• ベストアンサー

漢詩の風景

「漢詩の風景」の最後のあたり(光村図書、中学2年の教科書のp181)に「あとには、天際まで続く長江の水が流れるばかり。こう歌い放つことによって、別離の悲しみは尽きずに漂うのです。」とありますが、なぜ、こう歌い放つと、別離の悲しみは尽きずに漂うのですか?教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • TY79
  • ベストアンサー率40% (26/64)
回答No.3

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送るですね。 転句では、大きな長江にポツンと浮かぶ船の白い帆が消えてしまいましたよね。 親友が小さく小さく見え、最後には消えてしまった。 そして後に残るのは変わることなく大きな長江が水平線の彼方へ流れていく様子。 人間のちっぽけさが感じ、大きな自然の中にその人間は消え入っていく。別れ悲しみのうえに、そのちっぽけさが郷愁を誘います。大きく変わることない自然が、その小ささをさらに引き立てます。 というわけで、僕には、悲しみは尽きずに漂うに感じられます。

その他の回答 (3)

  • echalote
  • ベストアンサー率51% (66/129)
回答No.4

前の方が書いているように、自然の大きさ、そこに取り残される人間の小ささ、でもその小さい人間の悲しみはとてつもなく大きい、、、そんな風に私には感じられます。 もし、どうしてこう歌い放つと別離の悲しみは尽きずに漂うのか、中学2年生の今よくわからなくても、本当の別離の悲しみに出会ったとき、それがわかるかもしれません。 こんなふうにこの表現に疑問を持ったあなたの感受性はとてもすばらしいと思いました。

  • sosdada
  • ベストアンサー率33% (265/792)
回答No.2

#1です。再び。 例えば 江南の春   杜牧 千里鶯啼いて 緑紅に映ず 水邨山郭 酒旗の風 南朝 四百八十寺 多少の楼台 煙雨の中 は、古来日本人にも愛唱された詩です。 ほころび始めた梅に止まってなく鶯のさえずりが聞こえ、遠くにお寺の瓦屋根が小雨に煙って見える という、春の山の茶店から見えるひなびたのどかな風景だと思うでしょう。何百年も日本人はそう思ってました。学校の先生に聞いて御覧なさい。でも、事実は違います。長江付近は亜熱帯の地です。生態系が日本とはぜんぜん違います。 「ブーゲンビリアかハイビスカスみたいなまっ赤っ赤の花が咲き乱れ、コウライウグイスという、まっ黄っ黄に背中に黒筋一入った、ハトぐらいの大きさの鳥がそこらじゅうで「パアオ~ン」「パオーン」「プオーン」と高らかに鳴く騒ぐのです。峠の飯屋では火をつけたら燃えそうなアルコール度数の高い「高粱酒」を客に出し、豚の焼肉の煙がもうもうと立ち込めていて、「ああ、春やなあ・・・」 が、本当の風景です。 私はタイ→ラオス→現地に行った人間ですが、もちろん詩なんてものは読む人の自由な解釈を許しているので昔の日本人の解釈でも良いのです。要は、想像力です。イメージする力です。

  • sosdada
  • ベストアンサー率33% (265/792)
回答No.1

なぜと言われても感覚的なものですからねえ。しかも中国の広大は風景は小さい風景の中に住んでいる日本人には想像し難いし。 たとえば、親友や恋人や家族と別れるとき、地下鉄の駅と、遠ざかる船を水平線のかなたに見送るのと、を想像で比較してみてください。どちらが、ああ、あの人とはもう会えないのかもしれないなあ、思えばあんなこともこんなこともあったなあ、と感慨にふけるに「絵になる」か。現実の話じゃなくて、詩として。