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極端を避ける方法

信じようとしたら、疑うのをすべてやらないようにして苦になり、そのような苦をなくそうとして疑おうとしたら、信じることをすべてやめようとして苦になってしまいました。こういう極端な行動をやめるにはどうすればいいのでしょうか?

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noname#80116
noname#80116
回答No.8

極端を避ける必要があるかと言えば 思考の上では ありません。 まっ それは別として 質問の文章で いちばんの問題は 《信じる》という行為が分かっておられないと見受けられることではないでしょうか。 思考や想像の結果を強く保持しようとすることは 《信じる》ではありません。確信や信念は 人間の努力の問題です。もちろん 《疑う》のも 思考です。 信じるのは 思考によって結論が出ない――出るか出ないかが分からない――から 信じたり信じなかったりするのです。根拠はありません。 言いかえると 人間の意志が たしかに 信じると(あるいは 信じないことにしようと)決めたときには はたらきますが それだけで成り立ってはいません。思考や想像の結果を保持するためにするような努力はしません。保持する努力をしないでも 受け入れられるというとき 信じるのです。(あるいは 信じない)。 と考えますが いかがでしょうか。

spitzer3
質問者

お礼

>保持する努力をしないでも 受け入れられるというとき 信じるのです。(あるいは 信じない)。 しかし、「病気が治ると信じたい。」とよく言って、病気が治ると信じている人もいると思うのですが。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (8)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.9

恐怖が根底にあると自覚したとき、極端な信念、猜疑心に振り回されるでしょうか。 そのどちらも恐怖に対して無力ではないでしょうか。 そのことを理解すればそれは終わるのではないでしょうか。

spitzer3
質問者

お礼

>恐怖が根底にあると自覚したとき、極端な信念、猜疑心に振り回されるでしょうか。 そのどちらも恐怖に対して無力ではないでしょうか。  確かに無視することはできないですね。無視せず、疑おう、信じようということなんですね。分かりました。  ご回答ありがとうございました。

回答No.7

矛盾しているように思えるかもしれませんが。 信じるから○○する。 信じないから○○しない。 といった考え方にとらわれておりますと、苦が生じて身動きがとれなくなることがあります。 かといっても、必ずしも、すべてがそうではありません。 苦が生じるから絶対に悪いというわけではなく、そこから何を学んでいくのかが大事なのではないでしょうか。 苦が生じることが苦だとばかり考えておりますと、ますます身動きがとれなくなることがあります。 時には(すべてではありません)、ありのままを受け入れて、良い方向に解釈をしていく経験を積んで行かれますと、バランスがとれるようになるかもしれません。 あっちに傾き、こちらに傾きながら、バランスのとり方を学んでいくのではないでしょうか。 がらりと変わった方向からものを見ることをされてもよろしと思います。 具体的な内容がわかりませんので、これにてとどめさせていただきます。

spitzer3
質問者

補足

>苦が生じるから絶対に悪いというわけではなく、そこから何を学んでいくのかが大事なのではないでしょうか。 確かにそうしたいのですが、無理に私はやってしまうのです。たとえば、「これはもう絶対だめだ」と考えているとき、無理に「絶対に悪いというわけではない」と言って、「これはもう絶対だめだ」と考えているのを抑圧し、苦しみが生じさせてしまうのです。このように生じる苦しみを治すにはどうすればいいのでしょうか?

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.6

苦になるようでは確かに辛いですね。。。強迫的な気分に陥ってしまわれたのでしょうか。 他の御回答者への補足をお借りして失礼かもしれませんが 「夕方に雨が降るということを疑ってしまい」 これは「疑うことを目的に」疑ってしまわれたのでしょうか? 御自分で、たとえば大気の状態や雲行きを観察したり、ここ数日の天候を振り返ってみたりとかはなさいませんか? この例をもとにして考えるならば、雨が降らなかったら傘を持って行ったのがバカらしい。けど少々の手塞ぎは保険のうち、と割り切るのか、または雨が降ったら、傘を持って出なかった場合びっちゃんこに濡れて後悔する、もしくは、どこかで雨宿りを余儀なくされ時間をムダにしてしまう恐れがある。 こうしたときは、傘を持って出たための手塞ぎや紛失のリスクと、持って出なかったときに降られてしまうリスクと、どちらを選択するかということですから、それぞれの場合における自分にとっての許容度を考慮したうえで決断しますね。その許容度は、その時々の事情によっても変わるのが通常でしょう。或いは「傘で手を塞がれるくらいなら」「傘持って出ると絶対と言っていいほど置き忘れる癖があるから」いついかなるときでも傘は持って出ない、と固く決心しているならば、濡れてしまったり時間を無駄にすることを覚悟のうえでの選択になりますね。 結局、自分にとっての許容度、負えるリスクの範囲、そのへんを判断できるかどうかが問われるわけで、それをできなくなったら困ったことになってしまいますね。いかがでしょうか? ファナティックなまでの信じかたというのは一種の中毒状態と言えるかもしれませんし、その点では信じるために疑うということをやらないよう自分に命じるというのとは違うように思います。(或いは根っこは同じになるのかもしれませんけれど。)これは実は心底に信じることを妨げる何ものかがあることに気づいているということでしょう。 また「石橋を叩き過ぎて壊す」という言われかたがありますが、これなどは、むしろ「疑うことを信じずにいられない」といった感じがします。 疑うために、信じるということを自分に禁じなければならなくなるのも、何かしら心底に逆らうものがあるのでしょう。 その心底にある逆らうものを無視しないということが要請されてくるのではないでしょうか。 信じるにせよ疑うにせよ、そのことのリスク、自分の許容度をわきまえる。 その限界を超えてしまうことを引き受けられるのかどうか或いは引き受けることを覚悟するのか。 やはり自分自身に対する推し測りですね。なかなか厳しいことですけど。 重大な結果を招く恐れのないことなのでしたら、余分な力を抜いてみることではないでしょうか。

spitzer3
質問者

お礼

>疑うために、信じるということを自分に禁じなければならなくなるのも、何かしら心底に逆らうものがあるのでしょう。 その心底にある逆らうものを無視しないということが要請されてくるのではないでしょうか。 確かに、無視すると辛いので、しょうがないと思って無視しないようにした方がいいですね。ご回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

「こういう極端な行動をやめるにはどうすればいいのでしょうか?」  勉強が足りんからですね。 1万冊ぐらいまっとうな本を読めば直ります。

spitzer3
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.4

信じるということ、疑うということ、共にベースは恐怖じゃないでしょうか。

spitzer3
質問者

補足

 確かに疑うのが恐怖だから、信じて、信じるのが恐怖だから、疑っていますね。  それでは、この考え方から、どうやって、無理な疑いや、信じることを止めることができるのでしょうか?  なんかちょっと思い浮かばないんです。ほんと、すみません。

  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.3

信じることと疑うことは対極ではありません。 あることを信じるためには、まず疑い、自分で考え、検証して、自分に納得できた時に初めて信じることが出来るのです。 疑いがあるから信じることが出来る。 信じるという行為を考えること、疑うことを辞めるかのように考えている人が居ますが、それは信じているのでなく自分の責任を放棄しているだけです。

spitzer3
質問者

お礼

確かにそうともとれますね。ご回答ありがとうございました。

noname#194289
noname#194289
回答No.2

信じるというのは他の人の考え方を借りること、疑うというのは自分で考えることですから、ご飯を食べようと思って田植えから始めたり、自分が食べないで他の人に食べてもらって自分が満腹するのを期待するようなものですね。そもそもあなたが使っている日本語だって誰か他の人が作ったものです。

spitzer3
質問者

補足

 いまいち良く分からないのですが、これから、どういうふうにして極端な行為を避けることを可能になるのでしょうか?

回答No.1

簡単です。 信じようとしないこと、疑おうとしないことです。 如実知見。 あるがままを見ようとしたらいかがでしょうか。 できもしないことをやろうとすと無理があります。

spitzer3
質問者

補足

 しかし、信じることをしないとき、たとえば、夕方に雨が降るということを疑ってしまい、信じようとしないとき、傘を持っていかず、辛い目に会ってしまうのではないのでしょうか?  また、信じようとすることや、疑おうとすることを無理に止めようとしたら、そこでもまた、葛藤が生じてしまいました。