托鉢とはなんぞや
ある仏教塾のサイトを見ると、托鉢のことが出ていました。そこで疑問があります。
「相手の喜捨は財の布施であり、読経は法の布施。両方の布施は平等」だから、相手に感謝を述べる必要はないのだそうですが、托鉢というのは、仏教のどの宗派にもあり、どの宗派もこれと同じ考えなのでしょうか。
経を読む相手を選んだのは僧側の勝手ですから、悪く言えば「経の押し売り」であり、善意に表現すればそれも「縁」です。
また、そのサイトによれば托鉢をする人自身の心の中にも実は「ありがたそうにじっと手を合わせてお経を聞いてくれる姿に接するだけでこちらも感激してしまいます」という気持ちがあるわけですから、感謝の態度は合理的なものではないでしょうか。にもかかわらず、「対等なんだから礼などいらん」ということをしているうちに、僧は人の心や人の道と乖離した者になってしまうのではないでしょうか。
仏の道は人の道からだと思います。人の非常識が仏の常識としてまかり通るのは、まるでカルト教団のような感じさえします。
お礼
回答感謝です!! よく分かりました。うなりますね、深いです。