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日本の縦社会の人間関係は必要悪か

日本は民主社会と言われながらも、先進諸国の文化にはない縦の人間関係が非常に幅を効かす社会だと思うのです。  組織や人間関係を築く際、日本人は相手が自分より年齢が上か、肩書きが上かで態度が変わります。言葉使いも極端に変わります。これはあらゆる社会に見られます。才能や人格が乏しくても1年早く生まれたからと先輩風を吹かせます(外国から来た人は一様に驚く現象です)。諸外国でも年配者はある程度敬いますが、日本ほど卑屈にもならないし、後輩でも才能があれば素直に認めようとします。   先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う方が社会をもっと生きやすい社会風土を作ると思うのですが…。私は必要悪とは思わず、社会悪だと思っています。

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noname#45430
noname#45430
回答No.9

 いい問題提起ですね。他の方達の意見も勉強になりました。  ところで、私が以下のように言ったら、どのように評価してくれるでしょうか?ちなみに私は40代半ばです。  もし、「縦の人間関係」が全く無い社会で、あるプロジェクトで決定事項が生じ、みんなで議論したとします。この時意見はまとまるでしょうか?答えはまとまりません。なぜなら、採用された意見の主が優秀ということになり、他はダメということになるので、絶対に他人の意見を是と認められないからです。ちなみに、このような社会では全ての局面で、争いが生じます。勝つという結果が全てだからです。  逆に、「縦の社会」が完全に固定している社会を考えてみましょう。この場合、下の意見は全く採用されないでしょうか?答えは否です。どんな組織も必ず問題に直面します。この場合、下の意見を採用しても自分の地位は侵されません。むしろ、広く下を使って良い意見を採り上げたと上に評価されるので、損はありません。  上の話はくだらないとお思いでしょうから、歴史を見てみましょう。  まず、中国の王朝ですが、概ねその創世記には功臣の粛正が行われています。激しいところでは、漢の劉邦、明の朱元章、最近では共産党の毛沢東が大粛正を行っています。これは、政権初期には、まだ地位が完全に固定化していないため、いつ寝首をかかれるか分からないからです。この功臣の粛正に成功した政権が長期政権を維持できています。日本でも、徳川家康が功臣をかなり粛正しています。  今度は、千葉周作です。彼が江戸で名をなしたとき、その出身地の伊達藩では殿様が「あれを我が藩の剣術指南役に取り立てよ。他藩に取られるな」と指示したのですが、藩の剣術指南役からの反対で、重臣達が「あれは百姓の出で、藩の格に合いません」として、採用しなかったということがありました。その後、御三家の水戸藩が、千葉周作を藩の剣術指南役に取り立てたため、伊達藩の重役らは非常に叱責されたそうです。  このエピソードは一見、質問者の意図に沿うようです。しかし、むしろこれは意外に江戸時代の武家というのは中途採用が多かったことを物語ります。そして、もし伊達藩に千葉周作が採用されていたら、前の剣術指南役は解雇です。  つまり、江戸時代は意外に縦社会が固定されていなかったと言えるのです。その中で、下の優秀性を認めることは、自分が解雇されたり、格下げされたりすることを意味します。だから、重臣達は自分たちの生活を守るため反対したと理解できます。  今度は、私の経験談を、少しお話しします。  私は、大学時代ある武道をやっていました。その時の私たちの上下関係は固定されていました。その私たちから見ると、野球部の先輩風や後輩いじめは随分酷く見えました。リベラルな野球の後輩いじめが、私たち武道をやっているものより酷いのは何故か?とおもったものです。  今、思えば、野球は結局監督の評価で容易に後輩にレギュラーの座やポジションを奪われるスポーツだったからだと考えられます。先輩には既にその大学で、後輩より一年以上長く苦しい練習をしてきている自負があるのです。それが簡単に奪われるのですから、たまらないでしょう。自分の地位を侵しそうな後輩は先につぶしておくに限ります。  先輩風というのは、縦の関係が容易に覆る社会ほど吹きそうに思いますが如何でしょうか?  なるべく明確にするために極論に走っています。為念。    

classicgaski
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 指摘された中の江戸幕府は、強固な縦社会でした。社会体制的には、停滞期ともいえる社会だったのでしょうね。そうした点で礼節などが重んじられる形式主義が幅を利かせる社会だったともいえますね。ただ、徳川政権の柱であった重農主義の中にあって、アジアで最も先端をいく商業が堺を中心に発展して、商人が力を持った時代でもありました。江戸文化そうした商人の影響を受け結果の社会でした。武士は無為徒食の権威だけが頼りの集団に成り下がった時代です。商業社会は明らかにその実態は縦社会と縁遠いものです。実力と才能だけが問われる社会構造を作る因ともなりました。 信長、秀吉、家康ともお雇い外国人などから世界の動静を把握し、商業の重要性を認識していました。また、この三人に共通するのは門閥や出自にこだわることなく、才能ある者を登用していることです。そうした点で実力主義を認める芽が育っています。坂本龍馬のその発想の原点は商業主義、実力主義でした。江戸幕府の縦社会のありようをへどが出るほどに嫌っています。一方、あの勝海舟はアメリカから帰国し、アメリカ社会の様子を幕府老中から聞かれ、「アメリカでは賢い人が偉い位置を占めている」と答えたそうです。明治維新は、実力と才能が評価される社会への移行期だったと思うのです。 私は高校時代野球部でした。勝利のためには本来、学年は関係ないはずなのですが、どうしても上級生優先でした。私のチームは負けることが多かったのですが、敗因を真剣に考えることもなく上級生優位は変わりませんでした。今の甲子園を見ていると一時代前よりも下級生が多くなって、まさに実力主義に基づいてチーム構成されており、好ましい傾向と受け止めています。 勝つことが目的であれば、一年苦しい練習してきたというのはあくまで個人レベルの問題であり、勝つという目的に対してはそれを表に出す性質の問題ではありません。そんな自負は捨て去るべきなのです。苦労しているのは1年生でも同じで、むしろボール拾い、先輩のユニフォームの洗濯、後片付けを先輩の軽い命令でやらねばならない後輩こそ、苦労していると言えます。どうゆうわけか、今でも野球部が他のクラブに比較して、封建的な体質を残しています(総じて野球部が最も強い縦社会の体質を残しています)。

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  • lv4u
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回答No.3

>>先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う方が社会をもっと生きやすい社会風土を作ると思うのですが…。私は必要悪とは思わず、社会悪だと思っています。 通常、「年齢」、つまり生きている年数が長い人のほうが、知識・経験・判断力が優れていることが多いです。これは、小学生と中学生、成人などを比較すれば、多くの方は同意すると思います。 また「肩書きが上」ってことは、下のものよりも、多くの情報に触れることができるわけで、「なにが重要か?」って価値判断の点で、部下とは相違することも多いと思われます。もちろん、部下にそういう情報を提供すれば、皆が納得ずくで行動できるかもしれませんが、情報漏洩を考慮すると無理なことも多いと思いますし、その背景などの説明に時間がかかりすぎる可能性もあります。(小学生に、経済情勢や世界情勢など、あまり説明したくはないですね) よくわかっていない人を含めて、議論ばかりやっていているのは非効率って面もあるので、とりあえず、「年齢が上」「肩書きが上」の人の判断を優先させるのは、いいと思います。 と、ここまでは一般論です。 実際には、質問者さんが言われるように、年齢が上、肩書きが上の人が誤った決断・命令を下すことで、経済的に大きな無駄を発生するとか、もっとヒドイ場合は、組織が「社保庁」とか「ミートホープ社」のような犯罪集団に成り下がることもあるわけですね。つまりは、「縦社会」が害になっているわけです。 また、独創的で、優れたアイデアは、年齢が若いほうが産み出しやすい場合も多いです。そう考えると、次の疑問につなります。 >>諸外国でも年配者はある程度敬いますが、日本ほど卑屈にもならないし、後輩でも才能があれば素直に認めようとします。 そうですね。では、なぜ日本ではそうならないのでしょうか?それは、日本では、「Aさんの案・意見=Aさんの人格・能力」ってみなすからです。多くの人が「Aさんの案、はおかしい。その案は、前提条件がいろいろ満たされて、初めて成功するが、それを満たすのは客観的に難しい。だから、A案は駄目、失敗するだろう」と思ったとします。 でも、それを発言することは、「Aさんは愚かで、駄目な奴だ!俺のほうが優秀だぜ!」という意図を表明しているようにとられてしまうわけです。それがクーデターとして成功すれば、政権交代ですが、一般的には、潰されてイジメの対象になるか、発言者が組織からはじき出されます。 では、なぜ諸外国ではそうならず、後輩の才能を素直に認めるのか?それは、小さいときから、学校や家庭で、ディベートの訓練を、宗教・結婚・政治・国際問題などをテーマとして議論しているからです。「Aさんの意見≠Aさんの人格・能力」とは決してみなしません。Aさんの意見もBさんの意見も、「客観的事実」と「論理的推論」および「価値判断」によって優劣を判定します。そこには、年齢や肩書きは入り込みません。「優秀な意見」「優秀な案」が採用されるのです。 これは、旧日本軍が縦社会的に戦ったのに対し、米軍が階級を問わず「優秀な作戦、アイデアを採用する」「事実・実績重視」で、新兵器、新しい戦法などを採用したことにも現れています。戦後、米軍は日本軍について「彼らは、決して失敗から学ぼうとはしなかった。何度も同じ過ちを犯してくれた」と評したことに尽きますね。(ミッドウエーの大敗も、それまでの戦闘での失敗を無視した結果です) ただし、日本人がディベート能力を身につけた場合、小泉のようなワンフレーズ政策や現在の無策内閣は、強烈な批判にさらされ、政府は、やりにくくなるでしょう。 結論として、日本人のディベート能力欠如が、縦社会の弊害を拡大しているということです。

classicgaski
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 lv4uさんの小さいときからディベートで訓練されているという意見に私は賛成します。日本の学校のように先生の一方的な講義形式は、自己主張を対外的に弱くするどころか、多様な価値観を無視するかのようなポピュイズムに陥り、空気だけを読んで大勢に流される日和見主義に傾きかねません。葛藤さえ起こさないため、自己の存在価値さえ見出せかねないことになるでしょうね。虚無主義に走り、無気力、対人恐怖症、鬱など人格形成を阻害する要因に取り囲まれてしまいます。 疑問さえ封じる授業は、子どもたちの好奇心に刺激を与えず、結果、子どもたちや若い人が惰性に流さざるを得ない状況を助長していると思うのです。例えば、かなり前ですがアメリカ最優秀教師に選ばれた女性教師がいました。今ではかなりの教師、学校が実践しているという授業法です。これもディベートが中心です。人種偏見を是正する授業でした。児童を2班に分け一方は人種差別は悪い、一方は悪くないという立場で意見を闘わせたそうです。日本ですとここで終わりですが、この授業では、今度は攻守立場を変えそれぞれが反対の意見を出し合った。この授業の効果は、児童が2つの立場が理解できたことにあったそうです。それ以来、目に見える人種差別がなくなり人種同士で固まることがなくなったとのこと。 縦社会は、往々にして権威をかさに威張り、偏見固められて歯止めが効かず、人格否定までいってしまう。周りも認めてしまう怖さがあります。時津風部屋の問題も相撲社会という隔絶された組織ですが、誰一人として止められかったところに私は問題の根深さがあると思っています(いじめと可愛がりの見極めは難しいでしょうけど)。 弱い立場の者を軽くみる組織や社会を不合理と感じながらも黙認する。自己の無見識を正す機会の少なさも問題かも知れません。旧日本軍については私も勉強していますので、lv4uさんの意見に大賛成です。

  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.2

質問者さんのいう先進国・諸外国というのは欧米のことでしょ? アジアにはアジアなりの価値観・文化があるし、イスラムにはイスラムのものがあるのです。決して欧米やキリスト的価値観が正しいということはありません。 年功序列のシステムというのは、突き詰めて言えば弱者救済のシステムでもあります。成果主義や能力主義を取り入れてそれで上手くいくのかというと決してそうではないですし、例えば欧米からでも日本の終身雇用制度のメリットを指摘するレポートがあったりします。 成果主義というものは、具体的にいうと平均以上の能力を持つものの優遇です。逆に言うと平均以下(つまりは全体の約半分が該当します)のものは落ちこぼれるわけです。欧米圏ではその受け皿として、宗教が存在しておりボランティアや、福祉、寄付そういったもので弱者救済が行われているわけですが、アジアでは儒教的価値観がそれを救っているのです。 外国というか欧米を見て素朴に憧れるのは若い人に特有の症状だと思いますが、世界と一口に言っても実は色々な価値観があるということに目を向けましょう。

classicgaski
質問者

お礼

回答どうもありがとうございました。 先進諸国とは決して欧米諸国とは思っていません。むしろアジア諸国の文化の多様性と奥深さに、文明にも増して尊敬の念をもっているほどです。場合によっては、欧米諸国の文化は画一的にさえ見えます。アジアほど差が鮮明でもないとも言えます。一方、文明の価値基準に狭い意味での優劣はつけられても、見方は時代によって変化しますので評価は難しいですね。 文明を評価する場合、その優劣、正悪というよりも光と影という二面性の捉え方が主流になっていると思うのです。例えば、現代の環境悪化は文明の劣悪な負の部分ですが、『人類運命共同体』という概念は、メディアや交通手段の発達という点で文明の評価される部分でしょう。文明や文化の根底を成すといわれる宗教も、欧米諸国やイスラム世界は一元化されていますが、アジアは種々雑多でまさに多様性の宝庫です。多様性と違いを認め尊重する態度と価値観にこそ、優位性を与えるべきだと思うのです。 年功序列は生活設計のうえで安定をもたらしますが、それに拘る組織は頑迷固陋な保守性に走り、時代の要請に柔軟な対応ができなくなる可能性が大きいとも言えます。まるで幕末から明治にかけての武士の存在と重なります。現代のリストラはそこに安住した40代50代がターゲットにされましたが、必然的結果と言えるかもしれません。 私は誤解を与えたかも知れませんが、今年で60歳になりました。様々な価値観を認めることこそ縦社会の対局にあるのではないでしょうか。

  • fonera
  • ベストアンサー率52% (38/72)
回答No.1

恐れ入ります。 一度出来上がったシステムは、(自壊以外では)なかなか壊れません。 社会悪か必要悪かにかかわらず、そのシステムに乗って行動するのが、もっとも摩擦を少なくできるからです。 (その為、日本の「慣例主義」は非常にうまく機能します) 現代においては社会悪であるかもしれないが、その慣例に則ると物事がスムーズに進む(「日本人である」という確認が取れれば、契約によらずとも共通認識が構築しやすい)ので、必要(必要悪)であるという認識なのだと思います。 今まで上記の社会で生きてきた人間にとっては、 「先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う」のは、難しいと思います。認めるだけではなく「後輩を上司としても構わない」となると、さらに難しいと思います。 往々にして、今までの社会で生きてきた年月が長い人ほど、会社の中では偉かったりしますね:-P

classicgaski
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 安定した社会・組織を望むというのは人間の本性かも知れませんね。 しかし、摩擦が起きるのが想定されても弊害の方が大きいと分れば、組織改革や第三の道を探る必要性が求められると思うのです。保守的で頑迷固陋な柔軟性に欠ける組織は、時代の要請に応えられないどころか、権威に安住して、ともすると安易な慣例主義に走り勝ちです。縦社会ほどこの傾向が強いと思っています。

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