重大な誤りが見受けられますので、少し長くなりますが
指摘しておきたいと思います。
まず、モナドを物理学的な原子とおなじものであると考える事です。
これではなぜ、意識のモナドや精神のモナドといったものがあるのか
説明できません。俗流の理解ではモナドを原子論とも訳すので、
インターネットの情報などを見る限りではそう理解してしまうのも
無理からぬことです。モナドロジーだけでなく、ライプニッツの
『実体の本性と実体相互の交渉ならびに心身の結合についての
新たな説』(ライプニッツ著作集8)などを読むとモナドとは
物理学的な原子とはまるで違うものであることがわかります。そして
このモナドを理解することが予定調和を理解することにもなります。
たとえば細胞というのは、一つのまとまったものとして我々は
とらえることができますよね。膜におおわれて、一つのものとして
みなすことができます。それと同時にこの細胞をどんどん集めていくと
臓器になりますよね。心臓とか肝臓とか。これも一つもまとまったもの
としてみることができます。しかしそのときはそれを細胞のあつまりと
みないで、臓器としてみなしていることを覚えておいてください。
次にこうした臓器も組み合わせて、人間と見なしますよね。これも
ひとつのまとまりと考えられます。さて、すべては有機的な物質なのに
それは「細胞」や「臓器」や「人間」というふうに別々のまとまりとして
みなすことができます。このように「一つのまとまりとして見なすことの
できる状態」をモナドとよぶようです。ですから犬にもひとつのまとまった
意識があるとすれば、それは犬の意識のモナドですし、何百もの草も
いっせいに風でひとまとまりになびけばそれは草のモナドなのです。
つまり<表象>という概念はまとまったもととして表現できるもの
なのです。
さてこの理解がすむと今度は、なぜ「モナドには窓がない」といわれるか
という疑問がうまれると思います。細胞と臓器の例を思い出してください。
臓器とみなしているときはそれが血を送るとか、解毒するとかまとまった
機能をみることができます。しかしこれを細胞のあつまりだと視点をかえると
さっきまで見えていた臓器の視点は失われてしまいます。つまりモナドという
「一つのまとまった見方」は別のモナドに組替えられてしまうと、まとまった
状態を壊してしまうことになるのです。窓によって外の空気をいれようと
開け放ったとたん、家そのものが壊れてしまうのです。だからモナドには
窓がないと語られるのだと考えられます。しかし身体を見ていても
それが細胞というモナドと臓器というモナドを維持している限り
すべて並列に、いわばパラレルワールドとしてみることができるように
なります。
さてそのようなパラレルなモナドが、もしばらばらになってしまったら
世界は生まれることはないですよね。モナドは別のモナドと明らかに
区別されますが、モナド同士が、自分たちを壊さないように調整を
とっていかなくては一つの統一的な世界はうまれません。そこで
ライプニッツは『弁神論』でも言及しますが、このような無数の
モナド全体を調和させる力そのものがあることを神様がいることの
根拠にしようとしたのです。つまり予定調和とは、出来事の中の
あらゆるモナドを調和させる力のことなのです。もちろん神様が
することですから、それが善いことに関係することは間違いないのですが
「神様が世界を良く導くために用意していた運命のようなもの」では
ないのです。神様はモナドを予め調和させようと考えているだけで
よいことをする運命をきめているのではありません。
つまり今j_euroさんが私のへたくそな説明を読んでくださったことが
運命的であったというのではなく、今こうして読んでくださることで
この出来事のモナドが私とあなたの間に調和をとろうと働いているという
ことであるようです。それは信念のモナドかもしれず、誠実のモナド
かもしれず、疑念のモナドや反発のモナドかもしれません。その全てが
それぞれのモナドを保持しようと調和をとりはじめるということです。
これがモナドの間にある「神の予定調和」です。
お礼
うわ。 すごくたくさん書いていただいて、ありがとうございます。 しかも、超高速、電撃回答!! アホな者に教えるというのは、きっと大変でしょうから、 なんだか申し訳ないような気がしています。 えと、No.169511 も合わせて読ませていただきまして、 私の少ない語彙で脳に再構築させてみましたんですけど、 あっていますでしょうか? 明らかに見えている現象(「表象」?)の因果関係の連鎖だけでは、 説明できないような偶然や運命的なできごとは、 神様があらかじめ仕組んでいたことなので、 特別に「予定調和」と呼びましょう。とライプニッツさんが言った。 ということなんでしょうか? ご回答いただいたのは、「風月」さんじゃなくて「星花」さんであったのは、 「神の予定調和」で「最高に善くなるべく」スケジュールされていたってことでしょうか? そうであるなら、私なりの小さな感動を覚えます。 なにかしら、世界を見る目が変ったような気がします。 モナドって、なんかおいしそうな名前ですが・・・ 「犬のモナド」とか、「草や石ころのモナド」・・・・ 遊佐未森ワールドみたいですね。 どうしてモナドは「閉じている」んでしょう? 「開いている」モナドは、ないのでしょうか? (あ、質問ではなくひとり言です) ご回答ありがとうございました。