終戦直後の日本、ことに東京など大都市では文字通り混沌状態でした。
東京で言うなら、空襲で大半の住まいは焼かれ、あたり一面焼け野原、産業もその生産拠点を破壊されて大半が活動を停止するか細々とでも活動が出来ればいい方、国鉄や都営交通をはじめ公共交通機関も空襲によって壊滅的な打撃を受け、ことに車両の焼失が輸送力を大幅に低下させてしまっていました。
輸送力の低下はそのまま物資の流通に影響を与え、その結果、都会では極度に食料が払底し、日常の必需品も産業と輸送力の低迷から、供給不足という言葉では表せないほどの逼迫状態に。
このような状況と、さらには占領下の政治行政の不安定さが加わった結果、物価は急騰して極度のインフレ傾向に。
こうしたことが一般家庭でのそうでなくても苦しい生活をさらに圧迫することになりました。
多数の家庭では夫をはじめ男手を戦争で失い、幸いにも生き延びて復員してきた戦士たちにもこのような世情では仕事とてまともなものはない。
しかも、食料の不足から栄養失調や肺結核などで倒れる家族も増え、ことに栄養失調などは恐ろしいことに誰でもが経験する日常のことに。それでもなお、医療機関は復旧が遅れ、医師も医薬品も不足し、今ならすぐに治る病気も当時では致命的なものに。
とまあ、まさに今の北朝鮮を彷彿とさせるような生き地獄だったのです。
幸いに男手がある家庭や、体力が残っている主婦たちは競って超満員の列車にぶら下がり、田舎に向って今日明日の食料の買出しを試みたものです。
しかし、父親は戦死か消息不明のまま(これが実に多かった)、母親は栄養失調に加えて肺結核で寝込んだまま、こうした家庭もまた大変多かったのです。
これが靴磨きの少年を生んだ背景です。なにしろ病気の母親とともに食べていくには、子供とはいえ働かなくては、そして、わずかでもお金を手にしなくては生きていけなかったのです。
今ならいろいろなバイト先もあるだろうと考えますが、彼らはまだ小学生ぐらいの身、まして産業が停滞していたのでは資源の回収といったものすら出来ないのです。そんな彼らに残された収入源といえば、男の子なら靴磨きか新聞配達、女の子なら花売り娘ぐらいが精一杯。こんな仕事にもありつけないでカッパライやスリ、タカリなど悪の道に踏み込んだ少年も多かったと思います。
一方、他の方がお書きのように、当時の道路は、都心はともかく、まだまだ未舗装が多い、そして靴は超の文字がつくほどの貴重品だったのです。
当時とて空襲を逃れた山の手の住人たちにはそれでもまだ幾分かの経済的な余裕があったようですし、急速に回復を見せ始めた産業によって、たとえわずかでも給与を得られる層が次第に増え始めるにつれて、彼らは靴を磨くという余裕を取り戻しました。
ここで、若い皆さんにぜひ知っておいて欲しいことは、靴がホコリで汚れたから靴磨きの少年に磨かせる、それだけではなかったのです。
当時の日本人は、寒さ暑さを我慢しながらも一生懸命靴を磨く少年たちを見かけたら、そして、わずかな時間があって、大して高い料金でもない靴磨き代に相当する、彼らにとってもなけなしの大切な小銭を持っていたら、気持ちよく近寄って彼らに靴を磨かせたのです。それによって少年の収入がほんのすこしでも増えるなら・・・・・そう考えていたのです。
戦争は不幸なことです。しかし、それはまた、戦争という非常時によって国民の心はかえってひとつにまとまり、互いに助け合うという精神を定着させていたのです。そして、終戦直後の混乱期にはまだこうした暖かい気持がみんなに宿っていたのです。