- 締切済み
全能の神は 難問を解けるのか?
全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。 ●四色問題は 彼等に解けるでしょうか? また いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ 解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか? 経典には あたりまえのこともしくは既存の概念 しか書かれてないんじゃないでしょうか。 みなさんのお考えを教えてください。
- みんなの回答 (29)
- 専門家の回答
みんなの回答
- caballero
- ベストアンサー率17% (31/182)
子のみみに こえをかけるよう 息を吹きかけよう かざぐるま ただ、一つの風車も回せない。僕の息は、まだ光ってない。風が風を熾す様に、僕は吹くべきなのに。いつか、吹きかざそうと、思ってたのに。かざぐるまのひとつ、まわせません。ごめんなさい。あなたの言葉なら、まわせるのに。なんでって、僕はあなたに熾してもらったからわかってるんです。 あなたの言葉が 息を吹き返すように、。 これが 僕の、あなたに応じたすべてです。ごめんなさい。 もう来るのは最後です。 皆と出逢うから なにも迷いません 僕はそのために、僕についたんだから 大口開けたけど、こんなへぼくって、どうしようも無いって思いますか? いのります 僕が光る風になるように 風を熾すように 言葉が息を吹き返すように ずっと後に その時 風車 輝いてあるように 涙 ありき
- caballero
- ベストアンサー率17% (31/182)
>あんまり そのかんがえかたにつかってると 観念になって ぬけられなくなっちゃうぞ! お叱りありがたいです。ぬけてるんです。僕は展望はもってます。だから、内を見れたんです。知っていたからです。ここの話題である観念なんてどうでもいい。 ただ、皆がぬけるように。 数学理論は、「箸」です。論理は道具(当たり前じゃい) 言葉は「箸」ではありません。箸も言葉です。道具も言葉です。 >例のときがあるといいですね ってなんだそれ? そんなもの なくっていいですよ 「輝く言葉」を聞きたいってゆったじゃん(笑 その時のことです。やいこしくてすみません(謝 >そこでとまって なるほどなるほど では今を生きたことになりません。 今を生きるとは いまあることに背をむけて次に向かうことなのですよ。 僕はなるほどじゃないですよ。「!?うおっはいあー!どらぁっ!」です。 ドコにも向かない。今に生きる。次々次のステージって、次?今は?次に向かっている状態が今ですか? じゃ最後はどうなんですか?あなたは幸せ感じているときに、「次」を意識しますか?今を生きることとは、時がなくなることです。時とともにいるからです。わかってもらえなくてもいいです。読んでくれるだけでウレシイですから。(本気でそう思ってます) 時にもいのちあり。時も知れているからです。 最後は最初です。時に関しては、僕はまだここまでしか分りません。もしかすると、時がランクアップ?するかも。←展望じゃない。ゆってみただけ。 次々や、昔はなぁ、とってると、「われを忘れる」かも、。 >どうすれば幸せに繋がるか? 外から手繰り寄せるものではありません。追う者でもありません。あなたがそうなので。あなたはあなたを追わないでしょう。同じです。 言葉は聞いて何ぼです。ミザル、キカザル、言いまくり(笑 あなたの目は見えていますが、耳はあまり聞こえていないのかも、と思ってます。どうなんですか?そして、言いまくりはしません。僕は言いまくりですね。 あなたが囚われているのは、「幸せ」かな。だから、「不幸」を避けよう避けようとし、幸せにあれないんです。地球があまりに痛ましいので、その姿に威圧され、溺れぎみなんじゃないですか(目がよく見えるので)?地球が立ち直るのはもちろん立ち直りますが、「溺れている者が、ライフセーバーになれますか?」 がつがつ行くよりも、スマートにパワフルなほうが、「進みます。」 >あなたは かくことが 長すぎる んで中身がない いや、ほんとそうですね。へぽょへぽょです。あなたに言う事言えたらどれほどいいか。言われっぱなしなんで、申し訳ないです。
お礼
●過剰反応症候群っぽいぞ。 あなたの文章はなぜか 得るものが無くかんじるんですよね。 何でだろ ま いいか・・・。
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
> 究竟の極説 とやらを ご紹介いただきたいものです。 釈尊が、説かれた頃の人間の状態をご存じないのに、よくも断言出来たものだと呆れております。 そして、「憲章」が人間社会を救う? 実際に、現在、キリスト教等の教条主義的思想が争いを生んでいるのでしょ。所詮は、言う事とする事が裏腹な二重人格を形成するだけじゃないでしょうか。 それに、誰も草木に成仏があることを知らず、宇宙観にしても知っていたとは思えません。 誰もが知っていたのなら、説く必要もないことでしょ。 それに、誰しも分かることと言っておられるのに、あえてご質問されているのは何故なのでしょうか? どうせ、究極の極説を答えるまでも無く、もう、答えを知っているとされるのでしょ。 化法の四教である円教等は、ご存じなかったようですがね。 以前、自分も答えを知っていて、質問し全て削除されたことがあります。 究極の極説も、もうちゃんと、すでに答えるまでも無く、記述させて戴いておりますよ。 最初の設問とかけ離れますので、詳細は避けさせて戴きます。
お礼
●わたしも呆れております。 あなたのようにだまされやすい方が多いから災いが絶えないのかなあ・・・と ふと感じたり致しました。
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
付言するならば、 般若経は、化法の四教のうちでは、円教に通教・別教を加味して説かれたもので、空仮中の三諦のうちの空諦を主として説き、空理を悟る智慧を磨かしめたのであるが、いまだ通・別の二教を帯びているために円融の三諦は明かされておらず、蔵教をも含んだ方等時の経よりは勝れるけれども、所詮は権大乗教である。 四十二年間に説いてきた経々は、悉く方便の教であります。 法華経こそ、化法の四教のうちでは、純然たる円教のみを説かれた経であり、十界互具、円融の三諦等を明かして、一切衆生を即身成仏せしめる一念三千の法門を顕説せられた、真実の大乗経であります。 その現証として釈尊は、方等時以来、永不成仏(永久に成仏できない)として嫌ってきた二乗の成仏を許し、さらに、自身の本地(真実の正体)が久遠の昔に成道していた仏であることを明かして、その仏の命を得た源である一念三千法門が、久遠より常住する普遍的真理であることを示されたのです。 般若経は、禅宗等が用いていますが、 凡夫に内在する仏性は、即身成仏の実義の存する法華経を信受し、修行することによってのみ、事仏として顕現するのである。一代仏教の骨髄である法華経を信ぜず、背くことこそ魔の所為なのです。 如何でしょうか?
お礼
●わからない言葉が 多すぎて 内容がつたわってきません。 分かる方には わかるのでしょうからその方のためになるんでしょうね。 ご回答ありがとうございました。
- caballero
- ベストアンサー率17% (31/182)
さっきのつづきです。 死んだ後は無です。 生きている間も同じ無です。 どっちでもない場合も、同じ無です。 だから、皆に言います。 囚われる必要などない。 囚われるなら、あえて囚われてください。 どうしようもなく、囚われてください。 恋愛もそうですし、生き様もそうです。 どうしようもない、って、イケてます。 囚われないのも、イってます。 イッテイル人は、行けてます。 「イケてるじゃん☆」って、言いえて妙です。本気で思います。 「キテるじゃん☆」も、同じように思います。 行くと来るは同時です。同じですが、違わないこともない。 僕らはそのような者です。 chihokoさん、例の時があるといいですね。僕はそう思います。 次の次だけど、。
お礼
●例のときがあるといいですね ってなんだそれ? そんなもの なくっていいですよ。
- caballero
- ベストアンサー率17% (31/182)
これは皆に言います。chihokoさんへでもあるが、chihokoさんだけではありません。chihokoさん、そのときがあればいいですね。これはそのときじゃないです。次だけど、。 仏法、仏教の薦めは、他の回答者がされておられるので、もうしませんが、空観について少し言います。(仏教徒ではありませんが、だからこそ、聞いてもらえると思います。僕は皆です。) 存在そのものの証明です。あなたは、かつて存在そのもの証明をした人はいないといいましたが、いたのです。また、今もいます。 = または0=0または無=無または よって同時に全てがあります。 むずかしいですか?もし、何かから開放された感があれば、わかったのでしょう。 ぐるぐる考えて☆ あかしはあなたに与えられます。それは知です。知りなさい。 >この物理学における質量不変の法則は、まさに仏法で説く成住壊空、無常即常住の存在観の一端を明確に証明しているのである。 成常壊空みな無(空)です。無常即往生、無常は常ならず、往生は無です。色即是空、これが空観です。空とはなんと言いえて妙であることか、。仏法、その真性に似合わず、ほとほとおろそかかにされているものです。 末法ですか、。その通りですね。しかし、法は死んでません。 物理学では仏法は証明できない。むしろ、仏法が物理を証明するというほうがまだいい。物理学の証明は、何のあかしにもなりません。ただ、それが仏法に少しでも皆を傾かせるなら、それでいいです。(僕が仏教徒であるとは言いません)質量が光になるのは、質量もまた無常であることを「科学的に」証明しています。これは何のあかしでもありません。 不変もむです。成もまた無であり、往もまた無です。壊もまた同時に無であり、空もまた同時に無です。あかしもまた無であり、三千大千世界が、五×百×千×万×十万×一千億×一兆の四乗×千個も集まった世界が、さらに無数に集まっている、無限の大宇宙 もまた、同時に無です。 あなたの意識も無です。 無意識も無です。 自我の本質もまた無です。 叡智ももちろん無です。 真も無であれば虚もまた無です。 愛もまた無ですし、 イエスもまた無です。 神々もまた無ですし、 道もまた無です。 得もまた無であるし、 因果もまた無です。 全てもまた同時に無です。 無でないものもまた、無です。 比べる者が無い。これをもって、空とします。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー あるその人が 清らかな叡智を深く働かせていた時 五つの要素は皆空であることに気づき 全ての苦厄から解放されました。 シャーリープッタよ。 色不異空 空不異色 色は空に他ならず、空は色に他ならないのです。 色即是空 空即是色 色はすなわち空であり、空はすなわち色なのです。 受・想・行・識もまた、これに同じです。 シャーリープッタよ。 全ての法は空の相なので 生まれたり消えたりするものではなく 汚れてもいないしきれいでもなく 増えたり減ったりもしません。 この空の中にある以上、 色は無であり、受や想や行や識も無であり、 眼耳鼻舌身意の六根も無ですし、 色聲香味觸法の六境も無ですし、 眼界も無、意識界も無です。 無明(愚かさ)というのも無ですし、 無ゆえに尽きることのないものです。 老や死も無ですし、それもまた 無ゆえに尽きません。 苦・集・滅・道さえも無です。 智も無ですし、得も無です。 なぜなら得る所も無ですから。 悟りを求める人は 般若波羅蜜多を拠り所にしますから 心にこだわりが無く、 こだわりが無い故、恐怖心がありませんから 一切の顛倒した夢想を離れて 涅槃を完成させます。 全ての仏も 般若波羅蜜多を拠り所にしますから 阿耨多羅三藐三菩提の境地を得ました。 ゆえに知るべきです 般若波羅蜜多は 大いなる力の言葉であり、 大いなる光の言葉であり、 この上なく尊い言葉であり、 並ぶもののない言葉です。 一切の苦を取り除いてくれる、 いつわりのない言葉です。 それ故に般若波羅蜜多の呪は次のように言われます。 行こう、行こう、とらわれのない世界へ行こう 素晴らしい所へ行こう 全ての人に幸あれ。 ここに般若心經を終わる チャンチャン♪終わってるのに~ 知るべきです。あなたはすでに知っている事を知らない。何故すでに知っているのかと言うと、あなたもまた無であるからです。 無でないものはないので、すべてあります。 みんな、行ってる言ってるもう来てる!(笑だけどマジです。 僕がふざけている間は真剣です。ふざけなくなったら、もう限界ってことです。 だから、聞いてください。ふざけなくなる事は、あるかも無いかも。
お礼
●ふつうですよ そうゆう考え方もあるということです。 あんまり そのかんがえかたにつかってると 観念になって ぬけられなくなっちゃうぞ! あなたは かくことが 長すぎる んで中身がない いろいろ勉強して知ったなら その次へいきましょうよ。 そこでとまって なるほどなるほど では今を生きたことになりません。 今を生きるとは いまあることに背をむけて次に向かうことなのですよ。 時間は止まらないのです。
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
卓越した教義として、『法華経如来寿量品』には、 仏法に説かれる宇宙・天体の姿 「譬えば、五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祗の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き・・・是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず」 とある。まず『三千大千世界』とは、太陽を中心とする、月、地球、他の惑星等を、ひっくるめて一世界とし、これを一千万集めたものを一小千世界、さらに、これを千個集めたものを中千世界、そしてさらに、これを千個集めたものを大千世界、もしくは三千大千世界というのである。また、『五百千万億那由佗阿僧祗』とは、五×百×千×万×億(今日の単位でいえば十万)×那由佗(今日の単位でいえば一千億)×阿僧祗(今日の単位でいえば一兆の四乗×千)ということであるから、『五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界』とは、三千大千世界が、五×百×千×万×十万×一千億×一兆の四乗×千個も集まった世界をさすことになる。そして、このような世界が、さらに無数に集まって、無限の大宇宙をおりなしている、と説かれているのである。 今日の天文学によれば、太陽を中心とする我々の太陽系のような惑星群、それが約千億も集まって、直径約十万光年という巨大な銀河系の星雲となり、この小宇宙とも呼ぶべき星雲が、さらに数十から数千乃至数百億個も集まって、大きな星雲団を構成していることが確認されている。しかも、この宇宙には、そうした大星雲団が無数に存在しているというのであるが、現在の天文学は、いまだ、その全貌を観測するまでには至っていないのである。こうして仏法に説かれた宇宙観と、近代天文学によって確認されつつある宇宙観とを比較してみるとき、細かな数値の違いはともかく、基本的な宇宙観については、両者のあまりに正確な符合に驚かされるのである。しかも、片や、望遠鏡も何もない三千年前に説かれた仏典であり、片や、現代の天文学がようやく到達した観測結果なのであるから、まさに驚愕に値するではないか。 三世十方の国土観と生物の存在 この宇宙観に関連して、仏法には、三世十方という概念がある。それについて日蓮大聖人は、 「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏」 と仰せられている。すなわち、この娑婆世界(地球)を中心としてみた場合、東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、それに、さらに上・下を加えた十方の世界に、それぞれの先覚者(仏)が出生して仏法を説き、民衆を教化救済しており、しかも、それは過去から現在・未来にわたって行なわれている、というのである。このことは、地球からみた十方・・・宇宙のいたるところに、地球上と同じうな、無数の国土・社会が存在していることを、明確に示したものといえよう。一方、今日の天文学においても、この地球と同じ条件を具えていると思われる、高等生物の存在しうる可能性のある惑星が、数多、発見されつつある。それは、いまだ天体望遠鏡を通じた彼方の世界のことであるが、それらの惑星に、我々人間と同様の衆生が存在するとしても、まったく不思議はないし、将来にわたる研究・観測によって、やがて、その実在が確認さえる日も訪れるかもしれない。いずれにせよ、生命を、この地上かぎりのものとし、夜空の星を小さな宝石のごとく思いこんでいた時代に、仏法では、このような卓越した宇宙観、国土観を説き示していたのである。 成住壊空と無常即常住の概念 また次に、仏法には、成住壊空という原理が説かれている。これは、万物の生成の始まりから死滅に至る変化相を示したもので、仮に、ひとつの惑星にたとえていえば、最初、その惑星が形づくられた誕生期が”成”、そして数十億年が経過し、人間でいえば壮年期に入った状態が”住”、それが、やがて崩壊する時を迎えた状態が”壊”、そして、惑星を形成していた元素が飛び散り、もとの惑星の形が完全に消滅してしまった状態が”空”にあたる。ここで留意すべきは、最後の”空”という概念である。すなわち、この例でいうならば、惑星としての形は消滅したものの、惑星を構成していた元素自体はなくなってしまったのではなく、形を変えただけで、宇宙のいずこかに存在しているのである。したがって、”空”という状態は、ある面においては無のようであり、また別の面からは有のようであるといった、有・無を限定できない、しかも有・無に偏した状態といえよう。しかして、成から始まった変化相は空に至って終わるかのごとくみえるが、じつは、宇宙の万物は、成住壊空の四段階を繰り返しつつ、常に変化を続けながら存在しているのである。前の例でいえば、空の段階 となり、宇宙に飛散した惑星の元素は、やがて、あるいは再び小惑星を形成したり、あるいは塵となって宇宙を漂うといった、まったく新たな成の段階を迎え、さらに住、壊、空へと変化していく、ということである。このように、宇宙には、永遠に変化せず、そのままの形でいるものは何ひとつとしてなく、すべてが、成住壊空の変化相を連鎖しつつ、永遠に存在している、というのが仏法で説く無常即常住の存在観なのである。さて、近代の物理学においては、ある物体に、いかなる物理的あるいは化学的変化が起きても、全体としての質量及びエネルギーは不変である、との質量(あるいはエネルギー)不変の法則が発見され、物理学の根本的原理のひとつとなっている。この物理学における質量不変の法則は、まさに仏法で説く成住壊空、無常即常住の存在観の一端を明確に証明しているのである。また、そればかりではなく、近年の天文学における恒星進化論、あるいは膨張宇宙論なども、恒星さらには宇宙そのものまでが、成住壊空の四段階を繰り返しつつ存在していることを示唆しており、今後の研究の進展によって、さらに仏法の卓見の偉大さが、裏付けられていくであろう。 草木・国土・宇宙と衆生の関係 こうして、仏法の教義内容のうち、科学の成果によって立証されてきたのは、なにも宇宙観にかぎったことではない。宇宙における人間の存在、宇宙と人間の関係についても、科学を超越した、仏法の勝れた叡智に深く感慨をおぼえるのである。すなわち、仏法においては、宇宙万物が地・水・火・風の四大元素から構成されるとしており、我々人間の身体についても、 「必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ」 と説いて、やはり四大から成っていることを明かしている。さらに、また、 「夫十方は依報なり・衆生は正報なり・・・正報をば依報をもつて此れをつくる」 と、宇宙を依報、我々衆生を正報として、正報は依報によって形成される、とも説いている。つまり、この大宇宙を構成する諸元素と、我々の身体を構成する諸元素とは同一のものである、というよりも、むしろ、大宇宙を構成する諸元素そのものによって、我々の身体が構成されている、というのである。むろん、ここで挙げた四大という元素は、きわめて哲学的意味合いを表わしており、今日でいうところの分子や素粒子などといった単位とは、おのずと異なるものである。しかしながら、この我々の身体を構成している元素が、はるか昔においては、他の惑星や恒星を構成していた物質であり、あるいは、いずこかに繁茂していた植物の一部でもあることは、今日の科学が指し示す厳然たる事実なのであって、単位の違いこそあれ、仏法の説く宇宙と人間との関わりの一面を、みごとに証明しているものといえるであろう。また、このことに関連して、仏法においては、我々衆生も、草木国土も、本来は同一のものが二つの形に現われたものである、と説いている。生物学でも、かつては生物と無生物とを絶対的に区別してきたが、研究が進むにつれて、生物と無生物の中間的存在ともいえるビールスが発見されるなど、最近では、生物・無生物の区別がかえって混沌としてきている。このことは、仏法で説くごとく、我々衆生と草木国土とが、まったく異なるものではなく、根底の本質が同一であればこそ、ともいえるのである。 仏法は科学を凌駕する極説 以上、いくつかの事例をもって、仏法に説かれる宇宙観、生命観等が、科学研究の成果によって証明されつつあることを述べてきたが、ここに挙げた事例は、まだまだ、その、ごく一部にしかすぎぬことを付言しておきたい。そして、しかも、こうした仏法に説かれる卓越した宇宙観、生命観等も、けっして仏法の極理そのものではなく、これらを基礎・初門として、さらに、その上に、人生と社会とを真に救済する、究竟の極説が開顕されていることを知らねばならぬのである。まさに、科学をも凌駕する真の宗教・・・その実在を、我々は、今こそ拝信すべきである。 如何でしょうか?
お礼
●あなたは 法華経如来寿量品に記されたことを ことのほか 驚かれているようですが よく見聞きすれば 言えることだと思いませんか? たとえば植物や動物や太陽やよぞらの星々を感じる 植物や動物を自分の手でとって食べるんですよ。 そのようにして生きてる人間には わかるものです。 お釈迦様でなくとも 十分に語れる世界観だと思います。 言うか言わないかの違いだけでしょう。 お釈迦様は言える環境に居たんでしょう。 望遠鏡のなかった時代の人々をあまくみてはいけません お釈迦様がいたということは それくらいにかんがえれるひとが ほかにも大勢いたと考えるほうが 自然です。 究竟の極説 とやらを ご紹介いただきたいものです。
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
では、まず、このことがご理解出来るでしょうか? 釈尊の本意は何であったか!? 仏教をよく知らない人々は、「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経』という経典の中で、 「自分は、かって菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養・理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」(無量義経説法品第二) と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、 「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二) 「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二) 「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十) 等と宣言し、『法華経』こそが、釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。 このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。 法華経の文底に前代未聞の大仏法が さて、その法華経の中には、 「悪世末法の時」(法華経分別功徳品第十七) 「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四) 等々と、「末法」という時代のことが説かれています。「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」というものです。では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(観持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西にただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。 如何でしょうか? 既存の概念ごときで推し測れるものではありません。 相当、自分をおごられておられるようですね。
お礼
●ご回答いただいた内容はたいへんよくわかりました。 たかだか2000年のスパンなんですね。 縄文の人々は平和な(環境を汚さない生活)時代を一万年つづけていました。 稲作がおこなわれて 富の集積がおこなわれるようになってから 環境は破壊されはじめたのです。 お釈迦さんが なんていってるかよくは知りませんが 縄文の人々の生き方に いきることのヒントがあるような気がしてなりません。 ●前代未聞の大仏法を予言した。 弥生時代から自然の破壊は 進み 富の集積による 欲が欲を産む構造は かなり地球がだめになるまで修正できないものでしょう。 いずれここまでかって言うところに来て ひとは気づくのです。 だからそのとき 大仏法が出現すると言えるわけですね。 でもそれは 南無妙法蓮華経 では無いと思います。 わたしの感では サイバースペースに生まれる 世界をひとつにイメージさせる マネーと理念が結びついた「憲章」のようなものだと思います。 そうです ひらたくいえばA.I.です。 その世界をひとつにイメージさせる意思「憲章」は 地球を元どうりのすばらしい命あふれる方向にみちびいてくれます。 もちろん みちびくだけの力(パワー)をその意思はもっています。 そのパワーと知恵は わたしたち人間の願いの結晶なのです。 ご回答ありがとうございました。
- mimosa2001
- ベストアンサー率22% (121/539)
神様の手ごたえが欲しいということですかね。。 「全能の神がいるのなら、究極のカレーライスを今ここに出せ!」と 言っているのと同じ感じがします。 あなたにその手ごたえが感じられる日は、神の思し召しで決まるのかも。
お礼
●手ごたえなんか ほしくないです。 うそを 信じさせて ひとをコントロールした時代を終えたいだけです。 真理をうそで 隠して うそを信じ込ませることほど罪なことはありません。
- PEPSI
- ベストアンサー率23% (441/1845)
> その女を言うことを聞かせるように改造できると思います。 これは明らかにルール違反ですよ。 例えば教師が生徒に問題を出して、その教師がその問題を解くときには勝手に問題を変えていいことにはならないでしょ。 「言うことを聞かせる」ことと「言うことを聞くように改造すること」というのは違いますよ。
お礼
●No6のかたの 盾と矛の 設問と同じひっかかりなので いちどに かるく説明させてもらいます。 A:絶対射抜けない盾がある=なんでも射抜ける矛はない B:なんでも射抜ける矛がある=絶対射抜けない盾はない AとBが 同時に起こることを命題としているわけです。 つまり 絶対射抜けない盾がある と 絶対射抜けない盾はない が 同時に起こることを命題にしているわけです。 ●ある=ないでない ●ない=あるでない これは公理です。 これ以上説明ができないこの公理により論理展開しているわけです。 だから AとBが 同時に起こることを命題とすることは論理が破綻しているのです。 ●ここまでは 分かりますか? わからなきゃこの話題には不向きです。 ●さて 全能の神はこの論理破綻はどうでもいいのです。 だから なんでもありです。 だからこそ そのことが幸せを指向しているのか?と疑問におもうわけです。 とりあえず 人類がとけなかった難問でも解いていたらすごいでしょ! たぶん といてねーぞーー! って感じの設問なんですよ。 次のステージにすすんでね。
お礼
●風車を回そうなんて 風になろうなんて思ってはいけません。 あなたは あなたのままを生きればいいのです。 言うことは ひまつぶし 誰かにわかってもらおうと思うから辛くなるのです。 堂々と思うがままを ひまにまかせて 叫んでみればいいです。 それが いつか気がつけば 風になります。 いつか気がつけば 風車は回っています。 わかってもらおうなんて思ってはいけません。 期待とは 裏切られるものなんです・・・。 何も望まない 何も託さない 何も奪わない いいじゃないですか 無用の長物で・・・。お互い。