こんにちは。
質問者さんの仰る通り、我々の目に理解が可能な動物の「回避行動」や「威嚇行動」は、ほとんどが「恐怖」や「怒り」といった「情動」の伴ったものです。
我々人間以外でも、多くの動物が「情動」というものを持っています。ですから、情動を持つ動物であるならば「恐怖」いう感情を発生させることは幾らでも可能なんです。ですが、「死」に対して恐れを抱くためには、「死の概念」というものが理解できなくてはなりませんよね。ところが、この、我々人間以外の動物にも「死の概念」を獲得することができるかどうかに就いてが、どうにもまだ、はっきりと解明されていないんです。
全ての生物は生きることが定めとされています。生きるというのは、死に抵抗するということですよね。ですから、あらゆる動物に何らかの形でそのための機能が備わっています。そして、通常の生体活動も全く同様なのですが、動物が死の危険から身を守る手段は「本能行動」と「学習行動に」のふたつに別けられます。
何らかの危険を察知し、「生得的に定められた基準」に従って「回避行動」を執るのは「無条件反射」であり、「本能行動」です。それに対しまして、「生後の体験・学習によって獲得された基準」に基づいて、与えられた状況に対応した多彩な行動選択を行なうのは「条件反射」による「学習行動」になります。そして、我々が本能行動以外の行動を選択することができるのは、脳内に「情動」を発生させる機能を持っているからです。
感情の源であります「情動」は、「大脳辺縁系」で発生すると考えられています。ここには身体内外のあらゆる感覚情報が集められており、それに対しての「価値判断」が行なわれます。価値判断というのは、それが自分にとって「有益か、有害か」ということです。
この価値判断によって大脳辺縁系内に「快情動」が発生するならば、それに伴って「接近行動」が選択され、「不快情動」であるならば「回避行動」が選択されます。それが危険に対する不快情動である場合は、やがて「恐怖」という「感情」に分岐・成長します。
このようなものを「情動行動」といいます。情動というのは、感覚器官から得られる身体内外の環境の変化に基づいて発生するものです。このため、我々は本能行動以外の、状況に怖じた多彩な情動行動を選択することが可能になります。
回避行動や喜怒哀楽といった感情のパターンは生得的に定められたものです。ですが、何に対してどのような情動を発生させるかといった「判断の基準」は「生後の体験によって学習されたもの」です。ですから、それによって選択される情動行動は、全てが「学習行動」ということになります。このためには、本能的な反応以外の判断基準が生後の体験によって獲得されなければなりません。つまり、それが自分にとって危険であるということが学習されなければ、恐怖という情動は発生しないということですね。
これが「本能行動」と「学習行動」の違いです。従いまして、「生得的に定められた基準」に伴って選択される本能的な回避行動には、情動というものは発生しません。このような行動は、大脳皮質に知覚されるまでは全てが無意識行動です。ですから、情動が発生したように思えるのは、「自分は今恐ろしいと思った」といった大脳皮質の判断があとから付け加わっているからであり、実際には、本能行動に情動は発生していないんですね。
我々人間を含め、哺乳動物の脳は、
「思考を司る脳:大脳皮質」
「情動を司る脳:大脳辺縁系」
「生命を司る脳:脳幹以下、脊髄まで」
の三つに分けられます。
「生命を司る脳」は「爬虫類の脳」などと呼ばれています。この爬虫類の脳を基盤にし、その上に「大脳辺縁系」が発達して、やがて「大脳皮質」がのっかったというのが「我々哺乳動物の脳」です。ですから、爬虫類以下の動物の脳には、「情動を発生させる機能」と「考える機能」というものがありません。
心臓を動かしたり、呼吸をしたりといった、動物が生きてゆくための基本的な作業や、無条件反射による本能行動は全て生命を司る「爬虫類の脳」で行なわれています。ですから、生死に関わる危険から本能的に自分の身を守るといったことは爬虫類の脳でもできるわけなのですが、「大脳辺縁系」がありませんので、そこに「恐怖」という情動が発生することはありません。そして、「死」というものの概念を理解するのは「大脳皮質」の役割ですから、「危険」は回避しても、「死」を察知したことにはならないということになります。
このように、脳の発達という分類を行ないますと、動物は爬虫類のところで以上と以下にはっきりと別かれます。魚類や昆虫類は爬虫類以下の動物になります。爬虫類以降としましては、我々哺乳動物の他に鳥類が含まれます。
さて、我々哺乳動物は「爬虫類の脳」の他に、「考える脳:大脳皮質」と「情動を発生させる脳:大脳辺縁系」を持っています。
先程も申し上げました通り、恐怖という情動は、それが自分にとって「有害・危険」であるということが学習されなければ発生することはありません。ところが、大脳辺縁系には考えるという機能がありませんので、自分が体験したこと以外は学習することができないんです。つまり、大脳辺縁系で「死に対する恐怖」を発生させるためには、実際に死を体験しなければならないというわけです。これはたいへん難しい注文ですよね。
未体験の事柄を概念として獲得するためには、何らかの「擬似体験」によって判断を下す以外に手段はありません。大脳辺縁系にはできませんが、大脳皮質には考えるという機能がありますので、これが可能になります。
ですが、今度は逆に、大脳皮質には情動を発生させる機能がありません。では、「死の恐怖」という情動はいったい何処から生み出されるのでしょうか。
恐怖という情動は危険と学習されたものに対して発生するものですが、大脳皮質に死の概念が獲得されていなければそれを学習することはできませんよね。大脳辺縁系は危険と判断したものに対して不快情動を発生させ、回避行動だけではなく、心拍の上昇や発汗などといった生理反応など、様々な身体反応を引き起こします。
このような行動や反応を知覚し、自分は今、何に対してどのような情動を発生させたのか、といった、結果に対する「理由付け」を行なうのが大脳皮質の役割です。これにより、情動は初めて「恐怖」といった具体的な「感情」として認知・分類されます。
このとき、それが生死に関わるような重大な危機であったとするならば、当然、大脳皮質内に記憶として保持されている「死の概念」や、それに関連する過去の体験が引っ張り出され、そこに結び付けられることになります。そして、大脳皮質が「自分は今死ぬかと思った」などと考えますと、大脳辺縁系は、今度はそれに対して不快情動を発生させます。
つまり「死の恐怖」というのは、大脳皮質に記憶として保持されている「死の概念」が意識の上に想起されたことに対して発生する大脳辺縁系の反応ということになると思います。そして、このような学習が刳り返されることによって、やがて「死・Death.」などといった言葉に対しても不快情動が発生するようになります。
といったようなことですので、まず「死の概念」というのは大脳皮質に獲得されたものでなければなりません。そして何よりも、「死の概念」は他の様々な概念とは異なり、擬似体験以外で獲得されることはあり得ないということですね。
では問題は、他の動物の大脳皮質には、擬似体験によって「死の概念」を獲得することができるかどうか、ということになると思います。
「擬似体験」といいましても、別に仮死状態になったり臨死体験をしたりというわけではありませんよね。擬似体験といいますのは、例えば、
「既に導き出されている結果を知識として学ぶ」
「既存の体験に基づいて未来の結果を予測する」
といったことではないかと思います。
知識としてそれを学ぶためには、我々人間には言語というものがありますが、まず、動物にはこれができませんよね。もちろん、言語を理解する動物というのは世界中の研究所やサーカス団にたくさんいます。ですが、それが「概念」を理解しているかどうかに就いては、まだ多くの学者さんたちが首を傾げているようです。
言語による擬似体験がたいへん大きなウェイトを絞めるというのは間違いのないことだと思います。ですが、死の概念というものを獲得する上で、言語を持たないというのが決定的なハンディキャップであるというわけでは決してありません。
我々は子供のころ、そんなことをすれば死んでしまうなどと良く脅かされます。また、死が忌まわしいものとして本などに書かれているならば、我々はそれに対して恐怖を感じることもできます。
ですが、他人はそう言いますが、死というのはどうして恐ろしいものなのでしょうか。これが分からなければ死の概念を理解したことにはなりませんよね。このためには、既存の体験を元に自分の未来を予測し、そこに「死」というものを置いてみる必要があります。
動物は、自分の利益・不利益に就いて判断を下すことはできますが、他者の利益・不利益を自分のこととして学習することができません。
死というのは実際に体験することができませんので、自分の身の回りにある死というのは全てが他人にとっての不利益でしかありません。ですが、我々はそれが自分の未来にも発生し得ることであり、自分にとっても間違いなく不利益であるということを知っています。これは、我々人間には「自己と他者」というものの区別を理解することができるからです。つまり、人間には他人の苦しみを自分の苦しみとして受け取ることができるわけです。従いまして、これができなければ、動物には死の概念を獲得することはできないということになります。
果たして、哺乳類のような高等動物には、人間と同じように「自己・他者」の区別を付けることができるのでしょうか。これに就きましては、世界中の学者さんたちがそれこそ血眼になって研究をしているのですが、どうしたことか、未だに決着が付いていません。どのような状況かと言いますれば、動物にもそれができると主張する側には、どうしてもそうとしか考えられないといった結果が山ほど見付かってはいるのですが、悩ましいことに、これといった決め手となるものが、今ひとつ無いようなんです。
何故、人間の脳が言語を扱うことができるのかに就いては、「言語中枢」という明らかな解剖学的違いかあります。ですが、どうして「自己を認識できるのか」といった理由に就いては、他の動物の脳との解剖学的違いは特定できません。つまり、我々人間も他の哺乳動物も、「情動を発生させる機能」と「考える機能」は全く同じものだということです。従いまして、これは大脳皮質の発達の違い、つまり「死の概念」というものの複雑さの問題でしかないのではないかと思います。
ということなものですから、どうにも歯痒い結論でたいへん申し訳ないのですが、人間以外の他の高等動物にも「死を恐れるための機能は備わっている」、というのが私の考えです、悪しからず。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大変丁寧に答えていただき感謝しております。 プリントアウトして保存します。