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関心のある相手の関心ごとを味わってみる
人を喜ばせたいという動機から、とくに自分の興味のないことでも、相手にとって興味があることに付き合ってみるという行為は、相手にとってどれくらいインパクトのあるものなのでしょうね。 例えば、自分は全くアニメなど好きでないのだが、相手の言っていたマニアックなアニメを時間を調べて観てみる。予想通りそうおもしろくもないわい(となるかはわからない)でも話題はできたな。あるいは相手から聞いた自分の趣味に合わなそうな展覧会に行ってみる。大抵面白くない。 この場合、相手は(この人はあえて興味がないのに付き合ってくれたんだ)という感覚になるものでしょうかね。それはうれしいと思うんでしょうか。あるいはもし好意的でない感想を言ったら、かえって帯剣しないほうがよかったんでしょうか? こういう考えが出てきたのも、ネットでも現実でも、人っていうのは今関心の持てるものにしか付き合おうとしないんです。それが、世の中の荒涼とした部分を生み出しているんじゃないかと(もちろん趣味系の同人会などはありますが、もっと一般に拡張してもいいのではないかと)その解決方法に近づくのではないかという妄想を持っています。 教えてgooの理想的回答者は、感心のないことでも付き合って自分を豊かにしようとしているのかな?
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その相手にとっては何のメリットもないように見えるのに 自分の欲求の満足に付き合ってくれるようなケースがあったとしたら、 自分だったら嬉しいですし、警戒心も解かれます。 また、好意的ではない感想については、その正誤を問うものでなければあまり気にはならないと思います。 おそらくは質問内容に関連していることで、自分が思っていることなのですが、 このことは「人間関係の悪循環」や「誤解」の予防にも役立つと思います。 例えば、相手の立場だったらこういう内容の話しを振ると喜ぶだろうという内容を 一日一回くらいでも切り出して付き合ってみるのも結構効果的だと思います。 自分の立場から見れば、その相手が何となく自分の味方になってくれるようになったと思えたり、 自分の愚行にも多少イラつかなくなったり、 自分がその相手に聞きたいことを親切に教えてくれるようになるなどの、 そんな効果もあるかもしれないと思います。 人は得てして、こういう土台を作らないまま、 自分の思い通りに事が運ぶことを望むものですが、 こういう土台を作ることで得られる計算外のことも結構あると思います。
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- winterer
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全く体験しないよりはいいのではないかと思います。 話題の共通するものを作るというところに意義があり、そこから コミュニケーションが膨らむと思います。相手が喜ぶかどうか ということですが、相手によるでしょうね。 相手が、本当にそれが心から好きで趣味としているなら、他人から 否定的な意見を言われても動じないと思います。 しかし、相手が何か自分の心のなかの葛藤を解決するために、 仕方なくそれにすがりついているものを否定する時は、相手は 自分が否定されたと思うかもしれません。 肯定的意見を述べた場合、これもやはり心から純粋に好きで やっている人は素直に喜ぶと思います。しかし心に葛藤がある人は むしろ、「じゃあこれは知ってるの?」「実はあれは~なんだよ」 とか自分の知識をひけらかしはじめて喜ぶどころか優越感に浸るだけで 終わる人間もいると思われます。
お礼
自身の心の格好を解決するためにすがりついているもの、そんな意識を持っている人がいるんですね。これには思い至りませんでした。私自身もそういうものを持ったことがないので、感覚分かりません。 本当に好きなものなら、素直に受け止められるが、すがり付いているものの否定は自己否定と感じる。難しいがそういうこともアル衣ことを覚えておきます。
しかし、この場合、注意しなくてはならないことがあります。 一見同じ体験をしたもののようでも、かなり違った方向性を向いている場合がほとんどだということです。 例えば「交通博物館」に行った体験をお互い語っているような場合でも、ひとりは信号機とかポイント制御の方法論について感銘を受けてそれを人と分かち合いたい。もうひとりは、極端な場合、全体の雰囲気がどうだとかお土産の品がどうだとかいうことに、一番関心が向いていて、ポイント制御など全く念頭にないということ。あるいは、ある展覧会に行ったとして、一人は、その画家の思想的な面に一番惹かれるのに、もうひとりは全く皮相的ロマン的な勝手な解釈に酔いたいために行くのかもしれない。例えば、ボウリング同好会があって、一人はスペアアングル(どうやって残りのピンを取るか)のコースなどを真剣に考えるのに、一人はただどうしても点を取る事にしか興味がない。 世の中、一見まとまっているようで、各自がばらばらな方向を向いていることがほとんどです。つまり、本当に自分が伝えたいこと大事だおと持っていることに、果たして向き合っている人がいるのだろうか?その能力と感性がある人がいるのだろうか?これは大いに疑問ですね。 ですので、やはり有限な人工有限な宇宙の出来事ですから、「自分」という人間は結局は一人なんだということからは逃れられないんですね。あるところで、追求をやめることが、心の健康の秘訣でもあるのかもしれません。
お礼
結局頼れるものは自分だという結論に落ち着いてしまうのかもしれませんね。物事を深く考えずに、軽薄な意識で連帯して(いるような)感覚で生きる事が、結局一番うまくいくのかなんていうような悲壮感にも陥りそうです。でも、こういう心持は実行していきたいです。
自分に向き合っている人の、自分に否定的人の意見は 向き合ってもくれない人の無言よりも、1000倍の価値があります。 自分に向き合って、自分に同調する人の意見は せいぜいその2倍くらいの価値しかありません。 むしろ、否定的なほうが(もちろんちゃんと理解してです)、自分の価値観を見直す機会となって、有意義なこともあります。
お礼
効果ありとのご意見いただき、自信を持ちました。 宗教の格言にありますね。「自信の欲するところを多に施せ」という。その実戦を微力ながらやって行きたいものです。相手の立場になってみるという事の実践ですね。心を開かせる、また自信も何かを発見する機会と思います。宮崎アニメなんて薦められなきゃ一生縁がなかったでしょうからねぇ。