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命題「死刑はは悪法である」
1)「死刑はは悪法である」という命題を、展開し「よって被害者遺族であろうと死刑を望むことは悪である」と結論に至った場合または、 2)「人の死を望むことはあさましい」という命題を「それは死刑についても例外でない」「よって死刑を望む被害者はあさましい」といった結論が出た場合、反証にたる論法とはどんなものありますか? 2)については中前提とした「それは死刑・・・」に短絡があると思われますが。 蛇足ながら「死刑制度の是非」を質問するものではないですし、命題であるその性質上、「命題間違っている」といったご回答はご遠慮ください。(間違った命題なんて存在するはずもないですので) この質問に至った経緯を簡単に話しますと、アンケートカテで、「被害者遺族が死刑を望むことの誤り」について質問したところ、死刑の是非についての解答ばかりで、「誤っている、誤っていない」といった解答殆どはつかず、再三再四、回答くださる方の持論に付き合っていたら、論争に発展したと判断され削除されました。(まぁそうなるとは思っていましたが) よろしくお願いします。
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純粋に論理だけいえば、 そもそも善悪というものそれ自体は命題の対象にはなりません。命題は価値判断ではなく、したがって人により判断が変わっていいようなものではないからです。そういう点でこれらの「論理」はそもそも命題論理として成り立っていないのですが・・・・・ (命題の定義についてはたとえば >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E9%A1%8C 当たりを参照。) 従って以下の考察はそもそも空論であり問題外なのしょうが・・・その上で論理構造だけについていえば(もっともこういう本来社会的問題であるものを論理構造だけとりあげることの是非こそ問題のようにも思われますが) 1)については、法の是非と「望むことは悪」というのが飛躍しすぎていてつながりません。まず死刑というのは法そのものではなく法による規定ですから、正確にはこの法律の中で死刑規定があるため、法自体が悪法になっている、という展開でないと不正確になります。 次に、悪法によって処断されることを望むのがすなわち悪である、というのはどうですか・・・すくなくとも説明不足でしょう。悪法も法、という考えの是非や、死刑規定とそれを適用することの是非、それを執行することの是非はそれぞれ少なくとも程度の違った問題でしょうから、そこを論理だけで押しきるのならもういくつかの前提が必要な筈です。また、このあたり善悪の規定が曖昧なので(もともと善悪は価値判断であって客観的事実ではないので、命題として現実に成り立たせることが困難なのです)、やはり一種空論のように聞こえるでしょう。 2)も「あさましい」というのは価値判断ですからそもそも命題として成り立っていないわけです。ですから実は2)は論理の構造としては別に飛躍していませんが(例外でないことの証明はされていない、という点では飛躍というより説明不足ではありますが)、そもそも論理の対象となり得ないものに、いかに精密な論理を組み立ててもそれ自体に意味がない、空論なのではと思われます。 つまり。死刑についてはそれ自体が社会制度であって、「論理的に誤っている、いない」というものでは本来ありえないものですから(価値判断の対象です)「被害者遺族が死刑を望むことの誤り」を質問しても個人の価値判断しか答えられないのは当然でしょう。 つまり「誤った」というのを「論理的に誤った」とは通常解釈できない問題について論理的正誤に基づく答を期待できるか、ですね。ですから当然ながら各個人の倫理観に基づいて「倫理的に誤っている」などの答しか得られないのです。
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- dokidokin
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死刑の是非を問わないのであれば ご質問の1)は 「悪法を望むことは悪か?」 ご質問の2)は 「それを望むことがあさましいなら、 それが法であってもあさましいか?」とその反論 というようにすれば論点がはっきりすると思います。 ●回答 1)個人が望むということは、自由に思考することの 一部であり、善悪という概念でその思考を限定してしまうのは 個人の自由を奪う危険性がある。 2)数学の「集合」で言うと個人が望む集合の部分集合が法です。法とは個人の望みを公共の福祉との折り合いをみて 限定したものにすぎないからです。 ですから法であっても当然あさましいことになります。 反論:望むことは個人の自由であるべきであり 「人の死を望むことはあさましい」と断定すること自体 個人の自由を奪う危険性を伴う。 よってそれ以降の論理展開は危険性を増す詭弁になる 可能性がある。
お礼
なるほど。しかし若干引っかかるのは、前提を逆転させた場合どうでしょう?つまり 1]「死刑制度は正しい」「よって被害者遺族が情状酌量を求め刑の軽減を求めるのは誤りである」とした場合や、 2]「人の死を望むことはあさましい」「しかし死刑についてはその性質上、例外である」「よって死刑を望む被害者はあさましくはない」として、 1]は善悪という概念でその思考を限定してしまうのは個人の自由を奪う危険性がある。となり、1)の反論が成り立つのならば1]も成り立つ(若干苦しい) 2]2)で前提を否定しているので2]もまったく同様。 対極に位置し正反対の意見が、同じ結論を迎えてしまう?難題だ! 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
ん~、この手の質問は難しいですね。 と、いうのも、様々な要因(宗教含む)が絡まった複雑な問題ですから。 個人的には、確固たる論法が存在していない、と思っておりますけれど。結論そのものを出すこと自体、不可能な問題なんじゃなかろうか。 そもそも、死刑廃止論を論破している人たちは、被害者でないケースが非常に多い。 確かに、日本でも、被害者家族が、加害者の決定された死刑判決に対して情状酌量を求めているという例もありますけれど、これはごく希なケースでしょう。 結論として、その当事者にならなければ、結論は出せなくなるんじゃなかろうか。 ちなみに。 「被害者遺族が死刑を望むことの誤り」についてですけれど。 これは、被害者家族が、事件に対する区切りをつけるための手段の一つとして有効である、とは思いませんか? 一番大切なのは、加害者側の立場よりも、被害者側の、原状回復することが絶対にできない問題に対するけじめのつけかただと思いますから。 質問者さんの意図からはずれた内容になっちゃったかな?
お礼
>結論そのものを出すこと自体、不可能な問題なんじゃなかろうか。 不可能だと思っていますし、それを求めてもいません。(死刑制度の是非) 今回私の質問の趣旨はもっとわかりやすく例示すれば、 以下はすべて、個人の判断の陳述で言論の自由を尊重する。として・・・ 1)死刑制度は間違った制度である(法レベル) 2)よって皆で死刑制度廃止に向け行動しよう(社会啓発) 3)この正論を理解できない奴は愚かなので死刑にすべき(感情論) といった場合1)が正しいと仮定すれば2)に結びついてもまったく問題はないですが、3)までは結びつきません。 論理に整合性がないので、正しい可能性のある1)2)まで壊しています。なので「死刑の是非」を○×で答えると、正解だが、解釈がおかしいといったことは、非常に多いと感じ、質問させていただきました。(質問の仕方が下手なのと、脱字重言が多い理解しにくい内容ご容赦ください) >被害者家族が、事件に対する区切りをつけるための手段の一つとして有効である、 概ね同感です。私の意見としては、ここに書き込むことはあえてしませんが、(本題と外れるので)↓のNo.8で答えています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2257872 ご回答ありがとうございました。
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お礼
命題についての解釈について、ご提示のウィキペディアで見ると、私の誤りのようです。本題と外れてしまうのですが、以前こんな回答をしたことがあり↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1321115誤りを答えてしまって・・・。(若干釈然としない感もありますが) >通常解釈できない問題について論理的正誤に基づく答を期待できるか、ですね。 命題としたのがそもそも間違っていたんで、回答も困難であったことお詫びいたします。 私としましては、二極論の一方を主張する立場の時、多少の論理の飛躍や誇張は許容するとして、相手の結論に至る過程の論理矛盾や短絡発想を考察したかったのです。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。