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TV『功名が辻』始めから一豊?

原作も読んで大河ドラマの1回目を見ました。たしか最初は伊右衛門と名乗っていた、と原作にありませんか?http://www.ymm-shoka.com/kmgtsj.htmを見てもそうです。それが・・聞き間違いでなければ1回目のペーペー下級武士の上川隆也はもう一豊と呼ばれていましたよね?!日吉丸とも木下籐吉郎ともいわずいきなり秀吉と呼んだらみんな怒るでしょう?なんぼなんでも大石静さん(とNHKと時代考証者)はへん!じゃないですか?何か理由として考えられるでしょうか?煩雑になると判断したからかな?

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回答No.6

御指摘の通りです。 以前、ある歴史作家とお話した時に同じ話題で喋った事が在ります。 ドラマ等では織田信長も平気で諱の信長と言う名称を用いて「のぶながさま」等と平気で呼ばせていますが、基本的に諱は死後呼ばれる事はあっても生前にまして身分の下の相手から呼ばれる事は在りません。 実際はたいていの場合は官職名(右大臣等)・受領名(XX守・XX助)で呼ばれるか(信長なら右府様等)、 親しい人間からはあざなと呼ばれる愛称で呼ばれたはずです。 しかし、戦国時代では官職名(右大臣等)・受領名(XX守・XX助)は出世の著しい人間の場合、 次々と呼称を変えた事。 あざなも武士の場合は成長に従って変化した等の理由で変えた事から、 視聴者や役者にそのことを理解させる事が難しいと判断していると思われます。 これは期間の短い短編ドラマなら再現が可能ですが 特に呼称が複雑で身分変動の激しい戦国織田家信団を長期間描くのは致命的な問題です。 身分や立場・時期により名称を変えれば一番リアルですが 間違い無く複数の名称が次々に飛び出せば一般視聴者は意味が分からなく成るでしょう。 考証として間違っていると思いますが、 やはり現代の知識しか無い大半の視聴者を混乱させない為にも 歴史に詳しい人たちの常識を「敢えて」無視していると理解するのが無難では無いかと思います。 途中から見る人にも配慮しているのだと思います。 私も「西郷隆盛」なんて呼ぶのはおかしいぞ。などと思いながら視聴している一人です。(笑) 視聴率を意識した番組製作には限界が在ると・・・・。 しかし、御指摘の様に「立身出世」が一つのテーマであるドラマの場合 主人公一人ぐらい侍の出世を象徴する名前の変化を脚本に持ち込んでも良かったのではと 個人的には考えています。 分かりにくくても自国の歴史文化ですから紹介する意味も在ると思います。

JCSGS
質問者

お礼

皆様、回答ありがとう。なるほど「諱」と「あざな」の位置がおおよそ理解できました。>「立身出世」が一つのテーマであるドラマの場合主人公一人ぐらい侍の出世を象徴する名前の変化を脚本に持ち込んでも #そうですよね。3つ4つと変わるのではないし、いきなりの「一豊様!」は、見ている方が親しみづらいわけで。質問No.1747879で大河ドラマの歴史考証の大雑把さも分かりましたが、改悪はしないでほしいよね。

その他の回答 (5)

noname#24872
noname#24872
回答No.5

実際には、「一豊」と呼ばれたということは有り得ません。当時下級武士と言えどすべての武士は、元服式の際に親もしくは烏帽子親から「本名」と「仮名(かみょう)」を貰いました。 本名は諱(いみな)とも言い、当人が生存中は口に出して呼ぶことは、例え両親や主君と言えどはばかられるものでした。当人を指すのに本名を使って良いのは親と主君のみ、それも大抵は書面上に限られました。 そのため、通常名を呼ぶ時には仮名が用いられました。いわばニックネームのようなものです。山内一豊の場合、仮名が「伊右衛門」本名が「一豊」です。ですから、伊右衛門と呼ぶのが正しく、同輩もしくは赤の他人が「一豊」と呼ぶのは当人に対する大変な侮辱になりました。 ドラマで使っている理由は、現代では既に本名で呼び合うことが当たり前になっているためですが、昔は本名の代わりに仮名、幼名、字(あざな)、号、官名などを時と場合によって使い分けていたのです。

  • reny
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回答No.4

山内一豊は、1545年生まれで幼名は「辰之助」。12歳頃に居館に夜討ちをかけられ、その際に長兄を失っています。主家の城に移りますが、14歳頃には、主家の尾張守護代岩倉織田家が織田信長に滅ぼされ父も討ち死にします。 その後、美濃や近江を家族や一部の家臣たちと一年程流浪し、やがて近江の長野氏に寄寓します。一豊自身は同じ近江の山岡景隆の近習に仕え、15歳(数えで16歳?)で元服し「伊(猪)右衛門一豊(かずとよ)」を名乗ります。 信長の上洛作戦が行われ、1568年頃に主家の山岡家が織田信長に下り、織田家に仕えるようになると、山岡家から離れて木下藤吉郎に仕えます。 木下家仕官の段階で既に「山内伊(猪)右衛門一豊」だった訳ですから、秀吉や同僚が「伊(猪)右衛門」と呼ぼうが、「一豊」と呼ぼうが、それに「殿(どの)」をつけようが構わなかったのではないでしょうか? 一豊が仕官した頃の秀吉は、京都の行政を任される重臣の地位まで出世していました。 木下家(羽柴家)での一豊はその出自の良さと、若いと言う点から目を掛けられていたようで、金ヶ崎や姉川の合戦で活躍し、秀吉が長浜城主になった際にその功績で400石を受けています。 千代の輿入れはこの領主になる前のようですから、文字通り糟糠の妻だったと言えますね。

  • toro321
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回答No.3

もう元服してますし、岩倉織田の家老の家柄ですから、一豊と名乗っていても不思議ではありません。 ただ、通称はみんなもっていたようですよ。 秀吉と比べたらいけません(笑) 彼は氏がなかったですから、出世するに従ってそれなりの名前に改称してますから。 信長は三介(?)だったかな・・・ 前田利家は又佐だったし・・。 明智光秀は十兵衛ですし。 あまりドラマの中で名前を2つ3つ使うのは、どうかと言うことで、最初から一豊で行く気なんじゃないですかね? 土佐24万石で増長して一豊と名乗ったのでもないですしね。 原作の司馬遼太郎先生は、途中から呼び方変えるのは、多いですよ。太閤記では、途中まで猿ですし。

  • 6dou_rinne
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回答No.2

伊右衛門というのは通称で、一豊というのは本名ですので、フルネームはには山内伊右衛門一豊ですから別に変じゃないです。 まだ子供で元服前なら(秀吉の場合なら日吉丸の時代)一豊という名前になっていないですから変ですが、すでに元服はしているようですから。

JCSGS
質問者

お礼

んんNo1に書いたように「通称」だった、とは理解しました。だけどドラマとして皆がイエモンイエモン、妻だけはイエモン様と呼ぶ、その呼ばれ方での彼の奥底にある悲しさと、後に「一豊様」と皆々から呼ばれて土佐で「増長」するのが際立つ、ように原作が出来ていたように思う、のでアレと思ってしまったのは私だけですかね?

noname#15285
noname#15285
回答No.1

ご質問内のURLには「伊右衛門(一豊の通称)」となってますよ。 つまり一豊でいいのでは?

JCSGS
質問者

お礼

なるほど、いち、とよ、と大仰な名なので「秀吉」のようにもらい受けたものと思っていました。URLもまこの辺で、と出したものでした^_^;)

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