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夢と現実について
以前「夢を夢だと判断できるのは、夢から覚めるからであって、今このときが現実であるということを証明することはできない」ということを聞いたことがあります。また、「唯識論によると夢も現実も同一のものだ」というようなことも‥。 これらのことについて詳しく知りたいと思い、図書館やインターネットで調べてみたのですが、見つかりませんでした。お勧めの本などありましたら教えていただきたいです。
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- kumasan0001
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こんにちは。 唯識論やこれらについては、小室直樹さんの「日本人のための宗教原論」の仏教の章に分かりやすく書かれています。これらの答えについて豊臣秀吉の辞世の句「 露と落ち、露と消えにし、わが身かな。 難波のことも、夢のまた夢。」や三島由紀夫の豊饒の海を例に解説しています。 一度読んでみてください。 http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E5%8E%9F%E8%AB%96%E2%80%95%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%82%92%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E5%8A%A9%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%B0%8F%E5%AE%A4-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4198611688
すぐになくなってしまうのが夢で長続きするのが現実ではないでしょうか。また現実といわれているものの二つを比べて長く続くほうが現実ですが短かったほうはやはり夢といわれてもしようがないように思います。社会主義と資本主義を考えるとまさに資本主義は現実で社会主義は夢であったのもその例になると思います。
- 19411941
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貴方の言うとおり、夢を夢だと判断できるのは、夢から覚めるからであって、我々が現実だと思っているこの世界は、意識が作り出した夢なんです。 だから夢(現実)から覚めるには意識を消す必要があります。 それは色即是空、もしくは無意識と言ってもいい心境で、 実は人間以外の動植物は無意識でも充分に生きていけます。 次のキーワードを調べると、より一層、唯識が理解できますよ。 【独我論、集合的無意識、共同幻想論、唯名論、唯幻論、唯脳論、胡蝶の夢】
- kobarero
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>「夢を夢だと判断できるのは、夢から覚めるからであって、今このときが現実であるということを証明することはできない」 このことが、正しいと言えるかどうか、私には疑問があります。と言うのは、「夢」には、以下のように、「細部確認の不可能性」という「現実」とは明らかに異なった特徴があるからです。 <細部確認の不可能性> 「夢」では、ものごとの細部の確認ができません。一方、「現実」では、ものごとの細部まで明瞭に確認できます。 例えば、夢か現実かわからない世界で、ある人に出会ったとします。その出会い関する5W1Hを言えるかどうか確認します。すなわち、その人は誰か、今日は何年何月何日の何時か、会った場所はどこか、その人はどんな服を着ていて、何を持っているか? また、私は、何故その場所にいるのか? 私は、どういう手段で、その場所に行ったのか? などが、即座に言えるかどうかをチェックします。さらに、相手の顔の目鼻口などの細部、また、周囲の景色、回りの人々を全て見ることができるか、また、着ているものの細部、その色などを全て確認できるかなどをチェックします。新聞や本が読めるか、日記が書けるかなども、良いチェック方法です。それが、できなければ、「夢」です。それが、できれば、「現実」です。「現実」では、身の回りの物事は、その気になれば、いくらでも細かく調べて行くことができます。しかし、「夢」では、それができません。 <現実が夢である可能性> 上記のように、「夢」と「現実」の間には、越えがたい大きな相違があります。しかし、人によっては、「そのように細部まで詳細に確認できるという性質を持つ現実」でさえ、実は、「夢」だったという可能性もあるではないかという人がいます。しかし、その場合は、我々が「現実」と呼んでいるものをその人が勝手に「夢」と呼び変えているに過ぎません。もし、そうでなくて、我々が「現実」と呼ぶもの以外に「本当の現実」があるのだというのであれば、その「本当の現実」とは、いかなるものかを問えばいいわけです。その答えはないはずです。答えがないと言うことは、その「本当の現実」は「空想」であり、「天国」や「地獄」について話すのと何も変わりがありません。 従って、「この現実は夢ではないと証明することはできない」ということは、「天国とは何か」の定義もせずに、「天国がないと証明することはできない」と言うのと同じレベルの話だと思います。
- yoh001
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>現実も現象ならば、すべてはその人の感じ方次第ということですか? 究極的にはその通りだと思います。 >それだったら夢も現実もないでよすね。 全ての現象は意識が創造(想像)しているのです。 意識には様々なレベルの「意識体」があります。 僕達人間もその意識体の一種です。 人間より低次元の意識体も存在しますし、 人間より高次元の意識体も存在します。 その様々な意識体が共同で目の前の「現実」を創造しているわけです。 現実を固体的と考えると、夢は気体的な現実といってもいいでしょう。 人間 = 心(≒意識≒魂) + 体 でして、心が本体で、からだは入れ物であるわけです。 これは、ビール瓶に入ったビールを考えるといいでしょう。 僕達はビール瓶をビールだと錯覚しているのです。 ビールをコップに注げばそのコップが新しい入れ物となります! 僕達は今、ヒューマノイドという体を持ってある進化の段階にある生命なのです。 このことをよく考えてみてください! 本人に自覚があるないにかかわらず、人間は、 自己の想念を、自己の外界に認識の対象(夢、物)として投影する能力を持っているのです。 画家が自分の思いを絵に表すようなものです。 病気なんかも実は自己の想念の結果なのです。 だから、どんな思いが悪かったのかを反省して改めれば、病気という現象は消失してゆくのです。 >「映画が始まると同時に、映画の中の主人公になりきって~」とありますが、それは「私は映画を見ている」ことが前提としてですよね。 いえ、もうその映画の中に入り込んでしまい、おっしゃる前提を完璧に忘れているのです。 今の肉体に「とらわれている」僕達が 正に映画の中にいる状態にあるのです! >では現実と夢の区別の手がかりは一体何なのでしょうか? 端的に申しますと、 先にも書きましたが、現実と夢は程度の差です。 現実は「氷のようなもの」で表現されているのですが、 夢は「水蒸気のようなもの」で表現されているのです。 しかし、氷も水蒸気も水も同じものです。
- les-min
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こんばんは。。 「唯識」というと、仏教の唯識思想ですよね?(他に聞いたことないので・・・) ネット書店などで「横山紘一」というお名前を検索いただくと、唯識関係の書籍が、いくつか上がってくるのではないかと思います。(もしご存知でなければ、検索してみてください。) 自分はまだ未読なのですが、『やさしい唯識』(NHKライブラリー)は千円未満と手頃で評価が高いようです。 この方の他の著作を2冊ほど持っていますが、唯識専門と言っていい学者さんで、唯識を知るには非常に良い手がかりとなると思います。 唯識は「潜在意識」が世界を作るという「仏教版唯心論」(?)で、そういう意味では確かに「夢も現実も同一」といえるのでしょうが・・・ 夢と現実の問題も含むのでしょうけど、唯識は心的活動(=識)が世界を形作っていく有様を、精緻な理論と宗教的実践(瞑想)によって体感するという感じの思想といえるでしょうか。 そして、識が作り出す世界のさらにその上(真理)を目指すことを究極的な目的としています。(←ここがミソ。単なる唯心論と、唯識思想の決定的な違いはこの部分です。) 思考力やイマジネーション能力を要求される、たいへんに興味深い思想ですね。 「唯識」話ばかりになってしまい、すみませんです。では。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ゼミの先生にも聞いてみたら、唯識というのは仏教の一派で、 それによると世界はすべて意識の産物のみと説いている、と言っていました。 横山紘一さんという方は知りませんでした。探してみます!
- yoh001
- ベストアンサー率34% (24/70)
curry100さん、こんにちは。 本ではないのですが、映画「MATRIX」が そのことのヒントになるのではないかと思います。 端的に申しますと、夢も現実も「現象」です。 「自己の想念」が原因となり、 その結果としての「現象」を見せられているわけです。 ただ、表現方法が幻的か物質的かの違いはあります。 (また、物質といっても、 素粒子レベルまで遡れば実体のない波動なのです) 結果である現象が悪ければ、 原因である自己の想念を改めるようにして、 人間は自分の心を進化させるように仕組まれているわけです。 僕は今生きているこの世界は 精妙なバーチャルリアリティの世界だと思っています。 この「三次元世界に生まれた」ことを 「映画館の椅子に座った」ことにたとえると、 映画が始まる(誕生)と同時に 映画の中の主人公(今の僕)になりきってしまい、 となりの席の人(地球にいる他の魂)のことも、 映画館の外(4次元以上の世界)のことも 忘れ去っている・・・。 その映画は 100年位の?平凡な主人公(僕)の一代記であった。 映画が終わって(死去して)、フト我(魂)に帰ると、 その映画は3時間ほどのものであった! 「時間」というものが神から人間に与えられた 「主観的な感覚」であることが解かる・・。 確実に存在すると思っていた三次元の宇宙空間も、物質も、 「映画の立体スクリーン」に映し出されたものであったのです!
お礼
ご回答ありがとうございます。 現実も現象ならば、すべてはその人の感じ方次第ということですか? それだったら夢も現実もないでよすね。 また「映画が始まると同時に、映画の中の主人公になりきって~」とありますが、それは「私は映画を見ている」ことが前提としてですよね。 では現実と夢の区別の手がかりは一体何なのでしょうか? 私は哲学的なことに全く知識がないので的外れな質問でしたらすいません‥。
お礼
何度もご丁寧に回答していただきありがとうございます。 こんな考え方もあるんだ~!と驚きです。 とても勉強になりました。 まだまだ理解できていない点があるので、 これからいろんな本を読んで自分なりに考えていきたいと思います。