• 締切済み

嫉妬から逃れた理由に失望する

一昔前ほどの私は、すごく嫉妬深くて内心実に穏やかでなかったのですが、いろいろと見聞することによって、「所詮世の中たいしたもんじゃないじゃないか」という印象が強まり、嫉妬の対象も実はあまりろくなものではなかったという認識に至ったので、大して嫉妬しなくなってきたという流れがありました。 しかし、どうも納得行かないことには、私の人徳がアップしたわけでないという感じがすることです。単に認識レヴェルがあがった?悪く言うと世の中に対する評価が下がったのでということです。 こういうのは、やはり本当の「悟り」ではないんでしょうか?それとも「悟り」というのは、世の中に対する評価が下がるという過程を含んでいるものなのでしょうか? 逆に言うと、世の中の実情が分からないので、嫉妬とか劣等感にさいなまれて精神を害す人がいるとすれば、なんとか早い時期から啓蒙する必要があると思うのですが、なかなかそういう動きもないということも気にかかります。

みんなの回答

noname#31063
noname#31063
回答No.10

とても大きな善意を感じる物語として「火垂の墓」があります。 ストーリーは戦争の悲惨さ、命の尊厳や不平等のネガティブなメッセージよ りも、輝く命と希望というメッセージ性を感じるのです。 飽きもせず観ては、心打たれ号泣です。 「4歳と14歳で生きてみようと思った」この一文だけで駄目です!(爆) 自分が未熟なことも無知なことも、誰を信じるか知ってはいる。 だけど、誰も見下したり嫉妬しないで、お腹が空いても生き生き学習や、み んなで幸せを分け合う夢で胸はいつも一杯で、 最後まで「~してくれなかった」を言わないで「ありがとう」と言って目を 閉じた。 こんな偉大な善意があるなんて! 100年生きた人でさえ感謝だけして死ねるか疑問です。 いや、人生永く生きる程、自分を活かさず、他人を活かさず、拘るべきとこ ろを誤り、受け入れず又悩み…が人が生きる内に出来る認識。 人の器が大きくなることが人生の総和なら、どんな偉業を成し遂げたかよ り、どれだけ人に想われて死ねるかも人の器の大きさの物差しに出来る。 想われ具合=悟り具合。 むしろ死後は、どれだけの人に想われているかという規準でしか人生は残せ ない。 そんな死後悟れる人生など要らない、今もこれからも善意を無に帰したくない。 永遠に偉大な生を形にしたい執着が、生きる死ぬに必要以上の資産や土地を 占領して遺産や名所を創らせるのでしょう。 自分の土地さえない旅人は自然に帰るだけで死後も偉大な人に譲るのに。 完璧に善意の人=悟った人とするなら、自分が一番の弱者になって、みんな を大切に扱い、幸せを願って優越感を贈らなければならないのかもしれない。 見下す相手があることは幸いなり。 見下す相手さえなく信じることしか出来ない弱者の死もある。 だから裏切りを覚え生きて欲しかった。 見下す自分が生きることは もっと見下す人により簡単に刺されると 予感し逃げて掴まる(死に)に違いない。 私も頑張って逃げ続けている。

noname#41852
質問者

お礼

私は、4歳はともかく14歳でかなり腐っていたので、そこで生きる事はできませんね。しかし、一般的にいっても、5歳から13歳くらいまであまりよくないという風潮があるのでしょうか。私は、どうも画一的な当てはめみたいなものは、どうも賛同できないです。人によって、35歳で生きようとか、27歳で生きようとか、8歳で生きようとか、なにか一番素直だった時期とか、輝いていた時期とか、なにか納得できる段階に達した年齢とか、自分史的に千差万別なのではなかろうかと。しかし、4歳14歳の純粋さでもってということは、大事な事ですよね。 深いメッセージ性にあるご回答ですね。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

「>嫉妬の対象も実はあまりろくなものではなかったという認識」は嫉妬から逃れる方便としては有効でしょうが、表面的要素に安易に嫉妬してしまった反動にすぎない場合も多いでしょう。 これを悟りと解釈してしまうと、悟るためには嫉妬が不可欠ということになってしまいます。 悟りの過程として避けられない通過点ではあるのでしょうが、嫉妬というむき出しの自我は未だ対極に健在しているでしょう。 確かに人は「たいしたもんじゃないもん」ですが、同時に「たいしたもん」である要素も可能性として内包していると思います。 現在どちらの面が際立っているのかというだけことであって、その意味で変革は重要なファクターになると考えます。 george-mさんが当初お感じになった内容は、反動的・相対的な感覚であって、人を画一的に捉えようとする視点に立ってしまっているのではないでしょうか。 しかし、「世の中に対する評価が下がっただけで、自分の人徳がアップしたわけではない」と、すぐそのことにお気づきになった。 世の中には、評価を下げざるを得ないものもあると同時に思わぬ機会に評価を上げたくなるような事実も現出する。 私などが言うのは口幅ったいですが、物事にはあくまで両面性が存在することが実感でき、且つ自分の生き方から相対性を排除しきれた段階で悟りが訪れるような気がします。 悟ることまでできなくても柔軟性(しなやかな自主性とでも言いましょうか)は獲得したいものと思います。 幼い頃からの教育が大事だと思いますが、大人連中が現在の経済最優先社会でどこまで意識を変えていけるのかが鍵でしょう。 微細な動きにしても、その牙城の一画をくずすべく自らの生き方を変えている方は案外多いのではないでしょうか。 何かの折に、そう感じられることが稀にあります。  

noname#41852
質問者

お礼

結局のところ、仏教徒ではありませんが、無知の罪というものが大きいようです。柔軟性を持っていれば、そうたいした事にも動じる事はないのです。これは、個人の耐性の問題よりも、取り巻く環境とか後天的なものではないかと思います。 内容の濃いご回答ありがとうございました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.8

悟るとは比較することをやめるということじゃないでしょうか。

noname#41852
質問者

お礼

そのとおりです。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.7

george-m 様 >嫉妬の対象も実はあまりろくなものではなかったという認識に至った・・ というのは一種の悟りの過程だと思います。 この認識は決して、 >世の中に対する評価が下がった・・ のでは無く、客観的に御自分の心の状態と現実が理解できるようになってこられたのではないでしょうか。 私が理解している悟りとは、 世の中、ものごとに対する視野をどんどん拡大していくことであり、その永遠の過程です。 心の視野が拡大すれば自分の心の苦しみの原因が何処から来ているのかが理解できるようになります。 又、嫉妬の対象である他人の心の苦しみも理解できるようになります。 そうすると、人というのはどんなに恵まれているように見えても、自分も他者もそれぞれ違った、各々に相応しい苦しみを抱えており、乗り越えなければならない課題を背負っていることに気が付きます。 それが理解できれば、自分の不足の部分に不満を感じ、そのことで別の不足で苦しんでいる人に強い嫉妬心を燃やすことの空しさに気が付きます。 人はそれぞれ違った苦しみを抱えていることに気が付きます。 そして心の苦しみは実は自分自身の問題である・・という事に気づかされます。他者の存在は自分の不満の仮の姿に過ぎません。 自分自身の不満を嫉妬という形で他者に投影しているだけだ・・と分かります。 その経験を積んで行くほど、他者に影響されなくなります。 嫉妬することの無意味さが分かってきます。 嫉妬の対象者も大したことない・・ということが分かってきます。 つまり、世の中の情勢に右往左往しなくなります。 心の表面が少々波立ったとしても、心の芯の部分はいつも穏やかです。 全ての原因が自分自身の心の問題であることが分かっているからです。 これは悟りの過程ではないでしょうか。 勿論、さらにもっと上の悟りの過程が永遠に続くのだと思いますが、私には朧げにですが、この辺までしか理解できません。 (理解は出来ても完全に心をコントロールするのは、未熟な私には難しいです) ご質問を拝した感じでは、充分に悟りの過程を歩んでいらっしゃるのではないかと思います。 >嫉妬とか劣等感にさいなまれて精神を害す人がいるとすれば、なんとか早い時期から啓蒙する必要があると思うのですが、なかなかそういう動きもないということも気に掛かります・・ 確かにそうですね。 でもこればかりは、嫉妬と劣等感の苦しみの経験を繰り返し、その空しさに自ら気が付かなければどうしようも無いと思います。 george-m 様のように・・そして私のように・・ そうすれば、巷に溢れている啓蒙書の言葉が一つ一つ身に沁みるようになると思います。

noname#41852
質問者

お礼

たいへん率直で心のこもったご回答ありがとうございます。全くその通りだと思いました。自分の問題に対して答えを出すこと、そこから話が始まっていて、それができればかなり嫉妬という他社依存的な間隔からは自由で要られそうです。嫉妬とは、未熟さのバロメーターかもしれませんね。

noname#80116
noname#80116
回答No.6

嫉妬というよりも 自己実現の達成度合いだとか満足度合いなどにかかわっているようにも見えますが 嫉妬ということで考えてみました。 恋人が他の男と たとえばプライヴェートの時間に二人きりで 喫茶店に入っていたとするとき  (1)すでに信頼関係にあるならば かのじょを咎めます。もちろん嫉妬してです。 (2)まだ心を通わせていないとき 嫉妬をしても始まらないと考えます。男女として信頼関係に入るのは 一人に決めなさいという態度を持ち続けます。 (3)(1)のとき かのじょが怒ったりして反省もしないならば 諦めます。捨てます。 (4)(2)のとき いつまでも一人に決めることをしないとき やはり諦めます。嫉妬するに値しないという考えです。 このように考えるのですが――つまり 嫉妬は ふつうの感情です―― それは まづ感情のあり方としては 世の中の一般的な問題として見るには 個人的で相対的なものだと思われることが ひとつです。そして その限りで 《人徳・悟り》などとは必ずしも対応していない部分も 嫉妬にかんしては あるように思うということ。そんな見方もあるでしょうか。

noname#41852
質問者

お礼

私としては、自己実現の一側面にどうしても嫉妬心が関わってしまいますね。自己実現はまた自己完結的な問題ではないようです。 例を挙げていただいた件で、男女関係というのもまた、自己実現性と関連を持っています。「こういう自分を認めないのか」という、愛着と自己憐憫とかプライドの問題ですね。それが絡み合って整理が付かない、難しいという印象を抱きます。 男女が必ずしも一対一でなくてもいいとしたらずいぶん楽なんでしょう。

noname#194289
noname#194289
回答No.5

イソップ物語の「すっぱいブドウ」のはなしがありますが、嫉妬で苦しむより良いことだろうと思います。しかし嫉妬がなくなることが悟りというのもかならずしも自明のことではないでしょう。問題は客観的ということではないでしょうか。悟りというのも主観でしかないとすれば、却って画一的に嫉妬をなくさせるような状況は危ないのではないでしょうか。

noname#41852
質問者

お礼

嫉妬とは痛覚やなにかの必要な痛みを分かる感覚であるとすれば、必要なものかもしれません。それから逃れるのは人間の業から外れてしまうことかもしれませんね。ただ、本当にその境地に達せればこの上ない安らぎはないのでしょうか。

  • cariad
  • ベストアンサー率39% (47/119)
回答No.4

世の中をみるのでなく自分自身を見つめ直すことが「悟り」の一歩だと思います。 禅について学ばれると面白いと思います。 禅では禅の心は十枚の絵でわかるといいます。「十牛図」といいます。 牛が本来の自分の姿で今の自分は人となって現されています。 1、尋牛(じんぎゅう)自分で自分を探し始める。 2、見跡(けんせき)自分の中によい資質が必ずある 3、見牛(けんぎゅう)すべてが真理の力で動いている 4、得牛(とくぎゅう)自分を自分のものにする努力 5、牧牛(ぼくぎゅう)自分の願いを努力で実らせる 6、騎牛帰家(きぎゅうきか)悟りとは自分を取り戻すこと 7、忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)本来の自分になりきる 8、人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)「私が・・の意識を消す」 9、返本還源(へんぼんかんげん)あるがままの自然がひろがる 10、入てん垂手(にってんすいしゅ)しらないうちに心が伝わる 長々と書いてしまいましたがこういった内容が十枚の牛と人との絵にあらわされています。 簡単に入れる本でPHP研究所の「図解 禅のすべて」はわかりやすいです。 私には嫉妬心があまりありません。色即是空、空即是色の心です。 宗教家ではありませんが、人生の書として仏教を学ぶと豊かな考え方がもてます。興味のない方にはさっぱりわからない話かもしれませんが、ぜひ一度手にとって見てみてください。

noname#41852
質問者

お礼

世の中をみるのではなく自分自身を見つめ直す、これ究極の精神安定法ですよね。その境地に近づきたいです。

回答No.3

世の中の自分に対する評価を気にするあまり、 時には人を攻撃したり、妬みの対象にしてしまう等 実生活まで脅かす場合は、大抵「自己愛性人格障害」という 人格障害である場合が多いと思います。 その場合、人格障害を治す事から始めないといけないのかもしれません。

参考URL:
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%B8%CA%B0%A6%C0%AD%BF%CD%B3%CA%BE%E3%B3%B2
noname#41852
質問者

お礼

そうですね。そういう例もあるのですね。

noname#31063
noname#31063
回答No.2

嫉妬するのは寂しいから、独占したい所有欲があったからで、 遠い憧れの存在だとか尊敬するような相手なら 見守るだけで自己満足出来るはずなんですよ。 >嫉妬の対象も実はあまりろくなものではなかったという認識に至った そういう認識も他方に可能性を見出し成長した結果かも。 対象に興味を持つより、我に戻ったという根拠に成り得ると思います。 賢明故に。 「悟り」と「見下し」について私見を述べれる立場でも その資格さえ殆どない(汗笑)私ですが 時間を置いて再考してみます。

noname#41852
質問者

お礼

憧れや尊敬の念があれば嫉妬のようなマイナス感情は起きないもんです。成長した結果であればいいんですけどね。

noname#49694
noname#49694
回答No.1

 残念ながら、私は世の中に対する絶望などをもって、ただひたすら何も現実を見ようとせず、狭い世界だけで悪く評価し、冷笑的な態度をとり続ける人たちは、ただの「高慢」あるいは「傲慢」であると思います。  ですから、世の中を正しく見ようと努力し、そこに一人の人として向き合っていくのは素晴らしいことですが、ただ自分が身近に見える事柄だけですべてを判断しようとするのは愚かであるということです。  こういうタイプの人にはほとんど自分に対する過大評価があります。でも外から見て、それほどの価値はその人にはありません。  また一方で自分に対して絶望視することから、世の中を低く見る人たちがいます。「閉じこもり」現象とでもいっておこうと思います。このタイプの場合は、自分を受け入れてくれない社会に絶望し、同時に自分がそこに入れないこと、ついていけないことのふがいなさによって自分に失望します。  このタイプに多い傾向は基本的に見方も行動範囲も相当狭いということです。たいてい家にいるのが好きで、一人でいるのが好きなことが多いです。ですから、自ら社会に飛び込み、いろんな人と出会い、多様な環境のなかに身を投じてみることで、社会の本当の広がりを肌で感じようとしません。たいてい口で言い訳して、家の中か、身近な狭い範囲に閉じこもってしまいがちです。  個人的には「悟り」なんてものはないと思っていますが、もしあるのだとすれば、少なくともそれは社会のなかに飛び込み、真の姿を探し求めて努力することによって見いだすことができるでしょう。もちろんそのなかでいろんな多くの人と関わっていかなければなりません。

noname#41852
質問者

お礼

確かにその通りだと思います。