不仕合わせに耐えることが出来ないという抵抗力 その能力 これが人間の能力であり この弱さを もし誇るのなら 誇ろう。 17 ぎゃくに言おう。萎縮せずに不仕合わせに耐えられるという理性のちから その強さ これは むしろ人間が人間を信じることができるという美学にもとづいている。 18 根はいい人なのだからというので 人その人については 信用することになっているという一大虚構の美学。日本人であることじたいのシュウキョウ。 19 欺かれて 欺かれるのは当然のことと受けとめたところで抵抗力をなくしたゆえ 幻想の構築に走った・・・。 20 欺かれて 人その人については信用しあっているが 信頼関係についてはその破綻をそれでよいと認めている。そこで 抵抗力を捨てた。いや そんな抵抗力など要らないと考えているのかもしれない。人自身を信用しあっているということについて 実は そのこと自体が虚構なのだから これの構築を絶えず要請される。その基盤には 社会共同のものがよい。古くは 自民党と巨人と太閤秀吉と。《強い》ものであることが要請される。 21 この強さは 死に基盤を置いている。どうせお互い いつかは死ぬ身だ。死ねば 神である。いい人であり 信用しあえる。だから 生きているうちは あるいは もし死にたくなければ えせ宗教でよいから 長いものに巻かれつつ 和を以って貴しと為せ。そうすれば 不仕合わせにも耐えられる・・・。 22 抵抗がなくなった。抵抗力が消えている。不仕合わせに耐えることが出来ないという能力が欠如している・・・状態。 この現実を見よ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~