期限があるということですが、講義の課題か何かでしょうか?詳しくなければ調べにくいテーマではあるのですが、当サイトではマナー違反となるようですのでご注意ください。先ほど紹介しましたギンブタスの『古ヨーロッパの神々』がこのテーマに関して最も詳しく、また国内の大学図書館137館で所蔵しているようなので、できればご自身で読んでみていただけたらと思います。
ここでギンブタスらのヨーロッパ原始社会研究のすべてを紹介することはできませんが、今回は新石器時代古ヨーロッパの大女神と新宮殿時代クレタの蛇女神信仰の関連について、蛇女神そのものの分析を含め大まかにだけ解説させていただきます。
クレタの蛇女神像は、A.Evansによるクノッソス発掘(1903年)の際に発見されました。新宮殿時代中期から末期(前1600年頃)の層位から出土したもので、発見当初は頭部や蛇を持つ右腕、スカートの大部分を欠損しており、巫女か女神官の像であると考えられていました。後に帽子の破片が発見され、修復が行われたことで女神像であると考えられるようになりましたが、蛇の乗った頭部や右腕の形状は同様の遺物に基づく推測からの復元となっています。
ギンブタスは、この復元状態の蛇女神像と、前7千年期-前5千年期のバルカン半島の諸文化に見られる女神像、とりわけ女性としての身体的特徴と豊饒性を極端に図式化した「大女神」像(ヴィーナス像)の様式変化とを比較し、蛇女神の持つ様式的特徴の中に、印欧語族が侵入してくる以前の古ヨーロッパに存在していた原始文化の残滓を認めました。
例えばクレタの蛇女神は腰にはトルソーを巻いており、胸部の衣服ははだけていますが、これらの特徴はエーゲ海域の青銅器文化に先行する中央バルカンのヴィンチャ文化、東バルカンのカラノヴォ文化など(いずれも前4500年頃)で共通して見られた伝統的服飾でした。7段の縁飾りによって構成される裾の広いスカートは前5千年期には見られない文化要素でしたが、パネル状の装飾色はその丈の長さとボレロを合わせる盛装習慣もまたヴィンチャ文化に多く見られたものであると論じています。
また、同時代(後期クレタI期:前1600頃)に蛇女神像が安置されていたと思われる神殿が1950年にM.P.Nilsonによって発見・復元されましたが、この神殿遺構から併出した土器や遺構自体にもまたヴィンチャ文化の影響が認められるのだそうです。Nilsonは、多数の孔が開いた容器が蛇を模した把手によって装飾されているのは明らかにヴィンチャの土器装飾を継承しており、木造柱を擁する小祭殿の建築プランにおいては、直接的には中期ミノアのファイストスやハギア・トリアダに見られた列柱祭殿、さらに古くはイラクリオンなどで出産の女神に捧げられた石筍の祭祀習慣が原型であるとしています。
さらにギンブタスは、脱皮を繰り返すことで若返り、頭と尾をつなげることで永遠性を表現させることのできる「蛇」という動物自体が、自然主義的な原始ヨーロッパ社会においては生と死と再生を繰り返す宇宙の顕現と同一であるとみなされ、信仰の対象となっていたことを雷文・流水文の分析から示しました。
これらは論証の一例ですが、結論としてギンブタスらは、古ヨーロッパ原始社会において「大女神」は農耕社会における母性と豊饒性の象徴であると同時に、出産と死、創造と破壊という世界のサイクルを体現するコスモスそのものであったと捉えています。
彼女らのクルガン文化説においては、蛇や鳥といった死と再生の神話・創世神話に関わる動物をモチーフとする女神への信仰は、そのルーツを古ヨーロッパの「大女神」信仰に求められるものであり、クレタの蛇女神もまた古ヨーロッパの「大女神」の一側面を強調させた信仰が継続したものと考えるのならば、ミケーネ以前の非印欧系文化に母権社会を中核とする伝統性の存在が想定されうる、としているようです。
お礼
非常に詳しく解説していただきありがとうございました。とても参考になりました