>ご紹介いただきましたサイトを読み基本を勉強したいと思います。実は昨年NHK教育テレビで一年間、般若心経のお話を聴講しましたが、全然理解できませんでした。仏教の真理が知りたいです。
般若心経は、手垢がつきすぎてしまったため、かえって難しくなっているか、反対に親切に解説するために卑近すぎて、訳がわからなくなっています。歴史的な発展を抜かして、神秘系の思想と自在に組み合わせる方もいて、それは自由なんですが、文面から言えば、もう無茶苦茶です。もう般若心経を使わなくても、何を使っても言いたいことを言えるくらい変形して解説する人がおりますね。
いろいろなことを言う方がおられますが、私のアドバイスとしては、般若心経だけで空の教えを理解することが土台無理なことということです。
修行しなくてはいけない、という意味ではありません。理屈としても、あれをいきなりかじるのは無理があります。
哲学化する前の経典に、「大空経」「小空経」という経典があります。これが本来の(初期的な形で、分かりやすい)空思想を分かりやすく伝えています。
パーリ仏典に訳本が入っています。入手が簡単なところでは、早島鏡正『ゴータマ・ブッダ』講談社学術に参考資料として抄訳?があります。なお、その他の解説はちょっと古くて覆ってきているところもあるというのが正直なところですが、参考になります。
大空経、小空経は大乗仏教とか小乗仏教(南方仏教)とかの分かれる前の基本的なものの考え方を知る上で有効です。歴史的に順序を追って経典を読むことは体験至上主義の方には理解されませんが、文脈がつかみやすくなるというメリットがあります。全体としての流れがつかめるわけです。
参考URLが役に立ちそうで良かったです。
あちらは、根本仏教と名乗っています。上座部仏教(南方仏教)ですね。
現在、彼等は大乗仏教(チベット・日本とか中国の仏教)が歴史的に後から作られた経典であると主張しています。そしてこれは、歴史的にも事実です。南方仏教は、確かに古い形の仏教を遺していて、釈迦の教えに近いことは事実です。しかし、その経典(パーリ経典)に書かれていることが、丸々歴史的事実として読む読み方は、信仰者としてはありえても、歴史的にはありえません。
彼等の一部には、大乗仏教を否定し、パーリ仏典だけが完璧だからこれが正しいとしていますが、もし大乗仏教が歴史的後から出てきたことをもって否定されるのでしたら同じ理由をもって、パーリ仏典にも否定されてしまう箇所はたくさんあります。つまり、パーリ仏典自体が、編纂を経ていることはほぼ間違いない事実なのです。
ですから、仏陀が空中に浮き、火炎を放射したというのは信じている人には申し訳ないが、後世の付加分なのです。奇蹟話を丸ごと否定はしませんが、これは作り話なのです。これは確か、元来王様の権威を示す形容だったのが仏伝に入れられた?だったかな、ともかくある程度経緯が分かっています。一時に出来たものではないのですから、丸ごとその記述をもって、仏陀が火炎を放射したということの解説をいくら考えてみても、空想のお話にしかなりません(編纂部分があること自体は認めている坊さんもいます)。それを、何が何でも、ここの仏教は一字一句本物で、大乗仏教は後世の作り物だ、と二分法して考えるのは、結局自分たちが軽蔑する大乗仏教徒と同じ事です。
さして必要でもない、大仰に飾られた部分のお話を一生懸命本気にしていることが、バカバカしいことなのです。そういうことも仏教徒は考えていて、彼等の中ではあったのかもね、というほどのことしか分かりません。
外部史料にないので、当時の宗教家は超能力を持っていたなどと証明はどこにもないんです。
こうした視点自体が、純真な信仰者にはない、不純として分からないため、書かせてもらいました。理性的で有りつつ、大筋で理解することが要求されます。
と、否定的なことも一応書きましたけど、狂信にならない限り、有用なサイトです。これを書いたのは、やはり狂信的な人が時々いるからです。こういう人は、場所さえ違えば、ポアが出来そうな人です。
紹介はする人が多いのですが、ここの教えを理解していない人が多いので、しっかり仏教の目指すところの定義から勉強してください。
これもここでこれまで書かれたことを否定するようですが、「人格の向上」・・これをみなさん好んで使いますね。これは間違っているとまでは言いませんが、南方仏教(根本仏教、原始仏教)の考え方は、基本的なものの考え方が、違っています。今の人格主義は、原始仏教から見れば、「あくなき向上への欲望」です。肥大化した自己への幻想が根っこにあります。わかりやすく頼むという希望に違ってしまい、かなり難しくなっているので通じてないかもしませんが、成長主義ではないのです。
途中までは似ていても、根本的な世界観が違います。現在はやりの人格向上主義者は、永遠に自己が存在すると信じています。彼等の根底にあるのは、「永遠」への指向です。彼等の説くのは、魂の実在と永遠です。
しかし、南方仏教や原始仏教では、逆です。永遠の自己というものはいかなる意味でも否定されます。ステージアップして云々などとそんなことありません。存在の本質は苦しみである、よってその原因を取り除いて涅槃(完全な無)となる。自己の永遠性は逆のベクトルです。
これは理解しがたいですし、自己への永遠性を放棄することは(これが根本仏教での解脱)、多くの人には寂しいことです。第一、とても珍しいとは思いませんか? 愛ですとか、宇宙は発展していますとかそういう耳に良い話ではないのです。この教えは、永遠に向上したり、永遠に修行したいという人のものではなく、もともとはもう存在すること自体に苦しみを見いだした、天上の世界も霊界の安楽も何もいらない、という方のおさめるものです。そういう世界観に立っています。
だから、仏教は発生当初はなかなか理解されなかったし、仏陀も自分の話は世間には入れられないと言っているのです。世間的には、霊魂の不滅が受けがよいからです。仏教では、因縁による輪廻は説いても、霊魂不滅は否定しますね。
同じURLを紹介する人は多いのですが、この点に関する理解は無茶苦茶であるというのが正直な感想です。無茶苦茶な理解だから、ひどく相矛盾したものを平気で並べることができるのです。
お礼
なんだか、すごい御本のようですね。 ご紹介ありがとうございます。 参考にさせていただきます。