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靖国問題にからみますが・・・
先日、某テレビ番組で韓国の議員との意見交換があっているのを見ました。その中で、日本の議員が「日本人の考え方として、A級戦犯でもなんでも、亡くなってしまえばみんな一緒でいつまでも恨んだりしない」といった内容のこと主張していました。それが韓国の人たちにはうまく理解できないから難しいということが主張したいようでしたが・・・。最近、靖国問題が騒がれている為いろいろ調べたのですが、よくそのような意見を目にします。けれど、果たして本当に日本人の考えの根底にそのようなものってあるんですかね?少し疑問に思いました。どれくらいの人がそのような意見をもっていらっしゃるのでしょうか。みなさんの考えを聞かせてください。
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- mailhiro
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「いつまでも恨んだりしない」というのはあたっていますが、「みんな一緒」というのは間違いです。 A級戦犯を含め、靖国に祀られている人たちは、祖国を守るという崇高な目的を達成するため、自らの命を投げ出した方たちです。多くの日本人には、こういう自己犠牲の精神を尊いものとする価値観があり、この価値観に基づき、英霊の前で自然と手を合わせているのです。 我が同胞であるアメリカ国民よ。あなた方の国家があなた方のために何をなし得るかではなく、あなた方があなた方の国家のために何をなし得るかを問うてください。(以下略、第35代アメリカ合衆国大統領 J.F.ケネディ) わたしはこの言葉に共感するものの一人ですが、こういう精神を尊いものと思わない人たちには、靖国参拝は理解できないでしょうね。 自分の欲望のために死んだ人になど手を合わせませんよ。当たり前でしょう。
- kikiki99jp
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死人に鞭をうたない。亡くなってしまえばみんな一緒でいつまでも恨んだりしない。なんていうのは、うそです。 よく、理解のできない事件がおきると、日本人は平気で死人に鞭を打ち、被害者感情を逆なでするようなことをします。 靖国に奉られているのは、戦争で亡くなった軍人です。 自国戦争犠牲者の民間人、敵国の軍人は奉られていません。 軍人や遺族の悲しみを喜び他にすり替え、戦争肯定し、美化するための神社なのです。
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回答ありがとうございます。参考になりました。
- yuhkoh
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西洋型近代的国家のなりたちから、靖国問題を考察した興味深い一文がありました。 『isaの同時代フィールド・ノート 』 http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/200506210000/ 「靖国に参拝し続けることこそが日本の近代国家たる証しである 」 このなかで、中世の否定によって生まれた近代的国家は、宗教を信仰することと、その宗教の教義(ドグマ)を全面的に受け入れるのは別物であり、そのズレを許容する社会である。ですから合理主義的な科学者が心の平安を求めて宗教を信仰するが、それは必ずしもその宗教の教義(神話的世界観など)を受け入れることではないということが理解できる。 しかし、中世的国家は彼らの信奉するドグマによって個人を組織し、ドグマと個人の意識のズレは許容されない。なおかつ、そのような国は他国も同様であると誤解する傾向がある。 ですから靖国神社に参詣することは、靖国神社の歴史観を受け入れることだと彼らは考える。たとえ、個人的にそのような歴史観を共感しないが靖国神社には参詣するという、そのような意識のズレが理解できない。 <中世的国家のノイジィさに負けて靖国参拝をやめたらどうなるか。 靖国が日本のドグマでないことの証明になるだろうか。とんでもない。中世的国家はそんな発想はしない。自分たちのドグマが正しかったのだと勝利宣言しつつ、日本もまた間違ったドグマを抱いただけの、自分たちと同じ中世的国家だったのだと、更に錯覚を強めるだけだろう。 逆説的に聞こえるかも知れないが、靖国に参拝し続けることこそが日本の近代国家たる証しである>
お礼
回答ありがとうございます。サイトも参考にさせていただきます。
日本の宗教的な考え方に御霊信仰という「崇り」を恐れる信仰があって、殺された人、恨みを残して死んだ人、無念のうちに死んだ人、をカミとして祀って崇りを鎮める、という信仰があります。例えば平将門を祀るのも「崇り」を鎮めるという考え方であって、べつに平将門を正当化しているわけではありません。 また先祖崇拝という観点でみれば、お盆に帰省して墓参りをするという行為も、一種の宗教行事、聖地への巡礼と解釈すれば、日本人は無宗教どころか実に信心深い民族であると思います。単に日本人自身に、それが宗教的な行為だという自覚が無いだけでしょう。 しかしA級戦犯について日本の宗教観を持ち出すのは論理のすり替えであると思います。 重要な点は、A級戦犯として有罪となっても死刑にならなかった人の中には戦後大臣になった人もいるし、A級戦犯容疑者となると戦後日本の政界、財界での中心的人物も多数いるという事実から考えるべきでしょう。
お礼
回答ありがとうございました。とても参考になりました。
靖国問題は、亡くなった方への感覚の違いの問題というよりは、単に「身内びいき」の話なんじゃないかと思いますね。日本人なんだから日本の父祖には感謝し、慰霊する。韓国人だから、韓国の父祖の仇敵は許せない。という、国によってもそう違いのない、いたって自然な感情なのではないでしょうか。ただ、感情論を政治に持ち込んだからややこしくなっているだけで。 亡くなった方は、そっとしといてよ。安らかに眠らせてあげたいだけなんだよ。率直に言って、そんな気持ちです。 でも、「死者に鞭打つ」ことを禁忌とするのは日本人独特の感性なのでしょうね。死んだら仏、というか。敬虔な仏教徒というわけではありませんが、私には、身になじんだ考え方です。 たとえば、自分の親や先祖がなにか大罪を犯していて、そのために私まで世間から白い目で見られるとしたら、親なり先祖なりを恨みには思うかもしれませんが、たぶん供養はするでしょうね。法事とか。そういうことだと思ってます。 でも、それが外国人に受け入れられないのは、「死んだら仏」の精神がわからないからではないと思います。 日本人だって、身内を殺された遺族は、たいていの場合、犯人が死刑になっても「死んでしまったのだからいつまでも恨みに思うのはやめよう」とは考えないでしょう。身内を殺した相手は、「死んでも憎い」はずです。日本人の気質と韓国人の考え方が文化的に違うことは、靖国問題の本質とは思えません。 死者に鞭打つことは慎まれるべきだし、まして墓を暴いて死者を罰するなどということは、感覚的に受け付けません。ですが、 >亡くなってしまえばみんな一緒でいつまでも恨んだりしない なんてことも、ありません。「みんな一緒」ではないですよ。こういう言い方をする政治家は、たぶん、身に置き換えて考えるということができないんでしょうね。 確かに日本人には、死者を生者と同様か、それ以上に尊ぶ慣習はあるけれど、それは一般的・相対的なもので、絶対的な通念ではない、というのが私の考えです。
お礼
回答ありがとうございます。参考になる意見でした。
- mn214
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#5です。 他の回答の中にA級戦犯とオウムの松本被告を同列に述べている方がありますが、根本的に全く次元の異なるものだと思います。 オウム事件やその他の犯罪者は一般生活の中で許されない犯罪を犯した人間です。 対してA級戦犯といわれる人達は戦争に関しての責任を問われた人達です。 戦争とは互いの国の主張がぶつかり合った果てに武力によって衝突したものであって、どちらが正しい・間違っているという一方的に断じられるようなものでは無いと思います。 昔から“勝てば官軍”と云われる通りで原因はどうあれ、戦争に勝った方が正しいことになり、負けた方は一方的に処分されることになるのです。 すなわち、関が原の戦いに勝った東軍・徳川家康が負けた 西軍についた連中をどのように処分しても文句は言われないのです。 関が原の戦いは豊臣家を継続させようとする石田三成側と、豊臣家に代わって天下人になろうとする徳川家康との異なる主張がぶつかり合ったものであり、お互いにどちらが正しい、悪いというものでは無い筈です。 戦争とはこうしたものだと思います。 当時の日本には日本の主張があり、アメリカにはアメリカの主張があり、それは各々自国の国益を考えてのものであってそれが相手国には敵対する主張になったにすぎないと思うのです。 結果として日本は戦争に負け、戦勝国側は負けた日本に戦争の責任を負わせることになり、その追求の結果としてA級戦犯という人達に責任を負わせて処分したに過ぎないのです。 こういう経路で戦犯扱いをされた人達は戦勝国からすれば戦争責任者として悪者扱いをするのでしょうが、日本人の立場からすれば彼らに戦争の責任を押し付けてしまって良いのでしょうか? 戦犯の理論は戦勝国側から見たものであって日本側の見方は異なっていて当然かと思います。 戦犯に関して決してオウムのような一般犯罪者と同じに考えるものでは無い筈です。 同じ日本人として日本のために戦った人達に『安らかに眠って下さい』と祈るばかりです。
お礼
わかりやすい回答ありがとうございます。その観点からみると次元が違うものに感じました。勉強になりました!
- lilact
- ベストアンサー率27% (373/1361)
「日本人の考えの根底にそのようなものがあるか」について、仏教の考え方です。 死亡してから四十九日間は地獄か極楽かが決まらず、さまよっている。 死亡してから33年目(三十三回忌)にはどんな極悪人も清らかになって極楽へ。
お礼
回答ありがとうございました!参考になりました。
- men-environment
- ベストアンサー率10% (55/541)
日本人は同調しやすいという傾向があるのでしょう。A級戦犯の人たちだけで戦争できたとはおもいません。今の日本人はA級戦犯という人身御供で、民族全員が罪に問われることから逃げた卑怯者なのです。今の日本人は過去の戦争の罪をA級戦犯に押し付けた事実をそのままにして、自分の責任として引き受けようとしません。そういうところを外国はちゃんと見ているんだと思います。
お礼
回答ありがとうございました。とても参考になりました。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
日本人が、「死者に罪は無い」とか、「死者を鞭打つことはしない」、というのは、詭弁です。 今回のA級戦犯に関しての、こじつけでしかありません。 もしオウムの松本被告が、死刑になったとしたら、「死者に罪は無い」と言うのでしょうか? 松本被告の供養等を富士山のふもとあたりに建設し、それをアーレフの信者一同が、お参りに行っても、同じことを言うのでしょうか? もし、「死者に罪は無い」のであり、死者は全て祭られるのであれば、アーレフの行為は正当であり、なんら非難されるべき事ではないことになってしまいます。 東京裁判を戦勝国の一方的裁判で、「不当」であるとすれば、日本の圧倒的優位の中で行われた、「日韓併合」も不当です。 東京裁判が不当であれば、日本の韓国併合が不当になり、日韓併合が正当であれば、東京裁判も正当と考えるべきです。 自分の都合の良いところだけをつなぎ合わせるのは、中国のやり方と全く同じで、世界での論理に反する行為です。 そんな考えが、国際世論の支持を得られはずがありません。
お礼
回答ありがとうございます。そうなんですよね、私も重犯罪を犯した犯人を死んだからといって許せるわけがないと思っていました。なので、一概に日本人全体が_...といったことが当たり前のように発言されていることに疑問を持ち、この投稿をさせてもらいました。参考になりました。ありがとうございます。
- junt
- ベストアンサー率38% (97/254)
『慰霊』の仕方は国によって、民族によって全く違います。それは、文化・伝統・習俗の一切を含む『国柄』そのものです。 例えば、キリスト教は一神教で、神と言えばGODしか存在しません。人は死ねば、神の御許に行き、生者と死者の世界は隔絶されています。 しかし、日本は多神教であり、神と言えば八百万の神、森羅万象全てに神が宿り、人も死ねばみな神様・仏様、生者と死者の世界は地続きである。我々日本人は神と共に生き死者の霊魂と同じ空間に存在していると考えるのです。 中国人の伝統的・民族的な死生感は、敵に対する『絶対不寛容』です。 2000年以上前の中国の伍子しょは、父の恨みをはらすため、既に世を去っていた楚の平王の墓の死体を掘り起こして鞭打って恨みをはらしました。彼はそれでも足りず、平王の息子の昭王を追って殺そうとしました。 1000年近くの昔の人物、秦桧が、今だに『裏切り者』とされ妻と共に頭を垂れてひざまずく像に民衆が唾をはきかけているのが現在の中国です。 台湾では、国民党が敵の墓を暴き、史跡を破壊しました。こうして末代までの恨みをかき立てる。『死ねば仏』『水に流す』といった寛容な精神は一切ありません。そして、その敵と戦ったことを現在の王朝の正当性の証とする。中国では、慰霊ですら『政治』の一手段でしかないのです。
お礼
回答ありがとうございます。中国の生死観の厳しさを改めて実感しました。死者に鞭打つ、というのは中国に比べると私たち日本人がいかにその考え方が薄いかよくわかりました。とても参考になりました。
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お礼
回答ありがとうございます。参考になりました。