個人的には以下が原因だと思っています。
(1)詰め込みで、ただ、覚えるだけでなく、理解をすることが大事だという、本来の精神的な意味としてのゆとりを授業時間の削減といった時間的なゆとりと意味をはき違えたこと。
理解中心にするなら、むしろ、授業時間は増やさないとならなかったはずです。
(2)授業内容を変えても受験システムを変えなかったこと。
授業内容を変えようと、受験で出る問題のレベルが以前と同じで親が学歴志向なら、塾に行く子供が増えるだけです。少なくとも勉強に対しては、学校の仕事が減り、塾がその仕事の穴埋めをしてきた形になってしまいました。塾にいけるかだけの経済力があるかどうかで教育でも格差が現れた結果となりました。
(3)何が本当の意味での学力か論議が進まなかったこと。
90年代後半のゆとり教育の授業内容削減議論を見ると(これ以上前の議論についてはあまり知りません。)馬鹿馬鹿しいもの(台形の面積の公式を教えない、円周率を約3にすることが問題だなど)に終始しており、何が本当の意味での学力かといった論議が行われなかった、行われても国民の意識にまで働きかけられなかったのだと思います。
単純にテストの点で学力が高いかを判断するならば、どちらかというと詰め込み型の方がテストの点は良いように思えます。ゆとり教育の場合、解く過程をもっと大事にして、理解度を計るような学力基準が求められていたのにも拘らず、詰め込み型の時と同じ尺度で測ってしまったために問題があったのだと思います。
これらのことから、結果としてゆとり教育は失敗した(もしくは失敗という印象が強く残った)のだと思います。本当に失敗なのかどうかはともかく、世界的な学力順位が下がったことのみを根拠に失敗だと言っている人は問題だと思います(小学生並の統計の見方です。)。
お礼
(1)など、実情を検討しないで勝手なイメージで実施してしまったという感じですね。なんとも政治は無明瞭な形で進みます。 (2)は大きいですね。教育機関が文部科学省の姿勢に従わない、何のための役所なのかさっぱりわかりません。おのおのおり益しか考えられないのでしょう。 (3)何が本当の学力か、精神論か、そういうものを正面から議論することもできないとしたら。。円周率が3というのは、これ以上悪い表現はないわけで、3という整数と3,14159.の無理数との性格的差異をなんとゆがんだ形で印象付けることになるのだと思わざるを得ません。微分して整数になるとか言う世界じゃないのです。無理数は厳然と無理数なのですから。この「円周率=3」こそ、犯罪的な最大のナンセンスきわまる醜態です。つまりは議論する側がまったく正気の沙汰じゃないということですね。 失敗して当たり前でしょう。 しかし、どういう統計なんでしょうね。その辺のからくりが私はよくわかりません。