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音訓で名前の読み方が複数/変更する例とその意味合い
子どもの名前をつけるとき、戸籍に振り仮名がつかず、制度的に読みの変更は許容されているということを知り、読み方を子ども本人にいつか自分で決めさせたいと考えています。(ちなみに今晩がお七夜で、もうすぐ出生届を出します)。 たとえば信長を「信長公記(しんちょうこうき)」と読んだり、 「義経記」を「ぎけいき」と読んだり、菊池寛がひろしをカンと読ませたり、そういう音訓を行き来する(どちらかといえば訓から音へ)は歴史的にもよくある気がするのですが、そのような例と、現代におけるそうした複数性や変更はどのような印象をもたれるのか、個人的なご意見で構いませんのでうかがわせていただけませんか?
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人名の音読み、訓読みですが、これはどちらが正しいのかではなく、人名の呼び方についての慣例の問題です。 人名を音読みにするのは、 1.敬うべき古人の本名(諱、忌み名)を音読みにして最大限の敬意を表す場合 2.訓読みが分からないので、便宜上音読みにする場合 に分けることが出来ますが、特に1.を「有職読み」(ゆうそくよみ)といいます。 古来より、人名の本名である諱、忌み名を口にすることは堅く憚られていました。そこから、特に尊敬する人物に対して本来の訓読みから音読みにして敬意を表す習慣が生まれたといわれています。明治時代以降でも自分の尊敬する恩師等の実名を音読みで呼称することがしばしばあったみたいです。 ちなみに1.ですが、思いつくままにさらっと述べると、 源頼光(みなもと の よりみつ)→(みなもと の らいこう) 小野道風(おの の みちかぜ)→(おの の とうふう) 藤原佐理(ふじわら の すけまさ)→(ふじわら の さり) 藤原行成(ふじわら の ゆきなり)→(ふじわら の こうぜい) 藤原定家(ふじわら の さだいえ)→(ふじわら の ていか) 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)→(とくがわ けいき) 伊藤博文(いとう ひろぶみ)→(いとう はくぶん) でしょうか。 2.は、 中宮定子(ちゅうぐう ていし) 中宮彰子(ちゅうぐう しょうし) 式子内親王(しゃくし、しきし ないしんのう) など、男性に比べて史料に残りにくい女性に多いみたいです。 『義経記』『信長公記』は1.に該当しますね。 余談ですが、ハマコーこと浜田幸一は、よく森喜朗元首相のことを「もり きろう」と言います。しかし、内容は森首相を批判するものばかりです。うーむ。 さて、読み方を子ども本人にいつか自分で決めさせたいとのことですが、前述の通り有職読みは「他人が尊敬の念をこめて呼称する」ものであり、「自分で自分の名前を有職読みする」ものではないことにご注意ください(雅号やペンネーム、出家時の法名などは除く)。なので、個人的にはそのような有職読みはすごく違和感を感じてしまいます。 また、戸籍には残らないとのことですが、周りの人間の記憶にはしっかりと残るでしょう。今まで「正道(まさみち)ちゃん」と呼んでいたのに、ある日「これからは「せいどう」と呼んでください」というのはものすごく不信感が募ります。逆も然りです。 ですので、個人的にはそのようなことをせずに、一生呼んであげられる読み仮名をお名付けになるほうが宜しいかと思います。
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- mapato
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#3です。 >ただすごく卑近な例では、周囲でもそういう渾名をつけられていた友人は結構おりました。作家仲間という狭い世界で起こることも、僕らの卑近な世界で起こることも結局そう大して変わらないのでしょう。 記録(?)に残されていてわかり易いということで作家の例を引きましたが、周囲から敬意や親しみを込めて「音」で呼ばれるということは勿論著名人に限ったことではありません。 「作家や政治家じゃあるまいし」というのは親御さんがはじめから諱系の名前を音読みさせることにしまうことで、本人の意思とは関係なく誰もが「音」で読むことを強いられてしまうという点が、伝統的な感覚で見るとちょっとどうかなと思ってしまう事柄であるということでした。 音読みは飽くまで他人がそう呼び始めるものであって、作家とてそれがある程度定着してから筆名とするという順序であった訳です。 書き方がわかりづらかったかもしれませんね。すみません。 「小鳩ちゃん」ですか・・ちょっと洋風な香りもする可愛らしい呼び名ですね。 ご家族の愛情が伝わってくるようです。 お子さんが健やかに育たれますことを。
- mapato
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こんにちは。 基本的には#2の方が仰っている通りだと思います。 ただ明治以降には「親しみを込めて名前を音読みする」ということもあったということです。 これは恐らく明治になって「諱」と「通称」の使い分けが出来なくなってしまった為、本来「諱」を避ける為のものであった「通称」の代わりに、諱型の名前を音読みするという感覚だったのでしょう。 例えば質問者さんが挙げられている菊池寛なども、友人芥川龍之介の詠んだ句に「ヒロシとは俺のことかと菊池寛」というものがあることからもわかるように、親しい友人も皆「カン」と音読みしており、「ヒロシさん」などと呼ばれると非常に不機嫌になったそうです。 松本清張なども当初は筆名の読みも「きよはる」であったのに、皆「セイチョウ」と音読みされてしまう為、とうとう筆名の読みも「セイチョウ」にしてしまったということです。 勿論そこには「敬意」もありますが、一種「あだな」的な感覚で音読みが用いられていたことも確かなようです(作家や政治家のように自分から縁遠い人物の場合は、どう読むのかわからず「俗称」的な用いられ方として自然そうなることもあります)。 明治の国語学者上田萬年はその名を「かずとし」と読むのが正しいとされていますが、後輩で親しい友人であった新村出でさえ生涯どう読むのか知らなかったというくらいで、ローマ字での署名ですら「Mannen」と記したものが見つかり、どうやら自らも専ら「マンネン」で通していたらしいことがわかるとか。 しかしやはり自ら音読みにするというようなことは例外的なことですし、それまで「諱」と「通称」とを使い分けてきたものを無理に「名前は一人一つ」としたことでの無理が背景にあります。 周囲が自然に敬意や親しみを込めてそう呼ぶのはいいのですが、自らというのは伝統的な感覚から言うと違和感は否めません。 そういえば最近若い人に最初から「諱」的な名前を音読みする(例えば文明と書いて「ふみあき」ではなく「ブンメイ」と読ませるような)名前をちらほら見かけるようになった気がするのですが、親御さんがどのような思いでそのようにされたのかわかりませんが、「作家や政治家でもあるまいに」といった印象をどうしても受けてしまいます。 余談ですがハマコーが森元首相を「キロウ」と呼ぶのは、そこには何も込められていないのにわざとそのように呼ぶという皮肉や、敢えて俗称的な読み方をして「あんたの名前の正しい読みなんて知ったことではない」という含みを持たせているように感じますね。
お礼
ご回答ありがとうございました。「作家や政治家でもあるまいに」という感覚はわかるような気もします。名前が一人歩きするくらいの人物ということなのでしょうね。ただすごく卑近な例では、周囲でもそういう渾名をつけられていた友人は結構おりました。作家仲間という狭い世界で起こることも、僕らの卑近な世界で起こることも結局そう大して変わらないのでしょう。 本人の自称はひとつのきっかけであって、最終的には呼ぶ人がどう呼ぶかにかかっているのでしょうね。 僕らと同世代の人が子どもにつけた名前の多くは、どう読むかよくわからないものも多く、それらに対して子どもたち自身がこれから互いにどんなふうに接していくのか、楽しみでもあります。 ちなみに結局うちの子には「ふみお」という(僕らの感覚としては)オーソドックスな名前をつけましたが、「泣くな小鳩よ」という古い歌から「小鳩ちゃん」という愛称を妻の母からもらい、現在はそういうふうに呼ばれることが半数以上だったりします。
- PENPENMAKKY
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人名は本来訓読みです。 「信長公記(しんちょうこうき)」は本の名前であり、かつ本当に「しんちょうこうき」と読むのか不明です。若しかしたら「のぶながこうき」なのかもしれません。「義経記」も現在「ぎけいき」と言っているだけで若しかしたら「よしつねき」なのかもしれません。
お礼
ありがとうございます。書物の名前で、通称というのはそのとおりなんでしょうね。確かに基本的には訓読みという気がします。出家すると音読みの名前とかいうことはあるかもしれませんね。
お礼
挙げていただいた例から有職読みという意味はよくわかりました。訓読みが基本というのもわかってきました。とりあえず訓読みでつけるので、このような歴史的な事情もわかった上で後はどうするか考えてみたいと思います。ありがとうございます。