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ラカンのthe imaginary, the real, the mirror stageについて
- ラカンのthe imaginary(想像界)、the real(実界)、the mirror stage(鏡の段階)は、ラカンが提唱した重要な概念です。
- the imaginaryは、人間の欲望や幻想、イメージなどを指し、the realは現実の無意識や不可知の領域を表しています。
- また、the mirror stageは、幼児期に鏡を通じて自己像を形成する過程を指し、自己同一性の形成に影響を与えます。
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こんにちは。 懸案のフーコーは気になってるんですが、とりあえずこちらから先に片づけましょう。 ラカンは一次文献は読んだことがないので、「こういうことを言っている」ぐらいの知識です。それをもとに雑駁に書いていくので、いつもに増して危ういかもしれません。 だから、あまりつっこまれても、それ以上答えられない可能性は大です(笑)。 わたしがここでおもに典拠としているのはテリー・イーグルトンの『文学とは何か』です。 まず"the mirror stage" 日本語では「鏡像段階」というふうに訳されています。 これは"the imaginary" 想像界と大きな関係があるので、一緒に書きます。 まだ子供が赤ん坊ぐらいのときというのは、赤ちゃんは自分とお母さんの区別がついていません。遠いもの、近いものの区別もよくついていないんじゃないか、という感じもする。 ともかく、この主体と客体のあいだに明確な区分線がひかれていない。この状態をラカンは「想像界」と名づけます。 ----- 「想像界」とは、確定した「自己」という中心を欠く状態、「自己」の総体が、対象へと流入し、対象もまた「自己」へと流入し、これが休みなくつづく閉じられた交換過程を形成するといった状態をさす。(「5 精神分析批評」p.253) ----- ほんの小さな子供、立つのがやっと、ぐらいの子供が鏡に映る自分の姿を見ている。これがラカンのいう「鏡像段階」なんですが、このとき「想像界」にいる子供の内側で、統一された自己イメージが最初に発生する。 それまで「手」とか「足」とか、パーツとしてしか認識されなかった自分が統一的なイメージとして目の前にある。 ところがそれは鏡に映った像であって、真のその子の姿ではない。 ---- 小児はこの像のなかに自分自身を「誤認」する。つまり、その像のなかに、自分自身の肉体においては実際には体験していない喜ばしい統一をみてしまうのである。ラカンのいう想像界とは、まさにそうしたイメージの領域である。私たちはそのイメージを自分自身と同一視する。しかし、まさにその同一視行為によって、私たちは自分自身を誤って考え、誤認へとみちびかれてしまう結果におわる。小児は成長しながら、諸対象と自分とを想像的に同一視することを続けるだろう。そうして、これが、小児の自我(エゴ)がつくられる過程である。ラカンによれば、自我とは、私たちが外界のなかに自分と同一視できるものをみつけることによって、統一された自己性という虚構の意識を、いや増しに強めていくナルシスティックな過程にほかならない。(p.254) ---- この時期の幼児にとって、世界は幼児自身と、他者の肉体、すなわち、お母さんの身体から成り立っている。そこに父親がわりこんできます。父親は〈法〉を意味する。まず最初に近親愛を禁ずる〈法〉を持ち込むのです。そうすることによって、幼児は父親の姿のなかにより広い社会のネットワークを知る。自分がそのネットワークの一部であること、そこには自分のための役割もあることを理解する。そこで、自分の欲望を、無意識のなかへと押しこめる。 父親の登場によって、性差ということが問題になってきます。ラカンにとって重要な用語となる「ファルス」、この「ファルス」によって象徴される父親の存在によって、幼児は性差を知ることになる。 ラカンの独創性は、このエディプス・コンプレックスのフロイトの理論を、言語に置き換えた点です。 ---- 鏡の前で自分の姿をじっとみつめている幼児は、一種の「記号表現」―つまり意味を付与できるもの―であり、また幼児が鏡のなかにみているイメージは一種の「記号内容」であると考えることができる。幼児がみている鏡像は、とりもなおさず自分の意味なのだ。 ----- ここで「記号表現」と「記号内容」はぴったりと一致しています。ここにはまだ差異もなにもない。 ところが父親の登場によって性差という差異を発見し、同時に言語を発見することになる。 最初は、おなかがすいた、寒い、ということを示す信号でしかない泣き声はしだいに、言語へと接近していきます。 ここでふたつのことを無意識のうちに学んでいく。 ひとつには、ひとつの言葉はそれ以外の記号との差異によって意味を成すこと。 もうひとつは、言葉はそれが意味している対象の不在を前提としていること。 こういうことを受け入れて、幼児は「想像界」から「象徴界」へと移行することになります。 ところがこの主体は、自我の支配する意識的生活と、無意識、つまり抑圧された欲望とのはざまで引き裂かれた主体です。 ---- これは、母親の身体つまり現実を「くまなく」想像的に所有している状態から、言語という「空虚な」世界へと追放されたに等しい。言語が空虚であるのは、それが、差異と不在からなる終りなき過程であるからにほかならない。子供はいまや、なにかをくまなく所有するのではなくて、潜在的には無限につづくとされる言語の連鎖にそって一つの記号表現から別の記号表現へとただ横すべりをするにすぎない。…この連鎖のなかでは、いかなる対象も人物も、完全に「現前する」ことはありえない。 … 一つの記号表現から別の記号表現への、この潜在的にはてしがない移行をさして、ラカンは欲望と呼ぶ。あらゆる欲望は、欠如から生まれ出る。その欠乏をあらゆる欲望は埋めようとたえず努めている。人間の言語は、そのような欠如によって作用する。 ---- つまり、ここにわたしがいます、ということは、実際に一緒にいるときには言う必要がない、ということです。推理小説に出てくるアリバイ、「わたしはそのとき××にいました」というのは、そこに不在であるからこそ語られなければならない言明です。上でもちょっと書いていますが、基本的に言語はそのものの「不在」を前提とするのです。 ここからラカンの言う「現実界」が出てくる。 質問者さんはカントを読んでるからわりとこれはピンときやすいと思う。 「現実界」というのは「もの自体」の世界のことです。 現実界とは記号作用の外側にあるもの。わたしたちは知ることも、接近することもできないものです。 だいたいこれで回答になっているでしょうか。 とりあえずはここらへんで。 わからないところがあれば、能力の及ぶ限り、おつきあいします。 今回はイーグルトンから引用しましたが、とりあえず、本だけはいくつか持っているので(笑)。
お礼
回答ありがとうございました、それとFoucaultとLaconのダブルヘッダーをさせてしまい申し訳ありません(汗)。質問はいろいろありますが、この回答を基にまず本を読んでから質問します。 今、論文を四つ抱えているんですけど、その内の二つはFoucaultに焦点を当てながら論文を書くつもりです。また二つの内の一方がかなりハードな課題なんですが、トピックがEnlightenmentとRomanticismについなんです。ここで僕が考えているのは、KantのカテゴリーとLockのempricism、そしてFoucaultのdiscourseとrepresentationそれからLaconです(Laconについてはちょっとまだリサーチ不足で何とも言えないんですが、the subject exists in languageについて調べて行くつもりです)。つまり言葉と主体、そして認識と知識について論文を書こうと思っています。論文提出まであと一ヶ月を切っているんですが、他の論文もなかなかやっかいなので時間がなかなか取れないんですよね。 ありがとうございました。質問は上記します。
補足
返答だいぶ遅れましたが、本当にありがとうございました。