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政治史
国会(帝国議会)と内閣は、どちらが最初に発足されたのですか? 政治史を勉強したいので、いいサイトがあったら教えてください。
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国会開設の勅諭(1881年)は、あくまで将来の(10年後の)議会制を目指す意志の表明に過ぎません。その時点ではまだどのような議会制度を日本に導入するかの方針も確定しておらず、国会開設の勅諭の翌年(1882年)、伊藤博文らが各国の憲法・政治制度の視察のために訪欧しています。その結果、イギリス流の議院内閣制よりも、プロシア流の宰相型国家を目指す伊藤博文の意見が通り、1885年の伊藤博文の初代内閣総理大臣就任から、彼が主導する立憲君主制国家への舵が切られたと言えるでしょう。その結果が、1889年の大日本帝国憲法(=内閣は議会に責任を負わない)であり、1890年の帝国議会招集です。
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- 植田 謙一(@kennyan)
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注意しておかねばならないのは、明治憲法には内閣についての規定がなかった、ということです。行政権については国務大臣の輔弼により天皇が行うことになっていて、それぞれ行政権を行使する国務大臣の合議体として、勅令で設置されたのが内閣です。これは当時の権力構造が藩閥によって割拠的で、1885年に定められた内閣制度で、首相に大きな権限を与える「大宰相制」をとったのは実情に合わなかったとされたから、と説明されています。だから、総理大臣は「同輩中の首席」に過ぎなかったわけです。議院内閣制ですと、議会に連帯して責任を必要がありますから、首相の権限が強大な「大宰相制」をとる必要がありますが、明治憲法は制定時には議院内閣制を想定していませんでした。 だから、内閣の方が先にあったのは間違いないのですが、憲法制定と議会の開設に伴う変化もあったのです。
- sinobu_wednesday
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内閣が先です。伊藤博文が内閣制度を作り初代内閣総理大臣に任命されたのが1885年。大日本帝国憲法発布(1889年)を経て、第一回帝国議会が招集されたのが1890年ですから、内閣の方が5年先になりますね。
補足
回答ありがとうございます。 実際に召集があったのが1885年ですが、では、1881年に行われた「国会開設の勅諭」とはどんなことですか? 度々すみませんが、回答宜しくおねがいします。
お礼
なるほど! よくわかりました。 丁寧な解説ありがとうございました。