こんにちは。
「一寸の虫にも五分の魂」といいますように、身体の大きさ、知能の高さに関わらず、全ての生命を一様に尊ぶというのが仏教の教えであります。ですが、分かってはいるのですが、どうして相手によって我々の心情はこんなにも異なってしまうのでしょうか。このような違いは、何をさて置いても「理解のしやすさ」、即ち「コミュニケーションの取りやすさ」「意思疎通の図りやすさ」、これに尽きると思います。
「可哀相」「罪悪感」といったものは、その動物の実際の心の動きではなく、我々の方に発生する心理であります。
他人の心の中を覗いてみるということは絶対にできません。ですから、我々が他者の心理を理解するということは、相手の「行動」や「表情」、あるいは「言動」といった、身体の外に表れ出たものを元にそれを「推測する」ということです。つまり、それは相手の置かれた状況に対し、自分が同様の立場であるならばどのように思うか、常識的にはどのように感じられるか、このような、過去の体験に基づいて我々の脳内に導き出された「結果」であります。そして、これを「模倣」といい、我々のコミュニケーションの全ては、このような相手の「思考」や「行動の動機」を自分の脳内でシミュレーションするという「模倣」によって実現しています。ですから、それをどのくらい予測し、どのくらい理解できるかによって、我々の脳内に発生する情動は大きく変わってしまうわけです。
このように、我々の意思疎通とは、相手の行動や言動を基にした推測によって成立しています。このうち、言語行動を用いないものを「非言語コミュニケーション」といい、当然のことながら、こちらは人間以外のあらゆる動物に適用されることになります。
人間同士でも、我々は普段から相手の行動や表情からそれを読み取ったり、身振り手振りで積極的に自分の意思を伝えようとします。動物は群れの中でこれを行い、秩序を維持していますし、高等動物や哺乳動物のような近縁になればなるほど、その「行動の動機」は人間にとって理解しやすいものになります。つまり、ワンちゃんが喜んでいるのか悲しんでいるのかは、見れば分かるということですね。
そして、推測に適うほど論理的な思考を持たない動物や、ロボットなどの機械、あるいは小説の登場人物といったものの心理を理解し、意思疎通を図る場合は、それは「感情移入」という性質を持つことになります。このようなことが可能であるのは、「可哀相」「罪悪感」といったものが、その経験や認識に基づいて我々の側に発生する情動であるからですね。
では、意思疎通の図りやすさ、理解のしやすさというのはいったいどのようなことでしょうか。
人間と同類でありますから、最も近縁に当たる哺乳動物は、その行動様式が我々とたいへん良く似ており、喜怒哀楽の情動や表情さえも共通します。また哺乳動物の両眼は、だいたいが前を向いて顔面に配置されていますので、その視線を理解することができます。
これに対しまして、鳥類においては眼球が左右に離れているものがほとんどでありますから、鳥さんというのは何処を見ているのか、いったい何を考えているのかがたいへん分かりづらくなります。ですが、鳥類の脳にも哺乳類と同様に情動の発生機能というものがありますので、何かに脅えているといったようなことでありますならば、我々にもそれを理解することができます。
ところが、爬虫類以下の動物になりますと、論理的な学習行動はおろか、情動の発生機能というものがありません。ですから、爬虫類のワニがどんなに怖い顔をしていても、それは怒っているのだ、このような我々の常識は一切通用しないわけです。更に魚類や昆虫類になりますと、その生態、行動様式は我々と全く異なります。
餌を食べるのはお腹が空いているからです。これでしたら理解できます。ですが、ゴキブリが無言で触覚を動かしているのを見て、私にはその行動の動機、理由を推測することはまずできません。奇妙、不気味としか思えないわけです。そして、ハエやカのような小さな生き物になりますと、その行動をきちんと観察することがきませんので、何らかの予測を立てるのがそもそも困難です。意思疎通、感情移入がたいへん難しくなります。
以前このサイトで、鳥の表情を理解することができるという愛鳥家のご意見を拝見し、たいへん感銘を受けたことがあります。可愛がって飼っていれば、ちゃんと分かるようになるんですね。
トカゲには「嬉しい」といった情動は発生しません。ですが、トカゲはお腹がいっぱいになるとどのような行動を執るのか、このような知識があれば、愛好家にはそれを理解することができます。自分のあげた餌でトカゲが満足しているのであれば、これほど親しみ深いことはありません。
当たり前のことをくどくどと述べましたが、このように、我々の情動といいますのは、相手を理解できるかできないかによって変わります。そしてそれは、受け入れられるか受け入れられないかも同様であり、好意を持つか持たないかによって大きく左右されてしまうというのが人情です。ですから、原則的には言語によってきちんとした意思疎通が可能であるにも拘わらず、理解が不足することによって争いや戦争が起こります。相手の立場を受け入れ、理解することができなければ、我々の脳内に「罪悪感」という結果を導き出すことはできません。このため仏教では、己の煩悩を断ち切り、全ての生命に慈悲の動機を持ちなさいと説いているのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。人間がどれだけ感情移入できるかなのですね。人間って難しいものですね。