魏志倭人伝の情報源は? その2
記述が長くなりますので,質問を分割しました。お手数ですが,下記の以前の質疑応答をまず読んでください。
http://okwave.jp/qa/q9193761.html
質問の主文を再録すると----「魏志倭人伝」(「魏書」東夷伝倭人の条)の情報源は何だったのでしょうか? 政治的状況や文物について,やたらと詳しすぎると思われませんでしたか?
ぼくは,中学生として読んだ瞬間から,「この情報のかなりの部分は中国人が直接に得た」と受け取っています。ここにいう中国人は,(1)中国本土の役人や地理学者,あるいは(2)中国南部から倭国や弥生時代の日本列島へ移住し,倭人社会に融合した中国人です。集団遺伝学的にみて日本人の源流の1つは中国南部にあります。
ぼくが中国人だと考える理由はいろいろありますが,
1.そもそも,周辺諸国をも含む地理志を書くという「文明」的行為は,未開の倭人には理解不能でしょう。現代人のぼくらだって,1970年ころに「インターネットのウェブページをHTMLで書いてくれないか」と言われれば,「え?」でしょう。
2.「倭人伝」のような詳しい内容を,倭人には中国語で記載できなかったのではないか。ぼくも現代中国語を勉強しているのでわかります。中国に来た倭人は,中国人の世話役から教えられた「ウォメンツォンウェイクォライダ」(現代中国音;我々は倭国から来ました)みたいな挨拶を,オウムのように言っただけではないか。中国皇帝も,そんな連中に「おまえらの国は東海のどこらへんにあるのか? どんな気候風土だ?」なんて難しい質問はせず,「ニーライラ」(よう来たのう)しか返さなかったと思います。
3.詳しい話は,(前の質疑応答では)朝鮮語を仲介して倭人自身が行ったというのも,いささか不可解なのです。たとえば,(訳文はWikipediaによる)
1)倭国へ至る海路や陸地の長さを「何里」と記載していますが,倭国にも中国と共通の度量衡があったのですか? かりにあったとしても,測量技術があったのですか?
2)たとえば対馬国を「山は険しく,道は獣道のようで,林は深く,良い田畑がなく,海産物で自活。船で南北岸の市へいく」と記載しています。倭人の使節がこんなローカルな事情まで質問を受けると予期して,漢文の報告書に書いて中国に持参したのですか? 中国人調査員が現場にやって来て観察したと考えるほうが自然に思えます。
3)「倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった」。これは南太平洋の素潜り漁ですが,暖流の黒潮が流れる日本列島では例外的に高い緯度で行われます。しかし,倭人には当たり前のことなので,特記しないのではないですか?
4)「その風俗は淫らではない」。倭人が自分たちだけを見てこう判断できず,中国人の視点です。
5)「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」。倭国に存在せず倭人が知らないはずのものを,「いない」とは記述できません。また,「倭の木には柟,杼,予樟・・・」。こんな博物学的な知識を倭人の使節がもっていないはずですし,それぞれの漢字がどの植物種を指すかどうしてわかるのですか? 中国人から「図鑑」みたいなものを見せられて,いちいち「在/不在」と答えたのですか 笑? 倭国に来た中国人調査員が記載したに違いありません。
お礼
すみません。間違えました!