実話ではないと思います。
まず「雲の墓標」は、日記体で綴られたフィクションで、サイパン島守備隊が全滅した約1ヶ月ほど後の44年8月23日付けにその記述があるのですが、「海軍の通信員が、ガダルカナル周辺の小島からカヌーを使って海に乗り出し、漂着した島で陸軍部隊に救われ、サイパンに送り届けられた。しかしその40日後に米軍が上陸したためにその通信員は平文で電報を打った」云々という内容です。
これに即してみれば、はるか遠い南太平洋の全滅した島で起こった、きわめて個人的なエピソードを、どうやって内地の烹炊所の下士官兵が知りうることができるのかという一点をとっても、信憑性はないと思います。
次に阿川氏が、戦後になって聞いた事を元にこの話を書いた、ということも考えられます。
平櫛孝「第43師団サイパン玉砕記」(丸別冊『玉砕の島々 中部太平洋戦記』)という元師団参謀であった人の回想によれば、防衛戦当時は陸海軍合同の司令部になっていたそうで、陸軍の通信兵も多数いたはずで、通信機を個人の独断で発信できる状態ではなかったろうと思われます。
7月6日の午前10時に陸海軍の首脳が自決し、翌7日の午前3時を期して最後の突撃を敢行する計画で、南雲・斎藤・井桁の最高指揮官らが自決直後に最後の電報を打電。通信機を爆破しようとした時に大本営からなお「尺寸の土地でも残る間はこれを死守持久せよ‥‥」の電報を受け取り、陸海軍の間で論争が起きたとあります。結局、陸軍第43師団の鈴木参謀長が総攻撃の決行を命じて実行されたのですが、この経緯を見ても、個人が通信機を使って連打できる状況ではなかったと考えられます。
ただし、島から脱出して漂流中に救助された、という事件は実際に起こっています。
44年12月30日「伊号第47潜水艦」がグァム島沖で全滅後の同島から筏で脱出した海軍陸戦隊の隊員18名を救助し、内地に送還しました。(佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争』)
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