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殺していい、殺しちゃいけないの境界線
食糧にする場合も除いて、絶滅寸前とか天然記念物とかいう話しも置いておいて。 例えば私たちは気持ちが悪いから蜘蛛やゴキブリを殺しますが、もし犬を見ると吐き気がするという人でも犬を殺したらいけませんよね? つまり、殺していい、殺しちゃいけないの境界線は個人の良心の中で引かれて良いものじゃないと思うんです。 たとえば私たちは害になるから体の中の悪い菌を殺すし、ノミを殺すし、蚊を殺しますよね? でも、同じく害になるからと言って、庭に糞をしていく猫を殺したらいけませんよね? 殺していい、殺しちゃいけないの境界線は哺乳類であるかどうかかな、と思ったんですが、私たちは鼠を殺します。 ペットになる動物は殺しちゃいけないのかな、と思ったんですが、ペットになるかどうかなんて人それぞれで、判断は世間の常識にまかせるしかないと思うんです。 じゃあ、境界線は、世間的常識の中にあるのかな、と思ったんですが、それだったらユダヤ人を殺すのが常識となっていた頃のドイツではユダヤ人を殺してもいいということになります。 ここが一番の問題点で、例えば法律で許されている動物なら殺してもいいということになれば、もし人間を殺してもよいという法律ができれば人間も殺していいことになるし、世界の常識なんて、どう変化していくのかわからないと思うんです。 一体、殺していい、殺しちゃいけないの境界線はどこにあると思いますか?
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その境界線はその場の強者が決めているのではないかと・・ だから、その場の強者が変れば境界線は変りますのでどこにあるかは定かではないと思います。 民主国家の一般的な境界はその国民が決めるでしょう。 独裁国家であればその独裁者が決めるでしょう。 で、国際社会でいけばアメリカが決めるんですね・・現状は・・ アメリカの基準はアメリカの国民が決めてるわけですが・・ で、その強者が居なくなったら残った雰囲気の中の強者が決めるわけです。 たとえば、ワールドカップが終われば世界の目が向かなくなるから・・ 犬鍋が復活してくるわけですねぇ。 戦時中の某国では「軍隊」が強者でしたので、 市民を食料とする市場を作り上げたりもできるわけです。 強者の気が変ればそのラインも変るっていうことでもありますね。 僕の友達だったある人は蚊を叩いた僕に言いました。 「殺生はいけないよ。」って。 彼は、ある教団の信者だったわけで、教祖がそう説いていたわけです。 その彼もその教団の行方不明信者のリストに載ってしまいました。 教祖の心変わりみたいなもんですね。 こわいこわい。
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- acacia7
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ごめんなさい・・ ちょっと修正。 「何が境界線を決めるかはその場の強者が決める」 というのはちょっと短絡だったみたいです。 もう少し突き詰めると・・ 「その場の実行者の思考範囲に入る最強の強者が決める」ですね。たぶん。 世論か、国王か、教祖か、将軍か、兄貴か、「俺」か、なにかが その実行者の思考範囲の中で最強の強者がいるわけですが・・ それがこの辺って決めたのに従い、「実行」するわけです。 一神教の宗教団体なんかはみょーに強いわけです。 なんてったって基準が「全知全能の神」ですから。 はっきり行って「自分」が最強な人たちっていうのに近いとおもいますが。
お礼
私はやはりその場の強者が決めるんじゃないかな、と思います。 もし、日本の強者である国民の常識がその人の思考範囲になかったとしても、やはり境界線はそのひとの思考範囲の中の強者であるお兄さんではなく、その場の強者である日本の国民の常識ではないでしょうか。 一神教の宗教団体にとってアメリカもまた然り、だと思うのです。 あ、でも、私が単にこう思っているだけですからね。 どうもありがとうございました。
- hozanna
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普通の人は鼠って殺せるんですか!? 私は絶対に殺せませんが…。 むしろ可愛いです。ねずみっぽいペットを飼っているせいでもあるでしょうが。 私の場合は「哺乳類、鳥類」はかわいそうで殺せない、 「爬虫類、両生類、魚類」は気持ち悪くてころせない(殺した事ないけど)。 その他は殺してしまうかも…っていうものです。 世間一般もそういうもんだと思ってました。 魚は微妙ですが(ペットも多いため) 「温血か否か。」だとおもいます。 世間でもそうかと思っていましたが…。 そうでもないようですね。 そういう人もいますよ~。
お礼
hozannaさんの場合はhozannaさんの場合で、そういう人もいる場合はそういう人の場合で、私が知りたいのはすべての人において引ける境界線です。 hozannaさんがおっしゃっているのは「殺せる、殺せない」の境界線だとおもうんですが私が知りたいのは、「殺していい、殺しちゃいけない」の境界線です。 ご回答どうもありがとうございました。
興味深い質問ですね。よくわかります。 多分多数決じゃないですかね。 そりゃ人の飼っている生き物は殺しちゃいけませんね 被害者が出る、でもこれは器物損壊罪です… 世界に目を向けて一番謎なのは 捕鯨の可否ですかね、欧米の人曰く「鯨はかしこいから殺しちゃいけない」らしい…世界中巻き込んで多数決論議してますし… 俺的な勝手な判断ならば肉食獣の狼やコヨーテのほうがかしこいと思うんですけどね…でも家畜を食うからと邪険にされていますね… 結局最後は多数決でしょう。 多数決で多数を占める方が常識となり、モラルやマナーになり法律になる。 「法律に違反しているから駄目」と言ったり「非常識!」と言ったりってありますが。 「多数派だからそれが正しい」と思っている阿呆の多いこと… 例をあげましょう、 目の前で痴漢を目撃しても捕まえる人はまずいないし 火のついたタバコを外に向けて大手を振って歩く人に注意する人ほとんどいません 電車内で大声で話そうが、携帯でしゃべろうが注意する人ほとんどいない こういう時って見てみぬ振りしている人がほとんどですね。 つまりそれが多数派=常識なんですよね。 痴漢の濡れ衣で「冤罪だ!」と言う人がいる でもそれは「痴漢に間違われる態度」を少なからずしている人がほとんどです。 前に女性、カバンを両手で前で持つ、ちょうどお尻にあたる、揺れに乗じて何食わぬ顔で触りまくる、そういうジジイの多い事…ジジイ連中はその行動が常識です。 某宗教徒なら○○人を攻撃、殺してもいいと教育されています… 一人一人しっかりと考えて答えを出して欲しいなと思います… 鯨だって直接魚を食べませんが、オキアミを大量に食べる事で魚の絶対数は減っています。それをうまくつけば 今は 捕鯨する→野蛮人 でもいつかは 捕鯨する→魚のためを思うよい人 になります。 しっかりと個人的な判断力を養ってもらいたいですね… …だいぶそれましたが「基準は多数決と教育課程」だと思います。
お礼
基準は多数決で決まるとおっしゃっているのに「多数はだからそれが正しい」と思うのは阿呆なんですか?それが阿呆なら基準は多数決では決まらないということにならないでしょうか? よくわからないです。 もしよければ教えてください。 それに、境界線は多数決だけど個人的な判断力も重要なんですか? 個人的な判断力が多数決の結果を生むという意味でしょうか? 個人的な判断力は世間的常識の中で生まれるということもあると思うんですが、どうでしょう。 個人的判断力が世間的常識を生み、世間的常識の中で個人的判断力が生まれ、個人的判断力が世間的常識を生む。 鶏と卵のはなしみたいですね。 難しいです。 どうもありがとうございました。
- 4yuzu4
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難しい質問ですね。 このことについては、前の方が触れているようにやはり「世間一般の常識」の中での話になってしまうのではないでしょうか。 また、この常識は、住んでいる地域や環境によって変わってくると思われます。 鯨を例に挙げてみても保護動物なのか食料なのか意見が分かれます。 その他に、宗教によって殺してはいけない動物があったりします。 インドを中心とするヒンズー教は牛を神聖なものとして殺すことも食べることもしませんし、同じインドの中にはすべての生き物を殺すことを禁じた宗教もありこの宗教は根菜類を食べる事さえ禁じています理由は土の中にいる虫類が抜いて土を洗い流すときに死ぬかもしれないからだそうです。 その人達にとってこのことが常識なのです。 そして戦争の常識は勝つという目的の過程で敵(人)を殺すことは問題ではないということも覚えておかなければいけません。 極度の食糧不足も境界線が動く一つの要因になってきます。 このことから「その地域や時代の世間一般の常識」がその境界線という事になるのではないのでしょうか。 とりとめも無く意見を書いたようになってしまいましたが、難しい問題です。
お礼
やはり世間的な常識もひとつの境界線なんでしょうか。 悲しいことですが、もし「人を殺してもいい」が世間の常識になったら私も含めて多くの人は人を殺すんでしょうね。 おっしゃるとおり、戦争がこのことの良い例だと思います。 どうもありがとうございました。
- puripal
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境界線はその人間によりますが「情」ではないでしょうか。 害虫を殺したり、動物が食料となるのは人間が生活していく上での必要悪ですが、それ以外の目的で殺す場合には「情」に委ねられるのでないかと考えます。 例えば釣りが趣味の人は、食す事が目的でない限り、釣った魚を水へ帰してあげます。 害虫は殺しても、嫌いな人間をそう易々とは殺せないはずです。 また食生活での線引きも不可能です。 クジラを食べないがカタツムリを食べる国。 牛を食べない宗教。 どちらにしても生活環境によって形成された「情」によります。
- puripal
- ベストアンサー率31% (44/138)
境界線はその人間によりますが「情」ではないでしょうか。 害虫を殺したり、動物が食料となるのは人間が生活していく上での必要悪ですが、それ以外の目的で殺す場合には「情」に委ねられるのでないかと考えます。 例えば釣りが趣味の人は、食す事が目的でない限り、釣った魚を水へ帰してあげます。 害虫は殺しても、嫌いな人間をそう易々とは殺せないはずです。 また食生活での線引きも不可能です。 クジラを食べないがカタツムリを食べる国。 牛を食べない宗教。 どちらにしても生活環境によって形成された「情」によります。
お礼
本題からかなりそれるんですが、食べるのが目的でないなら釣りをするな、と思います。 ビデオを見せられたことがあるんですが、針にかかった魚は水の中で、生きるために必死にもがきます。 体に針が刺さりながらも一生懸命逃げよう逃げようとしている姿はあまりに悲惨です。 食べるのが目的でない釣りは、命をおもちゃにしているようなものだと思います。 情もへったくれもありません。 本題に戻ります。 「無用な殺生はしない」と同じように、「情」では、殺しちゃいけないの境界線は引けても、殺していいの境界線は引けないように思います。 どうもありがとうございました。
- larry
- ベストアンサー率13% (18/138)
このへんのことをつきつめると仏教の教えまで いきつきそうですね。 簡単に言うとやはり「無用な殺生はしない」と いうことだと思います。 食料は言うまでもなく、有害な生物はバランスを 考えて、またたとえ無害であっても異常に増えすぎた 生物は人間の手によって殺されていくのは仕方の ないところでしょう。 無用か無用でないかは価値観の違いで争いになるかも しれません。捕鯨の例を持ち出すまでもないですが。 また同族を殺しあわないのは自然界の理ということでしょう。人間同士を含めて。
お礼
「無用な殺生はしない」というのは、世間的常識のなかに引かれる境界線ではなく、私たち個人の中に引かれる境界線だと思うんですが、私が今まで考えた境界線の中でいちばんいいな、と思います。でも、有用な殺生ならしていいのかな?とも思います。 「殺さない」の境界線はこれで引けると思いますが、「殺す」の境界線はこれでは引けないように思います。 例えば、自分の中では「痒いだけだから蚊を殺すのは無用の殺生だ、やめよう」と「殺さない」の境界線は引けますが、「子供を殺したからあいつは殺してもいい、有用な殺生だ」のように「殺す」の境界線は引けないように思うんです。 おっしゃるとおり、「殺さない」の境界線が引けるのは価値観の違いがあっても「殺さない」のは容認され、「殺す」の境界線が引けないのは価値観の違いがあったら「殺す」のは容認されないからでしょうね。 でもこれは境界線ぎりぎりの範囲の話しであって、異常に増えすぎた生物を人間が殺すのは、殺していいの範囲にすっぽり収まっていると思います。 私の考えの中では、ですが。(結局私の考えの中で話すしかできません。幼い。) あと、「同族を殺しあわないのは自然界の理」というのにも例外はありますよね? 金魚だっておなかが減れば金魚を食べるし、良質の蛋白源を確保するために、生殖後、雄を捕食する雌のカマキリは合理的だと考えられています。ほんとかどうか知りませんか、ライオンは子供を谷に突き落として弱い子供を殺すと私たちは言い、それは強い子孫を残すためにいいことだと考えます。 このように自然界の(例外かもしれませんが)理に従うなら、私たちだって食料がなければ人間を食べていいし、強い子孫を残すためなら弱い子孫を殺してもいいということになってしまわないでしょうか? とても良いご回答をどうもありがとうございました。
- Y-port7
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こんばんは。 とてもなるほどなあ。。。っと思ったので、緊張ですが 回答させて頂きます! 私は殺していい、殺しちゃいけないの境界線はやはり 世間一般に通っている「常識」のようなものだと思い ます。猫の虐殺という事件がありましたが、あの時の 反応に見るように、人って自分が大事に思うもの、少し でもかわいいと大切に思うものに対してはすごく敏感で それが死んでしまうとショックを受けるんですよね。 そしてその「大切」と感じるのは、メディアや家族、 友人など近い人からの影響力があると思います。 だけど、ゴキブリや鼠を殺してもあまりショックを 受けないのは、それらの存在が一般的に「大切」な ものと捉えられていないからではないでしょうか。 ただ、おっしゃるように人間を殺してもよいという 法律ができ(あくまで仮定)世間一般的に人間が 「大切」でないと捉えられるようになった時、私達は どうなるんでしょうね。 ただ、ここにもきっと、人間特有の「常識」なるもの があって、それは道徳に反すると大問題になると 予想できますが。 人間以外の動物・植物がそれぞれの意思ではなく、 人間によって死ぬ・生きるを決められることのある 現状は逆に考えれば、そんな横暴な態度を取る人間こそ 殺すべきだと彼らは考えているかもですね・・・ なにはともあれ、色々考えました。 とりあえず、風呂場に出るたび流して天国へ行って もらっていたゴキちゃん、ごめんよ。私の勝手で。
お礼
私もあのティルなんとかとかいう人の猫の虐殺から考え始めたんです。 結局境界線は世間の常識の中にあって、それがどんな形になるにしろ私たちはそれに従わなければならないということでしょうか? もしカニバリズムが常識とされれば人々は皆人肉を喰らうんでしょうね。 今の常識から見たら非人道的でとても考えられないことですが、「それは今の常識で見たこと」にすぎないんでしょうか。 どうもありがとうございました。
hotaruisiさん、こんばんは~。 法律を調べてみたら、”動物の愛護及び管理に関する法律”ってゆうのがありまして、27条が、”牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる”、その他”人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの”を”愛護動物”と定義してます。 それで、愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は1,000,000円以下の罰金に処するとか、罰則があります。 とりあえず、議論のとっかかりにね♪
お礼
でも、それは今の日本での場合であって、時代が変われば変わってきてしまうものですよね? いつの時代でもどこの地域でもどんな法律でも決定的な殺していい殺してはいけないの境界線が知りたいんです。 でも、こういうことを話す時は、「今の法律」の知識も大切かもしれませんね。 どうもありがとうございました。
お礼
ああ!そうですね。 私が境界線は世間的常識の中にあるのかと考えたのも日本が民主主義国家だったからなんですね。 でもまあ、どちらに関わらずやはり境界線が変われば人は人をも殺してしまうんでしょうか。その可能性が高いですね。 何かそこが納得いかなくてこの質問をしたんですが、「境界線はその場の強者が決める。基準が変われば人はその基準に従い、人でも何でもでも殺しうる。そしてそれは、その強者が支配する地域と時代によってのみ許され、もし包括的に含むその地域より広い範囲での強者(今で言うアメリカのような)がいれば、それは許されない。」のかな、と思いました。 どうもありがとうございました。