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「死ぬこと」について

父を3年前に亡くしてから「死」についてよく考えるようになりました 自分が死にたいといった類のことではなく 死ぬことというのはどういうことだろう?死ぬことがわかったら(たとえばガンなので)自分はどう思うのだろう? 死を平穏に迎えるためにはどうしたらいいのだろう? などなどです 宗教的なことがからんでくるかもしれませんが、あくまで個人の考え方という点から、皆様がどう思っていらっしゃるのかうかがいたいです いつか来る死を真正面から考えてみたいと思います

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noname#48285
noname#48285
回答No.7

死ぬというのはいなくなるのではなく、そこで止まっているだけ・・・ 死について考えさせられるFLASHです。 是非ご覧になってみてください。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/1387/walkingtour.html
shochan61
質問者

お礼

mokky102さん なんだかこのFLASH見ながらグスグス泣いてしまいました 父が生き返ってくれたような気がして・・ 言葉を失ってしまいました・・・ 父が亡くなってからしばらくして、父の夢をみました 父が何か書類を書き忘れたといって地下鉄の構内かどこかでその書類を手にしているのです 私は死んでしまっているという意識なく「いつものように真面目にやってるなぁ・・」みたいに父を見ていました そのうち離れ離れになってしまった その夢から覚めたとき隣で寝ている夫にわんわん泣いてしまいました まるでそのときのように・・  うまく書くことができませんが、一緒に歩いてきた人にとって愛する人を失うことはほんとうにつらい・・失ってそのつらさがわかるように思います 父の死後くよくよして生きているわけではありませんし、平常は死についてもこわがっているわけでもありません 自分なりの人生を歩き続けています  自分が立ち止まる立場になったときに、愛する人へがんばって歩くンだよっていえるようなそんな人間になりたいです  

その他の回答 (11)

  • tontaro
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回答No.12

再度tontaroです。 遅まきながら、私の信仰している宗教は、仏教の浄土真宗です。No.8の方が書いておられるように、私たちのいのちは「生かされている」もので、自分の意志ではどうにもできないものだ、ということを学びました。そのどうにもならない「いのち」を支え、救ってくださるのが南無阿弥陀仏の仏さまだと信じています。 それが、私の信仰となっています。

shochan61
質問者

お礼

tontaroさま お返事ありがとうございました 浄土真宗の教えにそって生きていらっしゃるのですね わかりました 再度のお返事ありがとうございました

回答No.11

平穏な死の迎え方は人それぞれだとおもいます、 僕の祖母は去年、交通事故でひき殺されました。 僕は、そのとき泣いたり、悲しんだりするより先に、犯人への憎しみや怒りがこみあげてきました、。 だから、自分はいつ死ぬのか怖いです。ひょんなことから死ぬというのはいやです、だからといって病気などになってしまい闘病生活をして死を待つだけというのもいやです だから僕は、今ここでこうして友達や家族やこうしたサイトの相談に乗って、死ぬまでのあいだ少しでも人の役に立って上げられたらいつ死んでも本望だと、自分の中で思っています

shochan61
質問者

お礼

mo-mo-milkさま 交通事故でひき逃げだなんて・・ほんとうにおばあさまかわいそうな亡くなり方だったのですね 私が住んでいる県は交通事故でなくなる方が1年間にたしか何百人といたと思います これって冷静に考えてみれば、小さな小学校だったら1校全員が死んでしまうという恐ろしいことですよね・・ ほんとうに不慮の事故で死ぬというのは怖いです 私もよく運転をしますので気をつけたいと思います 小さなことでもいいから自分にできる人の役に立つということを毎日なしていくというのは大切だなぁ・・って思います mo-mo-milkさんのように本望だと考えられるようなことを私もしていきたいと思います 回答くださってありがとうございました

  • Musaffah
  • ベストアンサー率36% (37/101)
回答No.10

平穏な死を迎えるには・・・・ですか。 私的には死ぬ直前に「我が人生悔い無し!!」と断言できるように「今」を一生懸命生きる・・・ですかね? 以前、質問者さんとは正反対の質問をされた方へ回答しましたので、参考にでもしてください。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1437556
shochan61
質問者

お礼

Musaffahさん 生きることからの回答をしてくださってありがとうございます 秋山好古氏の「若いときは今何をしているかが大切である」との言葉を思い出しました 人生に悔いなしと思える人生を送れることは本当に大切なことですよね ひょっとして私は悔いがあると思っているのかな・・・ お勤めなさっている方とは異なり自分の好きなことを私なりのペースでできる生活・・自分では一生懸命しているつもりであっても、ふと空白になった時間にあぁ死ぬ瞬間に振り返るものに対して自分はどう思うのだろうか?って考えてしまう そんな考え休みに似たりなのかもしれません 死よりも生を見つめて生き抜くという気持ちでいることの方がずっと大切なことですものね 回答ありがとうございました

  • Poer
  • ベストアンサー率45% (72/157)
回答No.9

 世の中には死をすばらしい体験だと考える人もいます。もちろんこの世に悔いを残さないという条件が付くとは思いますが...。仏教に一切皆苦という言葉があるように、この世は地獄なのかもしれません。あの世には時間や空間の概念がないというところに、この世との次元の違いを感じます。

参考URL:
http://sewinger.hp.infoseek.co.jp/nde.htm
shochan61
質問者

お礼

Poerさん 臨死体験からの死ぬことへの洞察・・ ものすごく勉強になりました 私は中近東に駐在していたこともあって、イスラム教の世界を少し見る機会がありました でもまわりにはキリスト教徒も・・あるいはユダヤ教徒もおり、ソノ国のまわりではいつも宗教上の違いで争いごとが耐えない ロンドンでのテロ事件もそうですけれども・・ 「宗教というのは、すべて同じ真理から発したものです。…結局、純粋な宗教は同じだということです」という部分・・ 私も納得します 私は唯一神は持っていないのかもしれませんが、自分にはどうすることもできない絶対的な存在はあると思います ただ、その存在は自分の死にまでは入ってくることはない だからこそブラックホールがあるのだと思います ただ、このHPで書かれているパンプキンさんという方の気持ち・・ そんな気持ちになれればどんなに死を恐れずにいることができるでしょう・・ 結局自分の存在がなくなるという意味が私には欠落しているのかもしれません ただ漠然とそれに対する恐怖心だけが死を考えるきっかけになっているだけかもしれない・・と思ったりしています ご回答ありがとうございました

回答No.8

こんばんは。みなさんのお考えをお伺いして深く心に響きますね。 私は、臆病者です。向き合おうとすると、怖くて仕方ありません。 特に、子供を出産してからは、より一層強くなったような気がします。 3年前に祖母を亡くした時も、1年前に叔父を亡くした時も、最後までそばにいたにも関わらず、現実を受け入れることができませんでした。 ただ、娘が仏教保育園に通うようになり、少し、分った(つもりですが)気がします。 娘は保育園で、仏教の教えを学び、仏教での「行事」は保育園での行事です。 その程度のかかわりなのですが・・・ 仏教の言葉の中に、「生かされる」という言葉をしばしば見ます。 つまり、自分の意思で生きているのではなく、生かされている命なのだという考えだそうです。(違ったらすみません) その言葉を解釈していくうちに、気が楽になったように思います。 無責任とか、受動態とかではなく、 「おかげ様で」「ありがたく」などという想いで日常のすべてを 受け取れば、人生の最後の日が来ても、 「ありがとうございました。」と言えるのかなぁって感じています。 1年前に亡くなった叔父は、癌で余命3ヶ月と宣言されてから、1年後に亡くなりました。 最後の1年間、叔父は、身辺整理をし、自分で墓石や葬儀の方法まですべて決めました。 一度も取り乱すことなく、穏やかに死を受け入れる姿にただ涙がでました。 自分もそうでありたいと思いますが、今の自分は、「生かされている命」 と自分に言い聞かせるので精一杯です。

shochan61
質問者

お礼

aaakkkiiiさん 叔父様の最期・・本当に立派ですね 思わず永六輔の「大往生」を思い出してしまいました 私は父の死の前に雑誌で衝撃的な記事を読みました。それはサラリーマンで日ごろバリバリと働いていらっしゃる方が、余命1年弱(だったかな?)を宣告され、死ぬまでの間どのように過ごしたかという内容なのですが・・最初はそれこそビジネスライクに死ぬまでの自分の整理をaaakkkiiiさんの叔父様のように整理をなさった・・だけどいざ体が動かなくなったとき、精神的に悩むようになってきた・・で結局キリスト教徒になられたらしいのですが、最後は病室から見える離れた位置にある二つの信号機が同時に青になるとき、自分は飛び立つのだといって、その信号ばかりを見ていた・・という内容だったのです・・ 私はその記事を読んで気丈な人であっても自分の死を見つめることは本当に大変なことなのだと実感したのです そして叔父様のように、父もまた穏やかに自然の流れに従うという医師の助言を心にして時が過ぎ去るのを甘受していったように思います  生かされている命という自覚が私には本当の意味でまだないのかもしれませんね ありがとうって言いたい気持ちは一杯あっても、生きている!って思う気持ちが強すぎるのかもしれません 死についてというより自分の生について考えることが深くできています ご回答ありがとうございました

回答No.6

生きているもの死ぬのは確実ですから、誰でも一度は「死」を考えた事はあるでしょうね。死んだら何処に行くのだろうか?・・・天国?地獄?死んだら誰が悲しむのだろうか?・・・家族?友達?恋人?死んだら本当に生まれ変わるのだろうか?・・・どうして?どうやって?なんで生まれ変われるの?そんな考え事をよくしていました。今でも考えてしまいます。「死」には謎が多いですよ。平穏に死ぬためには睡眠薬を一気飲んでって言うのが一番でしょうか?自殺みたいな苦しい死に方はしたくないです。誰もが「死」を平穏迎えたいと思っているはずですよね。でも実際そんな上手くは行かないですよね。溺死したり包丁で刺されて死んだり、そんな死に方をしたくないと思っていても来る人は来てしまう。もしかしたら私もそうかもしれない・・・。私はまだ死にたくないです。私にはまだ未来があるから・・・。

shochan61
質問者

お礼

aima-minatoさん わかります わかります そういう気持ち・・私のブラックホールと同じです 生きることへの執着が死にたくないと思わせるのだとわかっているのですが・・ まだ健康で子供も元気で・・と思いながらも、私は40歳を越してから死に一歩一歩近づいているというのを自覚しだし、その後すぐに父の死にあいました 人生はあっというまですよね 子供が産まれてあっというまに高校生になったのをみるにつけ、自分がそうだったころを思い、それからの父の死までの軌跡を追うと、時間の長さの違いが若いころとよりもずっと早いということを考えると、恐ろしくなったりします  死んだら生まれ変わるとか、あるいは生き返らないとか、ほんとうは宗教上の倫理観があれば、このようなことで迷うことはないのかもしれませんが・・ 父方は仏教で、母方は神道で冠婚葬祭のときにしかお世話にならない私としては、ぐちゃぐちゃの倫理の中での死への模索がブラックホールなのかもしれません 回答してくださってありがとうございます

  • tontaro
  • ベストアンサー率33% (3/9)
回答No.5

No.4のtontaroです。 回答について補足させて頂きます。宗教上のどの部分が支えになりうるのかということですが、宗教がよりどころになるというよりも、別の問題です。  連れ合い(私の場合は妻)や家族への愛情は、いざ死を迎えるまでは、きっと支えとなるでしょう。しかし、自分が死んでいくときに、誰一人一緒に連れ添ってはくれませんよね。  だから、別れの際に、彼らに対する愛情が、別れなければならないという現実の前に、よりいっそう自分を苦しめるのではないかなと思います。  もちろん、家族妻子は大事です。ですが、死にゆくときにはやっぱり当てにできません。  仏教は、真実でもって説かれています。真実は変わりようがないですから、私の身体がどのように変化しても不変の真実で私を支えてくれます。だから、あてにできるのだと思います。 勉強不足で申し訳ありません。

shochan61
質問者

お礼

tontaroさん (先のお礼でお名前間違えてごめんなさい) 質問への回答ありがとうございました 丁寧に答えてくださる姿勢に、tontaroさん自身も死に向き合って生きていらっしゃるのだということが感じられてなんだかわからないのですがとても切ない気分になってしまいます^^; 自分が愛情をもっている人、愛情をふりそそいでくれる人、愛情をもっと与えてあげたい人、そういう人とお別れしなければならないのは本当につらいですよね 父が亡くなる1ヶ月ほど前に、当時中学2年生だった長男と小学校3年生だった次男を(ふたりをこよなく愛してくれました)交互に(赤ちゃんのころのように)抱っこしてくれながら、当時を懐かしむように二人に話をしてくれたことがありました 私の子供はおじいちゃんがどれだけ自分たちを愛してくれてたかを今でも大切な思い出にしてくれています 父の死後は彼らがいけないことをしたとき「おじいちゃんが空から見てるよ 真実をちゃんと見てるよ」って話すと嘘をつかなくなりました 生き残ったものからは死者は大切な霊であって、心の財産になりえるのだと実感する瞬間です 父も最愛の孫と別れなきゃいけなかったのはつらかったと思います 涙を流して過去を振り返っていたのは、tontaroさんのおっしゃるところの「別れなければならないという現実のまえにより自分を苦しめるのではないかな」という気持ちそのものだと思います だから人を愛する気持ちを持っていたいと同時に、その愛するものとの決別を受けれなければならないことに対する恐怖は想像に難くないです 父が亡くなった直後にまさにこのことを実感し、私には大切な親友も母も夫も子供も姉妹もいるけれど皆といつかは別れなければならないつらい思いをしなければならない・・ もう愛する対象をこれ以上増やしたくない!と思ったほどです 質問ばかりして申し訳ないのですが、そのつらい決別のときに、不変の真実でtontaroさんを支えてくれると思われる信仰における真実・・ それを心で唱える、あるいは考えることによって乗り切る・・あるいは甘受する・・ということでしょうか?肉体が滅びつつあるとき、精神がまだ滅びていない状態であれば、あらゆるつらさを、受け入れることを願いつづけるということでしょうか?教えてください

  • yu-taro
  • ベストアンサー率39% (3209/8203)
回答No.4

  こんにちは。  自然の流れに任せるのが一番良いと思います。  私の考え方は自分の命は自殺以外は自分ではコントロールすることはできないと思っています。  普通に生きていて、働いて世の中の役に立つ、人のために役に立つことによって報酬を得られ、生きていく糧だけでなく、生活を楽しむためのお余りを授かって生きていく。ということだと思います。    生きていくことは、見えない力で生かされていることだとも思っています。  その見えない大きな力がどんなものなのかは分かりませんが、人様の役に立つことができるから生かされているとも思っています。  そして、加齢と共に働くことが出来なくなったら、ご苦労様、もう働かなくていい、ゆっくり休めと徐々に死に近づいていくことだと思います。  そして、いずれは誰しも最後を迎えるものです。これの繰返しで人間という生き物の一塊が子孫を残して生きていく、生き延びていくというメカニズムだと思います。  死を恐れなくさせるためには、加齢と共にだんだんと頭がボケていく、痴呆症は体が死を恐れなくさせるための作りだとも思っています。  生きていて、好きなことができる年齢で充実した人生を過ごしたいと思いますね。

shochan61
質問者

お礼

yu-taroさん ご回答ありがとうございます なんだか読んでいてしみじみとしてしまいました 見えない力で生かされている・・・人様の役に立つことを微力ながら考え、実行しようとしている自分であっても改めてそうだなぁ・・と・・ なんだか一言一言が大切なことだと・・ 近い考え方をしているかも?と思いつつも、整理整頓されたyu-taroさんのご意見は心に染み渡ってきます  でも私の場合はふとブラックホールに入ってしまうことがあるんです それは頭では理解していることと、実際に身に迫ってきたとき、『本当に死』に立ち向かわなければならなくなったときに、整理整頓された気持ちのまま死を受け止めることができるだろうか?って・・ 健康でいるとき、人のために何かして生きていきたい 自分が人の中で生かされていることに充実していると感じることは幸せです その幸せな気持ちのままで死にたい デモ本当にそういう気持ちのままいられるのだろうか? そんなふうな疑問が今は立ちはだかっているのです そんなことを考えず、今生きることこそが大事なのだと思っている私もいます でも死ぬことは生きることの延長だとも思うと、死ぬことに立ち向かえる自分を受け入れる準備もしていたいと思うのです

  • tontaro
  • ベストアンサー率33% (3/9)
回答No.3

こんばんは。 私も7年前に父親、義父を相次いでなくしました。それ以前から、死についてはよく考えることがありました。 結論から言えば、生きている限りは、どんなかたちでかはわかりませんが、必ず死にますね。あくまでも病気や事故は原因ではなく、縁だろうと思います。  死ぬって言うことは、今現在自分が持っている人間関係、価値観、財産をはじめ、私自身が失われていくわけですから、ものすごい恐怖と孤独におそわれると思います。  しかしながら、光が暗やみがあってこそ光ることができるように、死という闇をもってこそ、生きる命が輝くのではないかなとも考え、まっすぐに死を見つめて、いのちある日々をよろこんで過ごすことを日課としています。たとえ明日にいのちが終わるとしても、ありがとうと言って死を迎えられるように、一瞬を大切にしたいです。  また、死を迎えるにあたって、失われないよりどころというものが、人生には必要なのではないかと考えます。それが宗教です。  私は仏教徒ですが、自分でどうしようもできない老病死の解決を求めて興った仏教によって、支えられていくこともすてきなことだと思います。 乱文失礼いたしました。

shochan61
質問者

お礼

tantaroさん とても深く言葉が心に入ってきました 死を見つめることは生を考えることなのだというのに気付かされます 今のこの一瞬を大切に生きること、そのよりどころが宗教・・ 宗教でなくよりどころにできるものは・・・ あるのでしょうか・・ 夫や家族への愛情だけでは乗り越えるのは難しいのでしょうか・・ tantaroさんにとって、宗教上のどういったことが支えになるのでしょうか?教えてください

回答No.2

最近友達と今死の宣告されたらどうするみたいな話をしてました。 多分僕は死ぬことがわかっても何も思わずに今まで通りの暮らしをすると思います。僕は今までの変わらない友達と遊んだりなどの日常が一番大切なので特別なことはしないと思います。死ぬ一日まえくらいに病院いって死にたいです。

shochan61
質問者

お礼

bestdreamerさん 回答ありがとうございます 平生を守って特別なことはしない・・それができれば本当にいいですね!そういう平常心を保つことが果たしてできるのか?そのときに感じる葛藤っていかなるものなのか?とよく考えます 回答ありがとうございました

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