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「硫黄島からの手紙」戦争体験について

先日硫黄島の戦いを見て、洞窟内で手榴弾で次々と自爆していくシーンにショックを受けました。 極限の状況で想像を絶する恐怖の中、理性も失って精神錯乱状態になっているのだと思いますが、 太平洋戦争中にこのような現場を目撃した人はいますか? 作品中二宮和也が扮する西郷は冷静な判断のもと、その悲惨な場から脱出しますが、 同じような経験をされた方がいらっしゃいましたら、そのときの状況を教えてください。 また、水も食料もない中生還するために、同時代に生きている我々世代には全く想像できない 生き延びるための知恵についても教えてください。よろしくお願いします。

みんなの回答

noname#138315
noname#138315
回答No.10

経験者ではありませんが、あの自殺方法は日本軍では頻繁だったようです。 水木しげる先生のマンガ「昭和史」を読むと、塹壕戦で銃撃を受けた軍曹が水木しげるに手榴弾を借り「お前さがっとれよーっ!」という言葉を最後に、その手榴弾で爆死するシーンがあります。他にもいろいろな作品で再現されています。 大岡昇平先生の小説、題名は忘れましたが、インパール作戦で白骨街道を敗走する日本軍たちが、河に入ると血が混じった腐った水をガブガブ飲み、体中に落ちてきたヒルをむしゃむしゃと食べながら、イギリス軍から逃げる場面がありました。すさまじいものです。 一方、舩坂弘軍曹のように、類まれな身体能力を駆使して日本軍の乏しい装備で大活躍した記録もあります。いずれにせよ、戦争を知らない世代の私には想像もつきません。

回答No.9

 町中の公園でゲートボールをしているお年を召した方に声をかけるか、ディ・ケア・センターに問い合わせてお話を聞かせていただける方を探してみましょう。厭な顔をされる方もおられますが、10代・20代の若者が、好意的な興味を持って自分の世代について知りたい、と声をかけてくるのであれば、お話を聞かせてくれる方の方が圧倒的に多いですよ。私はここ5年ほどでかなりの人とそのようにしてお話を聞かせていただきました。あとは親戚から戦友会や同期会などを通して紹介してもらうのも、気安さもあって、本や雑誌では得られないことも聴かせていただけます。  ただ失礼ながら、「極限の状況で想像を絶する恐怖の中、理性も失って精神錯乱状態になっているのだと思いますが、」「作品中二宮和也が扮する西郷は冷静な判断のもと、」と言われている質問者様のお心持ちや不勉強なところは、おそらく不愉快に感じるお年寄りの方も多いと思いますので、少し考えた上で行動なさった方がいいかとも思います。  また、「また、水も食料もない中生還するために、同時代に生きている我々世代には全く想像できない生き延びるための知恵についても教えてください。」とおっしゃっていますが、想像できないほどの経験の中で身につけられた知恵を、ネット上で教えてもらおうという心構えは不敬です。若い方ならば反省すべきだと思います。

  • k762
  • ベストアンサー率31% (42/133)
回答No.8

一昨年95歳で亡くなった親戚が硫黄島に行ってました。 ただ米軍の上陸前の空襲で負傷して父島の野病に入院したため帰還できました(部隊の負傷者第一号だったそうで待遇は良かったそうです) 戦傷者だったのですが(火葬した際、弾片が3つ出てきました)「自分だけ 生き残ったのに恩給なぞ頂けるか!」 といって体が動かなくなるまで申請しませんでした。 靖国の社前に立って静かに泣いていた姿を思い出します。 生前戦友に会いたいとよく云っていました、今ごろは再会していると思っています。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.7

 30歳を過ぎた学者・作家たちも戦場に送られ、表現する術を持っていた彼らは、多くの作品を残しています。今、記憶にあるものでは、  大岡昇平「俘虜記」「野火」  会田雄次「アローン収容所」  お読みになることを、お勧めします。  調べれば、まだまだ書かれたものがあり、当時の状況が生々しく書かれています。  サバイバル術については、小野田寛郎氏・横井庄一さんを調べて見られてはいかがでしょうか?  尚、サイパンの「万歳クリフ」から飛び降りる時、女性は着物の裾が乱れて足が見えるのを恥らい気にして(下着は腰巻ですしね)、足首のところで着物を紐でくくって飛び降りたそうです。  理性を失い精神錯乱だったと思いますか?もしそうなら、少しは救いがあるように思いますが・・・。

  • m41
  • ベストアンサー率30% (346/1127)
回答No.6

実際に硫黄島からの生還兵の方の手記です http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/ この方の体験記もすごいです http://aimy.or.tv/book/top_page.html ここの旧陸軍&旧海軍のリンクには見切れないほどのURLが有ります興味のあるものを是非ご覧ください。(いきなりBGMが流れるので音量を小さくするか切ってからお開きください) http://defense-link.jp/

noname#25898
noname#25898
回答No.5

「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげる先生のエッセイをご覧になっては、どうでしょうか。 南方の戦線で、命からがらの思いをされ、片腕を失われています。

  • demio
  • ベストアンサー率13% (200/1473)
回答No.4

硫黄島ではなくサイパン島の話ですが HPを見つけました、 今はサイパンと言えばレジャーしか思わないとおもいますが こんな歴史があったことを知ってほしいとおもいます 探せば他にもhpがあるでしょうし、本でもあるとおもいます

参考URL:
http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/taga.html
  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.3

沖縄では、戦争体験を記録に留めるプロジェクトが 行われているというのは報道で聞いたことがあります。 目撃した人のナマの記録を見たい、知りたいなら そういうのにアクセスすべきでしょうね。 幾つかあるようなので、どのことだったかちょっとわからないのですが 地方自治体がやっていたもので、直に体験を聞いて録音して 文書などに残すというプロジェクトでした。 戦中世代の高齢化を考えるとこういう質問掲示板に 体験者が反応してくれる可能性はゼロに近いでしょう。 70-80歳ですよ・・無理だと思います。 硫黄島からの生還者は数が最初から少ないうえに 戦後は全国に散ったわけで、一人から話を聞くのすら困難でしょう。 硫黄島での慰霊祭も今後中止されるかもしれないという話でした。 ま、沖縄歴史教育研究会とか、沖縄平和ネットワークとか、 その筋に聞けば、アクセスの方法がわかると思います。 確か、現地では体験談を実際に語ってくださる語り部をやられている方が まだいらっしゃると思いますし。 ところで、現実は「生き延びるための知恵」とかいう次元ではありませんよ。 知恵なんかで生き残れたら、わが子を窒息させたり、親子自決したりしないでしょう。 死線は情け容赦ないものです。生存者の多くは何かしたから生き残ったというわけではなく 何かしていれば生き残れたというわけでもありません。 硫黄島や沖縄のような戦場では、木の葉のように人命が散っていく世界です。 逃げ場などなく、どこで生死を分けるかなんか、わかるわけないですよ。 アドバイスなんて、生き残りたければ戦争をしないことだといわれるに決まってますよ。 映画は主人公は死なず、120分ぐらいで終わりますが 生き延びる知恵を知りたい、何ていう浮ついたテンションで 実際の体験談を聞いたらカルチャーショック受けますよ。世界が違う。

回答No.2

自決は理性がないと出来ない行為です。これは現代でも問われている問題です。それは延命治療をするのか尊厳死を選ぶのかです。私の母は祖母が余命幾許もない状態で入院した時、本人も望んでいたのですが、治療拒否をするか否かを選択を迫られ、治療拒否をしました。それから1週間もしない内に亡くなりました。 あれは映画ですから助かりますが、ほとんどの兵隊は壕から出れば射殺されました。一度沖縄戦の実写映像を見てください。 > 水も食料もない中生還する 基本的には水が無ければ生きてゆけません。あの状況に於いて仲間が死を選び戦ったり自決したりの選択肢を選ぶ中で1人敵に降伏する(但し国際法では兵隊が勝手に降伏してきた場合は降伏とはみなされませんので射殺しても構いません)勇気があればそれを選ぶことです。その代わり戦後、家族も含めまわりから「AeOaLは仲間を捨てて敵に走った」「AeOaLは戦えたのに逃げた」「AeOaLは死にかけた仲間を見棄てたり介錯もせずに生き延びた」と後ろ指をさされ続けます。 戦後、従軍経験者のほとんどが言えなかったのはその事です。『男たちのYAMATO』を見てください。一人生き残った水兵がどれだけ苦しい思いをしたのかわかります。

  • isoyujin
  • ベストアンサー率21% (145/662)
回答No.1

単に恐怖でもなければ、精神錯乱状態でも無いと思います。 当時の教育が訓練やそうさせてしまったのです。目撃した人に関係なく事実としてあるのです。 西郷でしたっけ?彼は冷静な判断をしたのではなく、命令に従ったのです。少しは彼の生命感が関係していたのかもしれませんが。 姫百合の塔では、同時期の別の隊の軍医/隊長が女学生看護婦の命をとても大事にして、多くの命が助かったとテレビで特集されていましたが、当時的にはこれはとても稀な事です。