自己愛性人格障害の定義項目を冷静に見るとおわかりになるように、その全てと言って差し支えないほどの項目が人間というものの定義とほぼ同じであることがわかります。
つまり、これも良くお考えになればすぐにご理解いただけると思いますが、これを障害と言うのであれば人間は全て障害者である、ということになります。
そして、それはある意味で正しいと言えるでしょう。
ただ、みんなと同じだから良いだろうというわけにもいかないでしょうから、これに関連して少し私見(但し、素人の)を述べてみたいと思います。
1245780さんは超自我(善・悪)で物事を判断する場合が非常に多いのではないか、という気がします。
自己顕示欲が強い、というのは自我(損・得)の判断と考えることも可能ですが、これは恐らく1245780さんが後から思えばそういうことだった、と自らに対して揶揄的な表現をされているように思います。
人間関係の場面においての自己顕示があったとしても、その根拠は自分が正しいと信ずる事柄に基づいて為されているのではないでしょうか。
自我と超自我の境界は判別の難しい場合が多いものですが、基本的には超自我で物事を判断される場合が多いのだろうという印象(文面自体などからも)を受けます。
ご両親のどちらかが非常に厳格な方ではありませんか?
それはさておき、
人間の精神性に関しては、
本能(エス)=快・不快
自我=損・得
超自我=善・悪
という3層構造(無論、概念としての構造です)のバランスが取れているのがもっとも健康な状態と言えます。
バランスがとれていると崩れにくいからです。
1245780さんの場合は、「本能<自我<超自我」というイメージが感じられます。
これは、超自我(理性と言っても差し支えはありませんが)の価値が過大評価された結果だろうと思われます。
損得を考えずに何かにのめり込んでしまうこともありそうに思います。
しかし、完全なバランスを保っている人間など一人もいないと言えるわけで、完璧性を目指すことはあまり意味がありません。
ただ、足らざるは補い、過多は減らすことによってバランスが良くなることもまた事実です。
「本能<自我<超自我」という構造の場合、本能は生来的なものですから、他の二者のバランスが取れた時点で概ね正常な発露が期待できます。
気持ちの持ち方としては、
「超自我で解決できないことは非常に多い」
「他者に評価される自分ではなく、地面に足を付けた自分というものの価値をもっと認める」
ということになると思います。
これの要点は、
≪全ての個人にとってその人なりの超自我があり、自分自身にとっての自分があるように、各人にとっての大事な唯一の存在としての自分というものがある。≫
ということにあります。
『自分は特別ではないし、仮に特別だとすれば他者に対してもまたそれぞれ特別な存在と認識しなければならない。』
という当然の事実に気づくことが重要です。
自己愛のない人間は存在できません。
しかし、他者にも自己愛があることを理解できない人間は当然の結果として他者との良い関係は築けません。
自分自身は特別だという、自己に対する無意識の認識を排除する必要があります。
とは言っても相手が無意識なので難しいのですが、特別でなくても愛されることは可能だという経験が必要かもしれません。
特別でなくても、つまり善を高らかに主張しなくとも私を認めてくれる人はいる、ということを証明するために、
ありのままの自分をさらけ出す勇気を持つことが近道になるかもしれません。
お礼
アドバイスありがとうございます。 >1245780さんの場合は、「本能<自我<超自我」というイメージが感じられます。これは、超自我(理性と言っても差し支えはありませんが)の価値が過大評価された結果だろうと思われます。 今まで本能や自我は不安定で絶対的真理こそが判断基準だと思ってきました。 >他者にも自己愛があることを理解できない人間は当然の結果として他者との良い関係は築けません。 本当にそのとおりだと思います。そのことを「境界例と自己愛の障害からの回復」サイトで気づくことができたのですが、その後非常に落込んでしまいました。 >特別でなくても愛されることは可能だという経験が必要かもしれません。 >ありのままの自分をさらけ出す勇気を持つことが近道になるかもしれません。 ありのままの私は「私こそが主役」の鼻持ちならない自分です。 きっと特別でなくても愛されることができるという経験が欠けているのだと思います。言い換えれば、相手が特別でなくても愛するという経験も私にかけているのだと思います。 強すぎる自己愛からの脱却は他者への愛と密接に関連しているのだと気づかされました。