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全頭検査をする理由
「食卓の安全学」(家の光協会)という本によると、全頭検査は非科学的だが、「政治的にはやらない時があ」るといいます。(48ページ) 若い牛から検出することがむずかしいことから「非科学的」ということだと思うのですが、これは「政治的」というよりも、「脳死」問題などと同じで、国民の合意を前提に進むという「科学と価値の両立」として必要なことだとなのだと私は解釈しています。。 科学の専門家のみなさんは、この点を道お考えですか。
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自分は、専門家ではありませんが。 ”全頭検査は非科学的だが、「政治的にはやらない時があ」るといいます。”とありますが、この部分がそのまま書かれているのでしょうか?前後に何が書かれているのかが判らないとちょっと判断しかねます。 ところで、これは狂牛病のことを言っているのでしょうね、多分。 類推でしかないため、前提が違うと答えがまったく意味を持たなくなってしまいます。 昔、物は勝手に腐るものと考えられていました。 しかし、パスツールさんは、そうではないと主張しました。 周りの人は、何を非常識なことを言っているんだと思ったことでしょうね。多分、今でもそれを知らずに聞いたら、おいおい気でも違ったか?と言われることでしょう。 では、彼はどうして皆を説得したのでしょうか? 自分で工夫をして、特殊な装置を作って、それを証明したのです。 翻って、この内容ですが、全頭検査が何故非科学的なのでしょう? ここで科学的と言う言葉を使っているところに既に問題があります。 ここでは、非現実的と言う言葉を使わないと、問題のすり替えになってしまいます。 何故なら、科学的に話をする場合、データをより多く持っているほうが、話の優劣をつける事が出来るからです。 1万頭の牛が居て、その中の1%(100頭)を無作為に調べたけど判りませんと言うのと、1万頭調べたけれど該当する牛は居ませんと言うのでは話の信憑性がまったく違います。最初の方だと、じゃあ後の99%はどうなんだよ?と疑われることになります。 科学的に言えば、全頭検査するのが良いことでは有るけれど、現実的には予算が限られているので、政治的判断でそこまでは出来ないと言うのが本当の話でしょう。 ただ、やはりデータを持っている所がイニシアチブを握れるし、発言力も強くなるため、それを今後政治的に活用していくべきです。 若い牛から検出するのが難しいというのも、検査をして初めて判ることですしね。それでも検査して見つかるということは、それ以外の牛も怪しいとなります。