私も大好きな武将なので、わかる範囲で回答させて頂きます(^^)
本名はどうやら「信繁(のぶしげ)」らしいです。でも「雪村」の方が
かっこいいですよね!私はいつも「雪村」で通しています。
とにかく一言でいうならば、父親の昌幸ともども、あの徳川家康を
(しかも家康がある程度の力と権力を兼ね備えて以降の話)あらゆる場面で
痛快に、そして苦しめた武将と言う事で、光ってますね。
父親が存命中に2回も徳川の大軍と戦いながら、これを巧妙に叩き
目的をしっかり果たした上でちゃんと退けています。
ただ、武運つたなく、2回目に退けた時はあの関が原の戦いに関連した
戦いであった為に、戦場の本命である石田光成率いる西軍が負けてしまった為に
昌幸と雪村は国許を追われ、高野山という所に蟄居(謹慎)する事に
なってしまいました。
ちなみに雪村の兄の「信行」は本家と分家して、家康方についていたので、
「真田家」そのものは無くなる事はなくて、ちゃんと明治まで続きます。
この辺りにも物語があるのですが、長いので省きます(^^;)
それから十数年後、父親の昌幸が失意の内に亡くなります。
このまま雪村の人生も終わってしまうかと思われた時に、あの豊臣最後の戦いに
なる「大阪冬の陣、夏の陣」が始まります。
雪村は豊臣側につく事を決意し、高野山を脱出します。
大阪城の戦いにおいては、国力や兵力の差が大きく、徳川家康も幕府を開くなどして、
権力面では絶大を誇っていて、まかり間違っても負ける事はありません。
そんな戦いにおいても、雪村の部隊は非常に強く、散々徳川方をてこずらせました。
雪村の甲冑や旗指物など、全てが赤に統一していたので「真田の赤備え」といわれて、とにかくかっこよかったそうです(笑)←ギャグです、ごめんなさい(汗)
最後の戦いとなった「大阪夏の陣」では天下無双の名城、大阪城も掘りを埋められてしまい、丸裸の状態で戦うしかない、絶望的な戦場でした。
次々と豊臣方の武将が討ち取られていく中、雪村の赤備えの部隊は、最後の突撃を
家康の本陣に向かって行います。この戦いぶりが後に雪村の名声を高め、
数ある戦国武将の中でも、一際人気が高い理由になります。
少しの勝ち目も無く、家康の本陣に辿り着く事すら不可能と思われた無謀な突撃
だったのですが、鬼神の如く突き進む赤備えの部隊に、さすがの徳川方の
名のある武将の陣を次々と打ち破ります。破った陣の中に、あの「伊達正宗」が
あります。どうです、凄いでしょ?
まさかと思われた雪村の部隊が、とうとう家康の本陣に辿りつきます。びっくり!
そして、とうとう家康の本陣でさえも打ち崩して行きます!燃えますね~
あまりにもの凄まじすぎる攻撃に、雪村の部隊がついに家康本人が見える所まで
突き進んできました。ここでさすがの家康も、なんと、切腹する事を決意します。
もしかしたら、家康は一年早く死んでいたのかもしれなかったのです。
それくらい追い込まれたのでしょう。一種の恐慌状態になったと思われます。
それでも部下の必死の説得と懸命な護衛があり、そしてやはり数に圧倒的に優る家康軍は
この土壇場で持ちなおし、家康の切腹はまぬがれました。
これで真田雪村の赤備えの部隊は大軍にかこまれ、とうとう力尽きます。
この時、雪村も戦死しました 享年48才です。
この戦いの後、雪村は敵方の武将からさえも「真田日本一の兵(つわもの)、
古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由」と雪村を誉め称えました。
劣勢、必敗の戦で、強大な力を持つ家康に戦いを挑み、敗れはしたけれども、
そのあまりにも鮮やかで、そして奮戦ぶりが人々の心情に強く働きかけてくる
のが、この真田雪村の魅力ではないでしょうか(^^)
長くなった(汗)、書いているうちに熱くなりました(^^;)すみません!
お礼
熱いコメントどうもありがとうございます。これを読んでますます真田幸村に興味がわいてきました。宮城県出身なので、伊達政宗・片倉家との関係をもっと調べていきたいと思います。最近知ったんですけど、宮城県白石市(片倉家の領地)に真田幸村の墓があるらしいんです。でもそれは形だけのものとかいう説が強くてあまり有名ではないそうで・・・。それにしても幸村の勇敢さには惚れますね~。