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人の生きる寄る辺
人々が団結して共有感を得る容易な方法は、敵対者を設定することだと思いますが、これはつまり、問題提起をすることで、その問題を解決しなければならない、という大義名分を作り上げ、その解決を望む気持ちを煽ることで共有感を消費して生きているわけです。 つまり、消費・生産の構図によって人は生き行くのだろうか、と疑問を持っているんです。そういった問題提起・問題解決以外の手法によって、生ゆく頼りとするものを人は生み出すことができるのでしょうか。 何か意見を頂けませんか。
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#2です。補足をありがとうございます。 他者というものを割合広義に解釈されておられるようですが、私はもう少し狭義に考えています。 理由としては、私という存在自体、好むと好まざるとに拘わらず、その起源からして他者の介在を許しているわけで、「他者の全く介在しない自分」というものは自分ではなくなってしまうからです。 特に意識していたわけではありませんが、他者は自我の対義語として定義していたような気がしますし、今もそれ以上の解釈は無理なようです。 前置きが長くなりましたが、そのようなわけで「>世界を相対的に記述している」のは確かでしょうが、それはあくまで基本的には「私対世界」という構図です。 そして、「他者の自我」の関与によって成立した視点(他者の世界観)の否定を自我構築の一助としない、という意味で絶対的という表現を使えるのではないかと感じています。 他者との接触を完全に無視することは不可能ですし、方法論としての他者の否定はあり得るわけですから、確かに微妙なところですが、他者を認識することはあっても、自我の基盤を優位に維持する目的で否定的に取り込もうとすることを潔しとはしない、ということにもなるかもしれません。
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自灯明だろうな
精神的に弱い時「自己不全」に 精神的に強いが「自己満足」かなと思います。 何か好きで自信が持てるものがあって、 それが全体からも歓迎されている という自由な感じ方であるなら 生産、消費の構造に拘らないのではないか? と思います。 ノーベル化学賞を受賞した田中さんは 思いきり研究がしたいがために 出世は拒んでいたそうで、 研究の成果を発表するまでは無我夢中で 幸せだったようですよ。 それなのにノーベル賞を貰ってから 出世させられるは、博士にさせられるはで 自由がなくなって 「人生最高の失敗」とおっしゃってました。 こういう田中さんのような人って (変人?奇人?)結構いるかも。 恋愛感情も市場経済や強弱、重力に関係なく (あるといえばありますけど) 好きなものは好きで 理屈じゃなく その時にある情熱や自由を楽しみたいがため 必死に生きたりする。 しかし、いくら燃え上がった恋も 一瞬で誤算だったとか錯覚だったとか起こる(笑)。 それも市場経済よりも情は流動的で 味方への正義とか理想意志で制御出来ない。 「自由」が損得と対極だと思います。 人は不自由が似合うように それが普遍となるまで進化したのかもしれませんね。
- NCU
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あのですねえ。 人が生きるのは、まだ死んでないからです。 いずれは例外なく死ぬわけですが、まだ死んでないわけです。 それ以上の意味がありますか?
- eeldog_2005
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まず、「人々が団結して共有感を得る容易な方法は、敵対者を設定すること」ということですが、これを検討すると「敵対者とは何か」という問題が出てくるのではないでしょうか?ある場合は、具体的な個人や法人、団体、社会集団かもしれません。確かにこれは敵対者として設定しやすいように思います。しかし、天災、自然環境等の人智を超えたものの場合はいかがでしょうか。この場合は、「誰を恨めばいいのか」というように、対象としての敵を定めるのが難しい場合もあるように思います。 後半を私なりに読むと、(例えば敵対者の設定などによる)共有感の生産と、その消費の際に、「生きていく頼り」とすべき「他者との関係性」が生まれる、というふうにも読めました。しかし、本当に「問題提起(による共有感の発生)」→「問題解決」のサイクルを繰り返しているだけでしょうか。これだと、サイクルが終わるたびに、次の「問題提起」もしくは「敵対者」を探し続けることになるかと思います。 しかし、敵対者がいなくても共有感を持つことは可能だと思いますし(「同好の士」という言葉があります)、「問題提起」と「問題解決」のサイクルにならなくても、共同体意識はありえると思います。例えば、家族というものは、確かに問題が発生することにより絆が深まることがありますが、問題がなくても、自然と絆が深まっている場合もあるように思います。「友」の場合にも、同じようなことが言えるのではないかと思います。 最終的な質問としては、「他者なくして私は成り立つのか」ということのようですが、この問いかけに対しては、ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」という小説が、面白く、参考になるかもしれません。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4000028642/250-2548400-8512254?v=glance&n=465392 これは、「ロビンソン・クルーソー」の一種のパロディで、「一人で生きている人間は、本当に人間といえるのか」ということに関しての考察があります。 さらに「自己深遠部のような、確固とした私という存在の確認は、他者による記述を用いずして可能なのか」ということですが、これは出来るともいえますし、出来ないともいえるかと思います。 言語を通しての思考によって、「私という存在の確認」するとした場合、言語そのものが他者を前提としています。また、自己を言語により「私」として対象化していること自体、既に自己が分裂し、他者性(第3者性?) を持っていると言えます(「私」とそれを「私だと認識している自分」)。その他者性は、「現実の他者」によって得られた知覚・感覚・意識だと思いますので、そうなると、「出来ない」ということになると思います。 一方、ある種の体験、悟り?などのように、「なんだか知らないけど、私というものは確かに存在している」と、直感的に確信した場合、他者は必要ないかもしれません。つまり「出来る」。しかし、これはまさしく独善的になる可能性がある。しかし、他者を必要としない分、強靭な確信を得るかもしれませんね。独善性と表裏一体の関係でしょう。 私個人としては、他者との関係性により、自己を確認するという立場です。これは自分に家族があるからかも。
- hakobulu
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疑問に感じておられるような生き方を、私としては「相対的人生」と呼びたいと思っていますが、これはある意味では容易ですが根本的な満足感にはなかなかつながらないのではないか、と考えています。 なぜかというと、おっしゃるように顕著な例としてまず「敵対者の設定」が前提になるからです。 ここは単純に「自己評価の基準としての他者の設定」と言い換えても良いかもしれません。 自分を見つめようとすることは、自らの清濁を合わせて洗い出す必要があるので、案外勇気が必要になるでしょう。 しかし、他人をあげつらうのは簡単ですから(自分の評価とはかけ離れたところでできるので)、何かと他者の欠点を見つけてはそれを基準にして自己評価を行なえば自分は常に優位に立てますし、安泰なわけです。 これは容易なので殆んどの人が一度は飛びつき易いアイデンティティ確立のための未熟な方法と言えます。 よく若者が、ホームレスなど明らかな社会的弱者を攻撃するのはこの良い例でしょう。 ただ、この方法には決定的な欠点があって、それは、他者の存在なくしては自らもまた存在し得ない、という点です。 同様に他者が向上的に変われば、自分の絶対値は変化していないため立場が逆転し、本人にとってみれば不条理と感ずる屈辱感を味あわなければならない、ということもあります。 つまり、 『他者本位で生きているために本質的な満足感を得られない』ということが最大の欠点です。 安易な借り物のアイデンティティの確立に流されず、自己深遠部に常にフィードバックしようとする姿勢を失わなければ、たとえ「解決」が訪れないとしても、そのような自分自身を生きゆく頼りとすることができるのではないか、と愚考する次第です。
補足
おっしゃる通り、他者本位による自己の確立、ということに疑問を抱いているのですが、では他者なくして私は成り立つのか、ということなんです。 私が思考できるのは、教育の過程で学んだ言葉(他者)によって、(自分というアイデンティティを含め、)世界を相対的に記述しているからだと思うのですが、では、そういった自身以外の他者を用いずに生きてゆくことは可能なのか、さらに、何かを生み出すことができるのだろうか、という疑問です。 つきつめれば、自己深遠部のような、確固とした私という存在の確認は、他者による記述を用いずして可能なのか、という疑問です。
Q、消費・生産の構図によって人は生き行くのだろうか? A、全く、質問者に固有の考えに過ぎないと思います。 人はなぜ生きようとするのか? 人は、何を生きる縁(よすが)とするのか? この2つの問いの答えは密接に関係していると思います。 前者は、生物としての種を保存しようとする本能です。 更に、この本能は、物質の複雑化しようとする存在の仕方に支えられていると思います。 後者は、種の保存という点では、オスとメスの関係が一番重要です。 ですから、当然にオス・メス関係の人間的な様式=家族が生きる縁です。 もちろん、生存競争という側面に着目すれば、より良い生存環境の獲得というのがクローズアップされてくるでしょう。 家族関係の安定が揺るぎない前提というグループにとっては、環境条件こそが縁かも知れません。 そういう意味では、即物的ですが金が縁というのも決して不思議なことではありません。 さて、ややこしいのは、人間は、富・地位・名声さえも否定する発達した脳を獲得していることです。 ですから、私のように、犬との暮らしに縁を感じているかも知れません。 また、ある者は、宗教に縁を求めているかも知れません。 また、低俗と思われようとも明日のパチンコに勝つことのみに執着した人生を送っている者もいます。 また、OKWAVEで明らかなように性に執着している方も多いです。 まあ、結論として、縁は人それぞれです。
お礼
丁寧な回答をありがとうございます。 >他者を認識することはあっても、自我の基盤を優位に維持する目的で否定的に取り込もうとすることを潔しとはしない、ということにもなるかもしれません。 確かに、私という存在や他者の認識には他者が不可欠ですが、他者の否定によってのみ自我が成り立つわけではないですね。 ありがとうございました。