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庄屋・名主
庄屋・名主は自分では田畑を耕作することはなかったのでしょうか? 彼らは日頃どんな仕事を行っていたのでしょうか。
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庄屋は基本的には農民ですから庄屋も自身の田畑を耕作します。読み書き・計算は必須でしたのでどうしても富裕な農民(地主や豪農)から選ばれることになります。 たいていは世襲制ですが、数年毎の選挙で選ばれる村もありました。世襲制の村でも何かの都合で交代することもありました。 藩(武士)からすると年貢がスムースに収納できるのなら村の支配がどうであろうとあまり関与しなかったようです(面倒だったという理由もあるでしょう)。つまり村の自治は現在の我々が想像する以上に大幅に認められていたようです。その分庄屋の責務は大きくなります。 庄屋の業務は諸事万端です。村人からの色々な相談に応じることに始まり、出生や婚姻などの戸籍業務、道路や水路の修理・新設の計画など色々です。こういった経費は原則的には村の負担ですが、藩からも出ました。その折衝も重要な仕事です。藩からいくらの金を出させるか--庄屋のウデだったようです。 農作業の計画を作るのも庄屋が中心でした。例えば田に水を入れるのは勝手には出来ません。ひとつの地域ごとに同時にせねばならず、このようなスケジュール調整も庄屋が主導していたようです。 旅行手形を作ったり村人の結婚に対して転入・転出の書類も作ります。村人同士の証文に署名することもありました。土地取引ではその土地の「高」で価格が決まりますが、その「高」を証明するのも庄屋の役目でした。
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江戸時代の農村の支配機構は概ね次のようになっていました(呼び方の違いは地方によっていろいろ)。 領主→郡代・代官→(大庄屋)→庄屋がトップの村方三役(庄屋・組頭・百姓代)→百姓 昔の村は規模が小さいのが多かったですから、庄屋がトップのいくつかの村を束ねる大庄屋というのもありました。 庄屋にも身代の大小はありますが、イメージとしては、地主であり、家には下男、下女を置き、大勢の小作人を抱え、大きな屋敷に住み、苗字帯刀を許されている者もいた、という感じでしょう。 自分が直接鍬を振るうということは、少なかったと思います。 仕事は自分の田畑の管理のほかに、庄屋の仕事は沢山ありました。 納税の取りまとめ、お上からのお達しの周知、お上への請願、村の治安や秩序の維持、村の中の紛争の裁定、隣村との紛争の掛け合い、水利保全、飢饉対策等々いっぱいありました。 まあ、上と下の間に挟まった難しい立場の役職だったと思います。それでも、村きっての知識人ですし、身代も代々大きく、自然に村人から尊敬されていました。ごく稀には村人の先頭に立って一揆を指揮した例もありますが。
お礼
庄屋は下男・下女を置いていたのですね。 叔母の嫁ぎ先が庄屋だったそうですが、今でもいくつも蔵があるそうです。 ありがとうございました!
- kantansi
- ベストアンサー率26% (658/2438)
添付Wikipediaのサイトを参照してください。 庄屋・名主が日頃どんな仕事をしていたか理解で来ます。彼らが自分で田畑の耕作をしたかどうか、明確な記載はありませんが、庄屋・名主の身分が、終身固定していない場合もあるので(選挙もあったとのことです)、村の庄屋・名主自身も(裕福な場合は雇い人を使って)農業に従事していたと思われます。
お礼
ウィキぺディア拝見します。 ありがとうございました!
お礼
庄屋も自分で耕作していたのですか。選挙で選ばれる村もあったのですね。その辺の武士よりもはるかに権限大きかったのですね。 ありがとうございました!