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人に尽くすことの喜び?ってどんな感覚
人に尽くされるのは、相手をしてもらってるわけだし、うれしいとは思うのですが、人に尽くすことに喜びを見出すことができません。 友達であっても、ペットを世話をするにしても、なんにしても、面倒としか思えません。 人の為に、例えば、薬を研究するとか医学を勉強をして・・等ありますが。 なぜなんだろう・・?って思います。(もちろん、非難するとかじゃないです) ただ、感覚がわからないので。 尽くしても、望んでいても望まなくても見当違いの反応だってあるわけだし。 しかし、何かを愛するということを考えると、人に尽くせる人間になりたいです。 尽くす=愛するが繋がっていると思えます。 コツとか方法論とか理論的にあるでしょうか? ボランティアすればいいという、抽象的なものはピンとこないので、遠慮ください。 なにかあればお願いします。
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> 早い話、尽くせる人は、打算的な人に利用されるだけではな > いかと思えます。 > 打算とわかったうえで、自然に尽くせるってことを身に付け > たいものです。 そのような切り口がお好みなら、今度は経済面からの解説をしましょう。 短いタイムスパンや狭い範囲で社会を見ると、あなたの言うような見方もできますね。しかし、現代の資本主義世界はおそらくあなたの人生より続いているし世界は地球規模なのです。 実のところ、尽くせる人は、意識的か無意識的か分かりませんが、打算でそういしているという見方もできるのですよ。 現代の経済の根幹をなす資本主義経済というものは、信用がその成立基盤の極めて重要な柱です。そしてこの信用とは、「尽くす」ことによってしか構築できません。 他者の信用を利用して繁栄している人々がいないとは言いませんが、それを圧倒的に上回る量の経済活動が、信用の上に、すなわち「尽くす」行為の上に立って行われているのです。 なぜそう言えるかというと、現金取引を除く取引は、相手を信用することによってのみ成り立つからです。信用せず、何かの担保を必ず抑えなければ取引を行わないようなことになれば、そのためのコストが膨大になるため、たいがいの取引自体がペイしなくなるのです。 そして、現代では物の流通による経済(実体経済と呼びます)よりも、信用に基づく帳簿上の取引(マネー経済と呼びます)の方が、流通量は桁違いに大きいのです。つまり、世界中の多くの人が、見たことも無い取引相手を信用して、その取引相手もその信用に応え続けた結果、これだけの巨大経済が構築されたという現実があるわけです。 「正直は最良の戦略である」という言葉は、政治に関する言葉ですが、同じことが経済についても言えるわけですね。 相手の信用につけこんで利用することで、確かに一時的な利益は得られることも多いでしょうが、その人は、代償として自らの信用というはるかに巨大な財産を失っているのです。 信用があれば、「次のチャンス」がありますが、信用がマイナスであればチャンスも何もありません。 むろんこれは、統計的な話ですから、個々の事例においてはその通りになっていないケースも目に付くでしょう。しかしそれは、たいていの人が自動車事故には合わないけれど、個々の事例においては事故に巻き込まれている人もいるという確率的問題と、同じ構造です。 結論として、「尽くす」人のも「利用する人」同様に打算で動いているわけです。「信用を勝ち取るほうが、信用を失うよりも先々得だ」という形で。
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- yu-taro
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こんにちは。 私は恋愛においては、好きな彼女を楽しませて上げることが尽くすことだと思っています。 彼女が好きな物を一緒に食べる。好きな場所に連れて行ってあげる。好きな物をプレゼントする。そして、精神的にも肉体的にも彼女が喜んでもらえるということだと思います。 彼女が喜んでいる様子を見られる。そして安心する。これが男が好きな女性にできる尽くすことだと思いますがいかがでしょうか。
- merse-s500l
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「人に尽くすこと」とは、その相手の「人」がいます。 ほとんどの方は、その双方通行のことだと考えています。 それは結果にすぎません。 相手の方が、またその思いを返す場合です。当然気づかない返さないこともあろうかと思います。 「人に尽くすこと」とは、一方通行です。言い換えれば相手の見返りには何ら問わない 自分だけの思いからそうすることです。 そのことが相手にとって迷惑ならば、アンテナを張り巡らせて空気を読み 尽くしていることをやめることも、すぐさま相手の気使いをすることも「人に尽くすこと」です。 相手のことを思いやる気持ちさえあれば、既に「人に尽くすこと」のはじまりです。 その満足については、「無」に近いものがありますが、それを当たり前だと感じる喜びも生まれるでしょう。 いずれにしても、その気持ちさえあれば長い時間かけてコツコツとその気持ちを絶やさず生活すれば おのずと何がしかの「人に尽くしている」ことになると思います。 「人に尽くすこと」を継続できている自分に対しての喜びということになるでしょう。 相手が喜んだから自分も嬉しいとは全く別物です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 > 相手が喜んだから自分も嬉しいとは全く別物です。 逆も然りですね。 アンテナを張り巡らせて空気を読み 尽くしていることをやめることも、すぐさま相手の気使いをすることも「人に尽くすこと」は、しているつもりなのですが、アンテナを張る事は、客観的=打算のはじまりになってしまうので、苦しいところです。
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お礼
>結論として、「尽くす」人のも「利用する人」同様に打算で動いているわけです そういうと、そう思えます。 理論を踏まえてない人は、「尽くす」ことがいかにも本能的な道徳的な博愛的な精神論で言っているようなものですね。表現方法がこんな感じで申し訳ないですが。 結果論として、尽くす人は自らが血肉を犠牲にしていると。 打算ありきで、尽くすってことが効果的・・ロジックを突き詰めていくと、すべては、計算ですね。