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にせ科学

最近、マイナスイオンだとか、水に「ありがとう」と声をかけると美しい結晶ができるだとか、いわゆる「にせ科学」が世の中に出回っていますが、科学者はこのような「にせ科学」に対し、どのように向き合っていくべきなのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • Karinpapa
  • ベストアンサー率41% (136/324)
回答No.5

No2です。 確かに科学的に全く根拠がないことを、いかにも正しいことのように宣伝する、そして知識のあまりない人を信じ込ませる、というのは科学者からすれば詐欺のように感じるかも知れませんね。 そういう「にせ科学」を提唱している人は、はなから作り話だと思いながら提唱するのは論外としても、自分なりの真実として提唱しているわけですよね。水にやさしい言葉をかけると結晶が美しくなる、という話を道徳の教材として利用した学校がいくつもあるそうです。そういうものを使うべきではないという意見も多く見かけましたが。でも、その話を聞いて「水ですらやさしい言葉がわかるんだから、自分も言葉にはきをつけなくちゃダメだな」と本気で信じて、それからの人生ずっと言葉づかいに気をつけて生きていったとしたら、その子は不幸だと言い切れるんでしょうか。原点は根拠のないことであっても、もしかしたら将来事実を知り裏切られたという気分になるかも知れないけれど、百害あって一利無しとまで言い切れるかどうか、私には自信がありません。  納豆ダイエットにしても、捏造問題が話題になってずいぶん叩かれましたが、それ以前に、テレビの内容を知って実践した多くの人は(少なくともその時点では)満悦で幸せだったかも知れませんね。  ただ、だからと言って、間違いを放置しているのでは、現実と虚構の区別のできない社会になってしまいます。間違いを、現時点での科学に照らし合わせて指摘する人はやはり必要でしょう。現実とSFはやはり同一のものではないからです。SF小説を読んで愉快に感じることはいいですが、あたかも現実であると信じ込ませようとする人がいて、その結果現実と区別できない人が増えてくるのは問題ですね。  「にせ科学」について、なぜ受け入れられているのか考えるべきでしょう、と言ったのも、こういう発想から出た言葉でした。

noname#26816
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >原点は根拠のないことであっても、もしかしたら将来事実を知り裏切られたという気分になるかも知れないけれど、百害あって一利無しとまで言い切れるかどうか、私には自信がありません。 この辺は難しい問題ですね。道徳の授業の例についてはいいのか悪いのかどちらともいいにくいのですが、納豆ダイエットの例で考えると、嘘がばれた時点で、それを実践した人は幸せでなくなるわけで、やっぱり百害あって一利なしのような気がするのですが。 >間違いを、現時点での科学に照らし合わせて指摘する人はやはり必要でしょう。現実とSFはやはり同一のものではないからです。SF小説を読んで愉快に感じることはいいですが、あたかも現実であると信じ込ませようとする人がいて、その結果現実と区別できない人が増えてくるのは問題ですね。 私も同感です。「これは間違いである」、と否定をすることは良くないにしても、「これはまだ科学的に実証されていないことである」と指摘することはできるのではないでしょうか?

その他の回答 (5)

  • Scull
  • ベストアンサー率26% (248/951)
回答No.6

どうなんでしょうね。 といいますのは「偽科学(科学風の装いを施した宗教・哲学・思想)」が信じている人にとって最後の幸福の砦かもしれないからです。宗教に於いても「聖書は科学的に正しいことが立証された」とか、偽科学にネタの尽きることはありません。 ただ、似非科学の場合は「科学のネタ」が潜んでいる可能性があるかもしれず、科学的な検証の余地があるでしょう(そこがまた似非科学・偽科学の跋扈する原因でもありますが)。 ただ、忘れて欲しくないのは日本では自分の好きなことを信じる自由「信教の自由」が憲法で保障されていることです。偽科学を暴き立てることが他人の「信教の自由を侵害する」おそれが多分にあります。 また、偽科学・似非科学を否定し続ける時に「否定することが目的化して自身が似非科学化すること」が往々にしてあります。 理想的な科学者の態度としては、科学的に検証すること。それ以外にないと思います。頭から否定するのではなく、一度受け止め、科学的に検証して科学的でなければそこだけを指摘する。それでよいのではないでしょうか。 なんにしても「人は自分の信じたいものを信じる自由がある」のですから。

noname#26816
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >なんにしても「人は自分の信じたいものを信じる自由がある」のですから。 非科学を信じることが良くないというのでなく、非科学を科学のように信じ込ませることが良くない、と思います。 >理想的な科学者の態度としては、科学的に検証すること。それ以外にないと思います。頭から否定するのではなく、一度受け止め、科学的に検証して科学的でなければそこだけを指摘する。それでよいのではないでしょうか。 全く同感です。

  • 333mol
  • ベストアンサー率18% (53/281)
回答No.4

ニセ科学の基本は検証方法が間違っていることです。 正しく検証すれば科学的に間違っていることが明らかになります。 ですから科学者としては「アレは科学じゃないから」というスタンスで良いと思います。 それで「つまらない人だ」と言われたときには、「君たちが信じているなら、フィクションとしてはそこそこの出来なんだね」とでも言えば良いのではないでしょうか。科学的によく出来たフィクションはSFです。

noname#26816
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 下にも書きましたが、本当に科学者は「アレは科学じゃないから」というスタンスで無視してしまって良いのかどうか、と考えてしまいます。

  • rabbit_cat
  • ベストアンサー率40% (829/2062)
回答No.3

「にせ科学」じゃなくて似非科学(えせかがく)では。 科学者か他の職業かにかかわりなく、また本当の科学か似非科学にかかわりなく、自分がおかしいと思うことは無視すればよいし、本当だと思うことは信じればよい。 「科学者は、似非科学を否定する活動をする活動をするべきだ」という主張も一部にはあるのかもしれませんが、私自身は、この主張には反対です 。科学者は科学の範囲では発言すべきですが、科学ではないもの(宗教、哲学、そして似非科学)については、基本的には門外漢ですから、一般の人と同様に十分な知識を持っていません。

noname#26816
質問者

補足

にせ科学と似非科学の違いがよくわからないのですが、言葉の定義の問題で、本質的には同じことを指しているとここでは解釈します。 例えば、教育の現場で「水からの伝言」が用いられたり、にせ科学を用いた悪徳商法が存在するこの世の中において、本当に科学者はにせ科学を無視し続ける態度をとっていていいのでしょうか?

  • Karinpapa
  • ベストアンサー率41% (136/324)
回答No.2

全く根拠のない「にせ科学」であろうとも、それが社会に受け入れられているのなら、どうして受け入れられているのか考えてみるといいのではないでしょうか。科学とは、もともと人間の夢をかなえるためのものであったはずです。仮に「にせ」であったとしても、ある人間には真実として受け入れられ幸せと感じさせることもあるかも知れません。根拠に基づいた科学の方が、逆に人々から夢を奪ってしまうことにも場合によってはなり得ます。  科学者として「にせ科学」に我慢できないというのであれば、無視すればいいことだと思います。ただ、今は根拠がない、と言われていても、もしかしたら将来新たな根拠が発見されるかも知れません。定説が覆るかも知れません。こんなことは100%あり得ない、と言って完全に否定してしまうこともまた危険だと思いますね。あくまで「にせ科学」は、(現時点では)「にせ科学」という解釈でも構わないのではないでしょうか? 

noname#26816
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おっしゃるとおり、科学とはあいまいなもので、100%こうである、というのは言い切れるものではないと思います。実際、マイナスイオンなんかでも、体にいいということが実証されていないだけで、もしかしたら、体にいいということが将来明らかになるかもしれません。 問題なのは、まだはっきりわかっていないことをまるでわかったかのように言うことで、人を騙しているということです。 納豆ダイエットなんかがいい例ですね。 このように「騙される」ことが本当に幸せにつながるのでしょうか?

回答No.1
noname#26816
質問者

お礼

ありがとうございます。参考にさせていただきます。

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