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死と、悲しみの感情のズレ【長文です】

大切な人の死を知らされて、それを悲しいと感じるのに 数日のズレがあった場合はオカシイのでしょうか。 無意識のうちに制御していたとか、考えられるんでしょうか。 (私の反応を、家族は異常だと言います) 詳細は、事実と反応に分けて下に書いてあります。 事実: 親友が突然に亡くなった。私はそれを電話で知らされた。 私は家族・共通の友人らに連絡した。 彼の家、遺体のある部屋へと私は向かい、直接彼に触れた。 翌日に通夜が行われた。 更に翌日葬儀が行われた。 葬儀の際、私は初めて涙した。 私の反応: 彼の死を聞いたとき『大変なことが起きたぞ』と理解しました。 しかしながら、嬉しいのか悲しいのかが分からなかったんです。 教科書には“人の死は悲しいものです”と書いてあるので、 必死にそれを言い聞かせていました。 友人らに連絡を取ったとき、彼らの反応とは裏腹に、私は冷静でした。 遺体を見たとき触れたとき、悲しみも何もありませんでした。 通夜の際、私は悲しむことも泣くことも無かったんです。 ところが、葬儀のとき突然に涙が溢れてきました。 幾らハンカチでぬぐっても止まらないほどでした。 こんなに悲しかったのかと、自分自身で驚いていました。 その日以降は悲しみに沈む日が続きました。 一週間後、私はカラ元気で振舞うようになり、 数ヵ月後にうつ病となりました。

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回答No.2

20代前半,男です. 私はあなたと似たような経験をしています. 友人の死を知ってから,知ったという事実は理解できているのですが,死んだという実感が無く,後の葬式の後に初めて号泣したという経験があります. そしてあなたと同じくそれから数週間後にうつ状態に陥りました. あなたのご家族は異常だと仰ってますが,人には感情の持ち方に個人差があるようです. 実の親が亡くなっても涙一つ流さない人も居ます. 私見ですが,感情的に成熟していない人がそのような体験をするのではないでしょうか. うつ状態に陥るのも,感情の機能が上手く機能していないからだと思われます. もしかしたら,あなたは悲しみの感情を受け入れることだけではなく,喜びの感情なども受け入れることが苦手ではありませんか? 少なくとも私にはそういう傾向があります. 感情よりもロジック(理性)が先立ってしまうような傾向です. もう一度自分の心を振り返ってみてはいかがでしょうか. そして,今後の対策に役立ててみてはいかがでしょうか. 参考までに.

9075qong
質問者

お礼

回答有難うございます。 >もしかしたら,あなたは悲しみの感情を受け入れることだけではなく,喜びの感情なども受け入れることが苦手ではありませんか? そうなんです。喜びもやっぱり、数日遅れてきます。 まず安全を確かめて、何度も確かめて、それから感情を表すんです。 その時間稼ぎのために、理性を身にまとうのかも知れません。 入試の合格通知のときなどは、醒めた子供なんて批判も受けました。 感情の機能が退化している、と言う意識は以前からありました。 だからカウンセラーに相談していたりします。 一進一退、ちょっと前進。 バランスの良い人間を夢見て。 このたびはお礼が遅れてしまい、申し訳ないです。

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noname#86241
noname#86241
回答No.6

生きることが苦しいと感じている者にとって死は安らぎです。 死んだ人に対しては「お疲れさま」というか。 私はそうでした。 大学時代にかわいがっていた後輩が交通事故で突然、亡くなりました。 彼は複雑な家庭環境を抱えていて。 私も当時は色々と悩みを抱えていたので。 少しでも力になってあげたいとよく話しをしましたが、結局は何の役にも立てず。 彼が死んだと知った時、何も感じませんでしたよ。 あっけないというか。 むしろ、彼女でもないのに、彼のことを好きだったという女の子がワンワン泣いているのを見てあきれました。 (彼の彼女は彼のお母さんをなぐさめていました) 彼は本当に「生きていたかったのか?」と。 その時に思いました。 私もいい年になったので、身近な人たちがポツリ、ポツリと亡くなります。 やっぱり涙は出ませんよ。 ただ、もう会えない、話しもできないのだと思うと悲しいですが。

9075qong
質問者

お礼

回答有難うございます。 偶然です、私の友達も事故でした。 何故と煩悶しても答えは得られず、彼の反応もない。 それでも何故を追求して、詰まりました。 結局のところ、感情の揺らぎを隠そうとしていたのだと思います。 年上が亡くなることにほとんど抵抗感は無いのです。 けれども、同い年や年下がなくなるのは辛いです。 悲しみの衝撃波の大きさを思うとき、ココロ痛みます。 最後に、お礼書くのが遅れてしまったこと、申し訳なく思います。 それでは。

noname#38051
noname#38051
回答No.5

養老孟司先生は、幼少時のお父さんとの別れを、40台の地下鉄の中で突然号泣しつつ悲しまれたと書いておられました。 親戚の方に「お別れをいいなさい」といわれ、何もいえなかったとか。 思春期から、大人になっても人に挨拶ができず、怒られた。 地下鉄での号泣以来、あいさつができるようになった。 やっとお父さんとの別れを認めるだけの喪の時間が過ぎたのでしょうね。

9075qong
質問者

お礼

回答有難うございます。 養老孟司先生の本も読んでみるつもりです。 喪の時間は周囲がどう言っても、 自分のペースで行くべきなんでしょうね。 じゃないと、うつ病になっちゃったりとか。

回答No.4

おかしいとは思いません。 十数年前に祖母が死にました。 全然悲しくありませんでした(大好きな祖母でした)。 僕もとても冷静だったのを憶えています。 通夜のあとも一晩中一緒にいましたが、涙は出てきませんでした。 僕の場合は葬儀の時も涙を流すことがなかったので、9075qongさんの方が人間味があると思います。 9075qongさんがおかしいとしたら、僕はなんなのでしょう。 繰り返しますが、大好きな祖母でした。 人の心は不思議なものです。 ショックが大きすぎて、心がリミッターを働かせたのかもしれません。

9075qong
質問者

お礼

回答有難うございます。確かに、心は不思議ですよね。 彼の死に涙したとき、親に言われました。 『お前がそんなに彼のことを想っていたとは・・・』と。 涙の有無で悲しみの深さを測るのは、やっぱり変な気がします。 相手に失礼だと思うのです。

  • snorrons
  • ベストアンサー率32% (9/28)
回答No.3

 人は抱えきれないほどの大きな負荷が心にかかると、機能が停止してしまいます。失礼な書き方で申し訳ないのですが、フリーズした状態です。そして、少しずつ故人への執り行いを通じて、実感が湧いてくるものなのだと思います。  よく、臨終の際に号泣する場面がありますが、それは、その人が幾ばくもなく亡くなることが、心の中で準備されているからに他ならないと思います。冷たい書き方ですが。  目の前で、ピンピンしていた人が突然、この世から消えてしんまったら、泣くなんて余裕というか、泣くに至る理解なんてできるはずがありません。  人は亡くなったことを理解して、現実のことだと判断できて初めて涙し、悲しむのだと思います。  故人のご供養は、故人の御霊のために行うと同時に、残された者の心の整理なのだと、お説教を聞いたことがあります。喪の仕事は、残された者の現実・事実にたいしてのリハビリだと私は思います。  悲しみに暮れることも重要な受容のための心の活動なのだと思います。  ただ、それがあまりにも大きく、事実を消化できないほど抱えこんでしまった、また受容するには時間が足りなかったのかもしれません。  故人をしっかりご供養し、悲しみ、故人が志半ばで生涯を終えなければならなかった分、生きていくことが,残された者の使命だと私は思います。

9075qong
質問者

お礼

回答有難うございます。 あなたの仰るように、きっと抱え込んでしまったのだと思ってます。 現在では欝も回復し、健やかに日々暮らしています。 時折、彼を思い出しながら。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

随筆で有名な寺田寅彦が自分の体験として貴方そっくりのことを書いています。ちょっと題名を忘れてしまったので申し訳ございませんがご参考になるかも知れません。寅彦の場合は愛妻でした。

9075qong
質問者

お礼

回答有難うございます。 早速、その随筆を読んでみようと思います。 他の回答者を含めて似た内容の回答が多いので、安心できました。

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