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フィリピンについて

(1)フィリピンの国名の由来はスペインから来ているのは本当でしょうか? (2)フィリピンは太平洋戦争で日本軍が戦闘をしたところでもあるのに、あまりフィリピンの方が反日的であるという話しは聞きません。 実際のところどうなのでしょうか? ぜひお教えくださいませ。

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  • m4691
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回答No.2

2の質問はかなり危険な質問だと思います。    大戦時日本が統治して居た国々の対日感情についてはその後の冷戦時代又今日見られるような経済的思惑などからかなり曲がった報道が飛び交い真実を知るには自分自身が現地に行くしかないくらい難しいと思う、思想的に偏っていない知人が現地に行ったならば少しは信用できるかなレベルではないでしょうか。  その手のサイトは数多くあり両方の意見が一杯出ているので判断はしにくいと思います。    私の考えでは中国人は他民族を受け入れない民族なので戦争当時から対日感情は強かったと思いますが(戦争の経緯もありますし)残留孤児などの扱いを見る限りでは逆に今の方が強いのではと感じてしまいます。    台湾・東南アジアでは復員兵の手記などを読む限り現地人に対しての虐待などは殆ど無くそれまで居た白人よりも友好的に感じられていたと思います。食べ物を分け合ったり現地の子供たちと遊んだ話などが数多くありますので(自分の祖先達は良い人達なんだという希望的観測が入って居るかもしれませんが)  実際現地の人が立てた日本兵に対する供養塔とか記念碑なども数多くあるようですし、もし一部の方の言う通り反日感情が大戦中から強かったとしたら日本兵の作ったものなど皆壊されてしまうだろうしその後記念碑など絶対建てないと思います。  少なくともグアムに数年住んでいた私の知人の話では年寄りの方が親日感情は強かったそうです。

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その他の回答 (2)

回答No.3

1・スペイン国王フェリペ2世からです 2  これはフィリピンの20世紀史を全て見なければなりません。19世紀末、フィリピンにホセ・リサールという男が現れ、フィリピンの独立闘争を開始します。しかし彼はアメリカに捕われ、処刑されます。死んだ場所はリサールのゴルゴダと呼ばれてます。彼の独立闘争の拠点は日本でした。現在も横浜公園だったと思いますが、リサールの記念碑があります。この独立闘争に参加した人物にリカルデという者がおり、彼は日本に亡命します。  1941年、日本が対米宣戦布告を行い、フィリピンに軍を進めます。リカルデはこれに同行します。そして、反米政治家であるホセ・ラウレル、ニノイ・アキノ、ラモスなどと結託し、1943年に自治独立政府を樹立します(日本のみ承認)。大統領はラウレル、議会議長はアキノでした。1944年、米軍がフィリピンに上陸します。この時反日闘争軍を指揮したのがマルコスです。この戦闘で自治政府軍、日本軍は壊滅状態に陥ります。日本の山下将軍は政府幹部を日本に亡命させますが、ラモスは戦死し、リカルデは既に80歳を超えていたためフィリピンで死にたいと残ります。ラウレル、アキノは亡命します。リカルデは山中で死亡します。  戦後、ラウレル及びアキノは日本で逮捕され、フィリピン特別軍事裁判にかけらます。死刑が予定されましたが、大統領の恩赦により免れ、政界に復帰します。ラウレルは59年に死去します。その後、何れも息子が後継者として政界に進出します。  70年代、先の反日闘争軍の指揮官マルコスが大統領に就任します。それに叛旗を翻したのがニノイ・アキノJrとラウレルです。  80年、マルコスの独裁政治に批判が集まる中、大統領選挙が行われます。状況的にはアキノ勝利でした。それに危機感を覚えたマルコスは当時子供に絶大な人気(視聴率80%)のあった日本アニメ・ボルテスVの放映を禁止します。これは子供がテレビから離れないと不満を持っていた主婦層を取り込むのと同時に親日派のアキノをアニメを使って日本の侵略を正当化する男と糾弾するためでした。効果は絶大で、主婦層を取り込んだマルコスが勝利します。アキノは命の危険を感じてアメリカに亡命します。  82年、アキノは帰国を決意します。これに対してマルコスのイメルダ夫人(実は元アキノの恋人で、マルコスに強奪された)は帰国したら殺されるから駄目だと直接談判しますが、アキノは「国民が待っているから」と強行します。帰国と同時にマニラ空港で拘束され、その場で暗殺されます(これは完全な映像が残っています)。この事件を機に反マルコス運動が高まります。そして86年を迎えます。  86年、マルコスは大統領選挙を前倒しにして実施します。対立候補は故ニノイ・アキノJrの妻・コラソンです。結果はコラソンの勝利でしたが、開票を行わずにマルコスの勝利とします。これに国民は爆発、国軍もアキノ派となって革命が発生し、マルコスはハワイに逃亡します。そして、コラソン・アキノを大統領、ラウレルを副大統領にした政権が樹立されます。その最初の仕事は「ボルテスVの放映を解禁する」でした。  その後、コラソンは引退し、ラモスが後継大統領となります。  現代フィリピン人にとって日本は愛着のある国です。

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  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

1.フィリピンという国名は、スペイン王フェリペ2世の名前から取られました。 2.フィリピンは、第二次大戦直後は、相当な反日国家でした。 現在でも、老人などの中には、反日の人もいます。 反日国家から親日国家へ変わったのは、多量のフィリピン女性が日本に働きにくるようになってからです。 彼女達が、沢山のお金を持って帰国し、日本の良い点をPRしたため、日本に対して親しみを持つようになりました。 最近は変わってきていますが、日本で働く事を夢見たフィリピーナが沢山いました。 日本で働いたフィリピーナと日本人との結婚も、とても多く、その事も親密度を高めるのに役立ちました。

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