• ベストアンサー

歳を重ねても、優しい人にはなれませんか?

50半ばになって、精神的にも、金銭的にも余裕がでてきたと思っています。 いろいろな人のお役に立ちたいと思っています。 できるだけたくさんの人を愛して生きたいと思っています。 それには、大きな気持ちで許すことがでなければと思っています。 ある程度、距離をおいた友達とはそれでうまくいきますが、親、兄弟、夫には、許せないところ、腹の立つところがあります。 「私さえ我慢すれば・・・」と思うと、ますます、甘えてきたり、我侭になったりする人もいます。 夫は仕事が忙しいだろうといと思って、できる限り、家事は私一人でやってきました。すると、夫が家事を手伝ってくれないことが当たり前になってしまいました。 親が入院をした時、私がつきっ切りで看護しました。気がついたら、兄弟は一度も病院に現れませんでした。 友達が、切羽詰っていたのでお金を貸したら、また貸してくれと言われ、返済計画を立ててくれと言うと、逆切れされました。 こういう不満を持っている限り、周りの人を「愛する」なんて、できないのでしょうか? 相手をつけあがらせないで、親切にしてあげる方法はないものでしょうか? 精神的に豊かな老後を送りたいのです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mamasou
  • ベストアンサー率22% (215/975)
回答No.5

私と実に同じ様な悩みを抱えているのですね。 私はまだ三十半ばで若輩者ですが。 私は過去にいじめにあってから自分は辛かった分、人に優しくある人間でありたいと思って生きてきました。 でも、何故かからまわりしてしまうというか、訳も無く人から避けられたり、良かれと思った事がうらめに出たりして人生を悲観してばかりです。そして精神的にもまいり病んでいます。 ここで何回か質問もしていますが、なかなか答えが見つかりません。 ただ何となくわかってきた事は、一番さんが少々辛口で言ってますが、人に与えてあげたと思わない方が楽かなぁと。 何かしてあげたのに・・と思うのは思い上がりでしかないと叱咤されました。 そういわれて、自分の人生は自分のもの。人の人生もまたその人のもの。と割り切った方が楽なのかもなぁと。最近は思うようにしているのです。 私は人の事を気にしすぎました。しかし、人は自分が思うようには動いてくれないのだし、気にせずにみんながエゴイストだなぁと思う様に自分もあるがままに生きていいのかもなぁと。 お友達にもお金貸すなら返ってこないかもしれないけど貸してあげようかと思える余裕があれば貸してあげるというかあげても良い。でも、それで苛々としてしまう自分がいるのであるならば貸さない。 旦那が家事をやらない。私もやらないで良い日を作る。旦那が何かいったら私の休日なのと言う。 親の介護をした自分はえらい。親は私を育ててくれた大切な人、その人を看れない兄弟は不幸。 発想の転換というか、私の考え方を変えるという事で楽になれる自分がいるのならそうありたいなぁと最近では思うのですね。

noname#33713
質問者

お礼

>私は過去にいじめにあってから自分は辛かった分、人に優しくある人間でありたいと思って生きてきました。 こんな方もいらっしゃるのだと、感心しました。 >良かれと思った事がうらめに出たりして そうですね、ひとそれぞれ「ものさし」が違いますから。ものさしの違う人と付き合うのはむずかしいものですね。 >私は人の事を気にしすぎました。 私もそれはあると思います。人の不幸を見過ごせない。自分に関係ないのに・・・。放っておけない性格です。 家事を休む。そういう自分が許せたら・・・。 親のことことを想う。その親が私と兄弟とを「あんたたちは・・・」と十把ひとからげにしなければ・・・。 お金を貸した人が、自分の生活を見直して有意義に使ってくれれば・・・。 でも、これも、わたしの「ものさし」なのです。 「いい人だと思われたい。」自分がダメなのでしょう。 もっと我侭になって、その分、可愛く、素直になればいいのかもしれません。 ありがとうございました。 あまり頑張らずに生きていきましょう。

その他の回答 (12)

  • a375
  • ベストアンサー率30% (439/1421)
回答No.13

#9です。まずい文章に対して3回もお付き合いいただき恐縮と同時にお詫び申し上げます。実はこうした質問の回答ではどうしても質問者の方の人格に触れたり、指摘、非難めいた文言が入ります。このため私はIDの停止を受けて次は追放だそうです。そこでこの質問者ならわかっていただけるかどうかで回答をやや抽象的にしてしまうので真意が伝わらずご迷惑をおかけすることになります。この回答に当たっては実はある回答者がほぼ言い当てておられ、それでいいかと思いもしましたが、別の視点から考えご迷惑をかける文体となりました。回答に当たっては>相手をつけあがらせないで、親切にしてあげる方法はないものでしょうか?精神的に豊かな老後を送りたいのです。に的を絞りました。前半にお書きのことは問題が小さくなりすぎ、>精神的に豊かな老後を送りたいのです。にたどり着かず瑣末な袋小路に入ってしまいそうであえて触れませんでした。そこでこのご質問のもっとも大切な>精神的に豊かな老後とは何を指すのかが問題で、大変お答えしにくい部分です。こう考えてきますと当然そこに行くまでのプロセスがあるわけで、前半のご質問の過程も当然入ってきますが、考えてみていただきたいのは、こうした他者への思い遣りや他者からの行為に心を砕けるのは、幸せの過程であるとおもっています。そのことに身をおけるのは>50半ばになって、精神的にも、金銭的にも余裕がでてきたと思っています。だからこそ今でも精神的に豊かで幸福のさなかでいらっしやると申し上げたいのです。人間誰しも自分の始末に精一杯で椅子取りゲームに夢中ですが、そのさなかに他人のために心を砕ける気持ちは本当に今でも精神的に豊かな状態であるのです。そこを実感されておられないようなので何か別な道があるような錯覚をお持ちではないか とお見受けしました。精神的に豊かな老後なるものはある一点で完成されたりするものでなくその道程自体が示してくれるものと思います。安心立命の境地でなく他者に向かって今のようなお悩みや心配を持ち進んで行くことが「精神的に 豊かな老後」への道程です。あなたが健康でかつ心配り(例えそれが報われようが報われない結果に終わろうが)が出来ることは現在幸せのさなかです。現在日本の多重債務者は200万人で債務による自殺者はおよそ4000人(本当はこんなものでありません)一般労働者の3分の1は派遣、アルバイトなど非正規雇用で年収は150万~250万円が相場です。これはある意味生活保護所帯並です。こうした格差社会であなたのように他者に心配りをなされることは心豊かな精神がないと到底できません。あなたが他者に寄りかかるのでなく道程はいろいろあろうともそれに主体的にかかわろうとされることは尊くまた幸福ともいえます。昔のことで間違いがあるか知れませんが、ナサニエル・ホーソンの「大きな石の顔」という小説があります。ある貧しい村の石切り場に大きい偉大な顔が彫ってありその顔をした英雄が現れ貧しい村を救うという伝説が生まれました。村出身の将軍、政治家、事業家が帰ってきた時、村人はこの人こそと思ったが、やがて人々その顔が似ても似つかないことに気がつきます。しかしその伝説を固く信じたある少年は、懸命に働き、成人しても人々に尽くしますが、その偉人は現れないのです。年老いても村人に尽くしその英雄を待ち続けますが現れません。故か?その偉人は伝説を信じ人々に尽くし生き抜いたその老人となった少年人自身の顔だったと村人は悟って彼を慕い尊敬して「大きな石の顔」と呼ぶようになりました。 変に話しが逸れましたが。ご参考までに.

noname#33713
質問者

お礼

いいえ、原因は私にあります。文章表現力もなく、皆さんにご迷惑をかけました。 いろいろ考えて生きてきたつもりでしたが、皆さんほど深く物事を考えていない自分に気がつきました。 植物人間のようになってしまった父、老いてしまったことを嘆く母、自身の甘え原因ですが、資産のなくして余裕をなくしてしまった友達、「幸せ」「感謝」の言葉をたくさん残して亡くなった方などを見てきて、考えるようになりました。 「幸せの青い鳥」を探しつつ歩んで生きたいと思います。 ありがとうございました。

  • pingchan
  • ベストアンサー率24% (40/163)
回答No.12

私も「お金がない」と困っている親戚の方にお金を貸したりして、返ってきません。私の場合は私自身が弱い人間なので、「貸した」というよりも「あげた」気になることで納得しようとしています。(…悩んでるけど) でも、こればかりじゃ質問者様の言うように「相手を付け上がらせてしまう」ばかりですよね。 でも、相手も人間で「悪いなぁ」と思っているはずです。言われたことが恥ずかしくて、だから逆ギレしてしまったのかもしれません。 旦那さんも場合も、馴れ合いになってしまって気がつかないことが多いのでしょう。 旦那さんが好きで結婚したのなら、旦那さんにも「たまには一緒にやりましょう」と声をかけてみてはどうですか??これからも一緒に生活していくんですから。 洗濯や料理を休日に一緒にすると、「家事」じゃなくて「スキンシップ」になって、楽しいものになるかもしれません。毎日手伝ってもらえなくてもたまにでも手伝ってもらえれば「不満」もなくなるんじゃ?? 親が入院したとき、みんな親の弱っている姿を見たくなかったのかもしれません。私もそうでした、親が哀れな姿なのは悲しいことでした。 そんなときに「お母さん(お父さん)が悲しんでいるよ、会いに来てよ」と声をかけてみてはどうでしょう。きっと兄弟のあなたがいつも看病していたことに気づくはずです。「ああ、私はこうやってお見舞いとして来ているけども、いつも○○は看病をしてるんだよね」って。 私もついつい「なんで私ばかり」と思ってしまうことがあります。でも、その不満の対象の人の気持ちも考えてみるんです。いい方向に。 それで、それとなく心に向かって言ってみるんです。。 それでもダメなら「こいつはだめだな」と諦めてます。 すみません、長々と偉そうなことを書いてしまいましたが、こんな若いもんの言うことはさらっと聞き流してくださいね♪

noname#33713
質問者

お礼

お金を貸したのは、短期と言われたからで勝手に(金融機関の手続きが終わるまで)と思っていたら、もっともっと、挙句の果て、私には贅沢と思われることに使いたいと言われて、頭にきてしまいました。そして、これでは、焼け石に水、考えを改めてもらうべく、いろんな手段で、返してもらいました。今は、その人とは「ものさし」が違った、精神的な余裕のなさがああいう態度を取らせたのだろうと思っています。ただ、また付き合う事は、「甘えさせる」だけと思っています 主人については、一時、なにを言っても無駄なので、接点を少なくしようとしました。その時は、穏やかに暮らせましたが、やはりこれからは、二人の生活です。よりよい関係へ、と思って、話をし始めたら、やはりダメでした。理屈で押さえ込まれてしまいました。わたしはそうでなく「ほのぼのとした関係」でいたかったのですが・・・。 これは、諦めるしかないかもしれませんね。 兄弟については、遠く離れていることもあって、なるべく考えないようにしています。母については、歳だから、と。ただ、これから、具体的な、利害関の話になってきた時に穏やかでいてたいですね。 ありがとうございました。

noname#20187
noname#20187
回答No.11

質問者さんはとても優しい方ですねえ。 私も老後は寅さんのように優しく、人からも愛される人間になりたいと思っています。 別にそんなに難しく考えることはないんじゃないでしょうか。 一度ビシッと言ってやればいいんです。「甘ったれんじゃないよ」って。 「人を愛する」っていうのは、「その人のためを思う」ってことじゃないですか。 甘やかすとか、我慢するとかは、全然別の話だと私は思います。 質問者さんの性格や、これまで他人に対して演じてきたキャラクターなどを考えると、 「甘ったれんじゃないよ」と諭すのは容易ではないかもしれません。 でも、それで老後幸せになれるんなら、思い切って言ってみてはいかがですか。 あなたは十分、優しい人なんだから。

noname#33713
質問者

お礼

ありがとうございます。 多分、私は、おせっかいなだけで、やさしくはないのです。困っているといわれれば、放っておけない。そして、やりすぎる、で、「うるさいな」ってことになってしまうのです。 寅さんは、「カワイイ」ところがあるので、愛されるのでしょうね。 もう一度、最初から考え直してみます。

回答No.10

たぶんすべて人に優しくすることができるとは思わないし、誰かに対して優しくすることを目的としている生きているわけではないと思います。 誰かに『優しい』と言われるために何かをしようとするから辛くなるのでしょう。 気持ちよく楽しく何かをすることが重要だと思います。 たまたま誰かが『優しい』と言ってくれることがあるかもしれませんし、何も言ってくれないかもしれません。 でも自分の気分がよければそれで良いのではありませんか。 誰かのための人生ではなく自分のための人生です。 気持ちよく楽しくどんな事にも取り組めることがいいのだと思います。 それから、気持ちよく何もしないことも大切かもしれませんね。

noname#33713
質問者

お礼

ありがとうございました。 皆さんのご意見を伺って、自分の望んでいることが少し見えてきた気がします。 私は、おせっかいなのです。その性格を直さずに、(直せないので・・・)できるなら「うるさい」とは思われたくないのです。「やさしい」と思われたいと言うのではなく、自分が「優しい=心穏やか」でありたいと思っています。

  • a375
  • ベストアンサー率30% (439/1421)
回答No.9

>50半ばになって、精神的にも、金銭的にも余裕がでてきたと思っています。羨ましいですね。私は最晩年ですが、どちらもあまり良好とはいえません。さすればこんな質問をなさるお方の幸福度合いはすばらしいものがあると思います。この幸福を分かち与える方法のについてのお悩みと解しましたが、これまたご自身の幸福を増大するもので幸せの再生産とも申せましょう。ここでアランの「幸福論」をひっぱリ出す愚かさをさておいて、>精神的に豊かな老後を送りたいのです。は誤解を生みそうです。精神的豊かさとは、自己満足か、宗教的な精神構造を持つのか、ボランティアー精神か、自己犠牲の上に成り立つ充足感か、あの世に旅立つときの安心立命かさまざままに解されるので思いもよらぬ回答も見られます。さすればこそご自身で煩悶されておられるわけで、実は他者を気になさるところが問題なのです。幸福の分配に斟酌されることはご自身でまだこの分配に対してある後ろめたさがある、言い換えれば逡巡されておられるわで、いわば目に見えぬバリヤーをはっておれることになります。これは是非の問題でなく日本人独特の特質とも申せましょう。>相手をつけあがらせないで、親切にしてあげる方法はないものでしょうか?バリヤーとはこれを指します。みんな丸くが日本人の特質で、本来三角か六角であるべきものを丸にするためにいらぬ労力を費やしますが、聖徳太子様にお出まし願うまでもなくこれは無駄なことでなく珍重すべきことです。実は老後を精神的に豊かにすごすこととはあなた様の現在のお悩みの状態を指します。どうぞそのままのお悩み、お考えでお進み頂くことが目標の達成となりましょう。いまさらながらメーテルリンクを引っ張り出すのはあなた様に対して失礼に当たりますので、今後お体ご自愛の上どうぞ頑張っていただきたく切に思います。

noname#33713
質問者

お礼

3回読ませていただきました。 文章理解能力のない私にとっては、かなり、むずかしいものでした。文章の裏、そして、その裏まで理解しなければならないのでしょうが、どこまで理解できたのか自信がありません。 アランの「幸福論」を読まなくてはいけませんね。 今は、恵まれていると感じています。 けれども、満たされない部分もたくさんあるのです。 それは、自分の心のあり方と考えました。 ありがとうございました。

回答No.8

 私は我慢が必ずしも人を「愛する」ことだとは思いません。  相手を傷つけずにやんわりと注意したり、それとなく釘を刺したり、自分が困ったときは助けを求めたり、逆のときは力を貸したり、そういう柔軟さが相手のためにも質問者さまにも必要な気がします。  我慢すること、尽くすこと、犠牲を払うことは確かに尊いことですが、質問者さまはそれでかえって不満をためているのでは、心豊かにはなれないと思います。  どうか無理をせず、心豊かな日々をお過ごしください。

noname#33713
質問者

お礼

>相手を傷つけずにやんわりと注意したり、それとなく釘を刺したり、 これが下手なのでしょうね。 >自分が困ったときは助けを求めたり、 これも、得意ではありません。嫌な顔を見たくないから。 反省です。 皆さんのご意見参考にして、ゆったりとした気持ちで生きていきたいと思っています。 ありがとうございました。

回答No.7

愛するって簡単なようで難しいですよね。 月並みですが愛というのは「無償」であることがやはり究極のものではないかと思うのです。 でもそこは人間誰しも出来るものではありません。 特に普通の人は世知辛い世の中で生きていますから、いろんな分野で「したい」「して欲しい」という欲求が必ずあります。 そうですね、私ならまわりの相手を見守ることはできます。しかしそれをするには「相手に真剣になる」ということです。ですから友人からお金の融通を依頼されれば断ることもありますし、相手の行動・言動に間違ったことがあったらしっかり指摘します。相手のためにあるかどうかが、私の判断基準です。 質問の内容を見る限りでは相手を甘やかしているのではないでしょうか? 許すことばかりが愛ではないと思うのです。仮にその事柄が間違っていれば相手にはっきり言ってあげるのも愛ではないでしょうか?(そのに相手を思う気持ちが欠けていれば単なる文句などになりかねませんが) まずはあなたが正しいと思うことを自分に自信を持って行ったり、言ったりしたらいかがですか? 角が立つこともあるでしょうが、そのこと自体悪いおとではないです。 自分の心をもっと楽にしたら周りに不満を抱くことも少なくなるでしょう。周りに不満を抱くというこは今の自分に不満がある場合はほとんどです。 少し支離滅裂になりましたが、要は自分が思うように動いて発言すれば周りに対する不満も段々なくなるということ、そして周りと接する時は相手のことを思って接すること、それが大事だと思います。

noname#33713
質問者

お礼

>私ならまわりの相手を見守ることはできます。しかしそれをするには「相手に真剣になる」ということです。 私は、真剣になったら、口出し、手出しをしてしまいます。これは私のいけないところです。 >相手のためになるかどうかが、私の判断基準です。 そうしたつもりだったけど、裏切られたことはありますね。 >相手を甘やかしているのではないでしょうか? 甘やかさずに、優しくなりたいですね。 相手に不満があっても、自分に集中できるものがあれば気にならないと言うことはあると思います。 ありがとうございました。

  • yutagon
  • ベストアンサー率58% (17/29)
回答No.6

こんにちは、 「見返りを求めてしまう自分」 これを消し去ることは、難しいのかもしれません。 私も誰かのためになれば、と思っていろいろ世話をやいたりします。 結果、 「その人は立ち直って良かった。」という気持ち と同時に、 「(私に)感謝してくれてるだろうか」 という気持ちが全くないのか? と言われると、 言葉に詰まってしまいます。 やっぱり、私にしたことを分かってほしい と言う気持ちが芽生えてしまいます。 しかし、対象が変われば変わる場合もありますし、 場合によっては、 自分が満足できればいいか と思うこともあります。 今の世の中、というより、 いつもそうだったのかも知れませんが、 してもらう時だけ調子が良くて、 例えば、hujibakamaさんが困った時に何もしてくれない、 そんな人も多いと思います。 どうすれば、いいのかと思いますが、 自分の出来る範囲で、例えば恩を仇で返されても、 大丈夫な程度以上の無理はしないほうがいいのかな と思います。 自分の出来る範囲であれば、 たとえ「煮え湯を飲ませられる状態」になっても、 何とか処理できるでしょうから、、、 心豊かな老後、 難しいです。 いい人に囲まれていれば、それもあるかもしれませんが、 必ず嫌な人、 はいるのが通常で、 それとどうやって折り合いをつけるのか ということに尽きるのでは、、、 私の場合は嫌な人とはなるべく接触を減らし、 自分と馬の合う人と多く時間を費やす この方がいいのではないかと思います。 そして、hujibakamaさんが 今日は納得 と言う日を少しずつ 増やしていっていただければ いいのではないでしょうか。 思うようにならない世の中なので、 hujibakamaさんを 守ってくれる人とお互いを助け合える関係が出来ればいいのでしょうけど、 そういう人を持てる人ばかりでもないと思いますので、そんな人が今いないからと言って悲観的になられず、 ご自身が納得いくのは何か(どっちか)という視点で、いろいろな苦労や関係を選択していっていただくほうが良いのではないか。 そんなふうに感じました。 長々とすみませんでした。

noname#33713
質問者

お礼

>「その人は立ち直って良かった。」という気持ち せめて、それがあればうれしいですね。 >場合によっては、 自分が満足できればいいか と思うこともあります。 子供に対してなどはそうですね。 >私の場合は嫌な人とはなるべく接触を減らし、 自分と馬の合う人と多く時間を費やす それしかないのでしょうね。友達はそうして、選ぶことができますね。 大丈夫です、悲観的にはなっていません。 主人に対しても、いつもこう思っているわけではありません。 全ての人を愛するのは「理想」だと分っています。 でも、少しでも多くの人を愛して(広い意味で)いけたらいいなと考えています。 こうして、たくさんの方がご意見を下さって、大変「感謝」です。これも「愛」と思っていますから。 ありがとうございました。

noname#22222
noname#22222
回答No.4

還暦を前にして、「あー、伴侶次第だなー!」と思っています。

noname#33713
質問者

お礼

そうですね。向こうも思っているかもしれません。 ありがとうございました。

  • massie
  • ベストアンサー率17% (46/265)
回答No.3

 自分を犠牲にして他人に奉仕をすることで優しくしようとすると、どうしても我慢を強いられます。自分でも譲れない人生の大切なことをする過程で他人と力を合わせるときに、犠牲ではない優しさが発揮できるのだと思います。看護師さんは患者さんに優しくすることで犠牲になっていると感じているでしょうか。年を取ればとるほどプロとして味のある優しさを身につけていけると思います。もちろん、その人に向上心がなく、ただ金のためにやっているのでは全く身につきませんが。hujibakamaにとってどんなことが生きがいかわかりませんが、自分を高めるために優しさを発揮する場があると思いますが・・・。

noname#33713
質問者

お礼

今、一つ計画していることがあります。 それに、力を入れようと思っています。そうすれば、他の人に対する、不満、不服も小さくなるでしょう。 ありがとうございました。