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主観を構成する要素の定義?
例えばですが 喜怒哀楽や、自信、信念、愛、謙虚、恐怖、自己肯定感、信頼感、絆、存在、一体感、自由、感謝などの言葉(が表すもの)は、主観(心)を構成する要素として確定してもいいものでしょうか? こういった言葉は、主に文学表現や詩など一般の文章でよく使われる心を表す言葉で 数多くあります。 つまり、主観(心象世界)の構造全体を構成する要素一つ一つとみなして不自然ではないでしょうか? これらの文系的言葉(とその意味するもの)を、数学での集合での要素のように扱えるものでしょうか? あるいはそういう扱いをしている学問は存在しているのでしょうか?詳しい方教えてください。お願いします。
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#5です。 「信念と信仰の関係の集合論的表記について」という質問を読ませていただきました。 ちょっと掟破りですが, 先の質問に関して参考意見を述べさせていただくなら, ウィトゲンシュタインの「哲学探究」のなかで論じられている 「言語ゲーム」や「家族的類似」という観点が示唆を与えてくれるような気がします。 それはまた認知心理学や認知言語学におけるカテゴリ研究とも深い関連を持ってます。 少し御自身で調べてみてください。 質問者さんの問題意識の所在はどうやら 認知科学,現象学,分析哲学の三者が作る三角形の中にありそうですね。 この三角形は現在では「心の哲学(philosophy of mind)」という新しい研究領域に発展しています。 取っ掛かりとしては以下の著作あたりをお勧めします。 先刻御承知なら失礼。 柴田正良 『ロボットの心/7つの哲学物語』 講談社現代新書 橋爪大三郎 『「心」はあるのか/シリーズ・人間学〈1〉』 ちくま新書 現象学については先に述べましたが, 認知科学と現象学の接点については 『ロボットの心』の著者による次の論考が参考になると思います。 認知科学に現象学は何を寄与しうるか http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/phenomenologie.htm
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- Diogenesis
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喜怒哀楽や,愛,信頼,自由といったものには 個人内の生物学的・心理学的過程に還元し得ない 社会的な構成物としての側面があります。 したがって社会学や歴史学の視点からの考察も大いに参考になると思います。 ところで一連の問答を読みながら 質問者さんの求めるものに一番近いのはフッサールに始まる「現象学」ではないかと思いました。 フッサールの出発点は19世紀末欧州哲学における心理主義,歴史主義への批判であり, 最初の主著が「論理学研究」であることからもその姿勢が読み取れます。 客観と主観を繋ぐ「間主観性」というものもフッサールの鍵概念です。 私自身,消化し切れていないのでこれ以上うまく説明できませんが, 現象学の中に質問者さんの知的欲求に応える何かが見つかるような気がします。
お礼
回答ありがとうございます。 社会学や歴史学~考えたこともなかったです。そういう視点から見るのも視野を広げれそうでいいですね。 フッサールの現象学~恥ずかしながら全く始めて聞きました。でも回答の文を読む限り、間主観性など、かなり僕にとってはよだれが出るほど魅力的な言葉が出てきており、非常に興味をひきます。 これはもうこれから勉強するっきゃないです。 お返事ありがとうございました。
- tyuuta
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お礼読ませていただきました。 >>主観は、それらの構成要素の構成具合によって成り立つ構成物としての形を取っていると考えられるかな、とも思います。 そうですね。 時として多くの構成物が入り交じって言葉で表現しにくい 感情が生まれたり、1つの構成要素で物事を判断したり するのではないかと思います。 >>科学ではなく、直感と論理を駆使して心理を構成できないかなと考えていたからですが。科学的、という制約が心理学の発達を妨げてるように感じるのは僕だけでしょうか? 確かに科学が妨げになる事もあるでしょうが、その制約が あるからこそ心理学が独自の地位を確立してる事も否めません。個人的見解を言えば科学の存在は人が生活を営む上での利便性は飛躍的に向上させましたが、精神は退化させていると思ってます。 論理学は勉強不足で何とも言えませんが、科学以外の手法でしか主観の構成要素には迫れないだろうという考えです
お礼
改めての回答ありがとうございます。 主観の構成について~同じ意見の人がいるんだ-と勝手に喜んでおります。 主観が幾何学的な一つの構成体を形作ってるんじゃないかというのは前から思っているのですが。 心理学と科学~フロイトの功績はまさに科学の俎上に心理学をのせたことにありますし、科学なくして成り立たないのはもちろんだと思います。 科学以外の手法でしか主観の構成に迫れない~僕も全く同意見です。それに論理学は使えるんじゃないかと思ったのですが。主観を排除することをいきなり定義にすえてる科学で主観を考えるのは矛盾をきたしてるなーと思いますので。 お返事ありがとうございました。感謝します。
- tyuuta
- ベストアンサー率35% (164/458)
個人的な意見を述べたいと思います。 まず主観を構成する要素については個人が持つ感情や経験則、全てだと思っています。ですから要素として確定しても差し支えないのではと思います。それは例えばある事象に対して主観的に考えた場合、何らかの感情、経験則を持ってしてその事象を捉えていると私自身考えているからです。(その感情は一つかもしれないし、複数の感情が存在するかもしれない) >>数学での集合での要素のように扱えるものでしょうか? これに関しては専門家じゃないのでわかりませんが、 扱えないような気がします。というのは数学的に考える 事自体が科学的(主観を排除して客観的事実を抽出する) と感じるからで、たとえそういう学問があったとしても 数式や定理が成り立たないのではないかと思いますね。 大学で心理学を学びましたが、あくまで科学的、統計学的アプローチで「心の状態」を調査する学問です。特に社会心理学実験に多いですが、徹底的に主観を排除して客観的な実験を行い、さらに統計にて真に客観的実験かどうかを確認して結論なり実験の問題点を洗い出すという手法です。つまり心理学=科学において主観というのは科学的アプローチができない、もしくは主観を測定する事からは万人に共通する客観的結論を見出せないと考えているから主観を排除せざるを得ないんだと思っております。 とすると「主観」を考えうる学問は哲学になるのでは。デカルトもしくはカントといった所でしょうか あまり回答になってないかも知れないのでアドバイスということで・・・
お礼
回答ありがとうございます。 要素と確定してもいい~もしそうでしたら、主観は、それらの構成要素の構成具合によって成り立つ構成物としての形を取っていると考えられるかな、とも思います。 科学的取り扱いは無理でも、論理的になら、要素間の関係を見つけられないでしょうか? 心理学の手法のことなんですが、以前ここで、東洋医学的心理学の存在の有無のことを質問したことがあります。 科学ではなく、直感と論理を駆使して心理を構成できないかなと考えていたからですが。科学的、という制約が心理学の発達を妨げてるように感じるのは僕だけでしょうか? 哲学は確かに主観を扱っていますね。ちょっとだけかじっています。でも難しいですね。 主観の要素を科学的に扱うというのは定義上無理な話なんですが、理性的に、あるいは論理的に捕らえることは無理な話じゃないんじゃないかと思うのですが。 理にかなってる、という言葉は、主観的な場合客観的な場合両方に使われる言葉なので、ここから論理学的な扱いをできないかと思っています。 確か、論理学は科学ではなかったですよね?科学なら言われるとおり実験検証が必要で主観も排除しないといけないですが、数学の集合の例えはまずかったと思ってますが、 論理学的な意味での要素の相互関係の扱いを適応する事は、断定できないんですが、可能性が0ではないんじゃないかと思っているのですが、これはまた別の質問にした方がいいのかもしれません。長くなってすみません。 お返事ありがとうございました。
- hayashi23
- ベストアンサー率50% (2/4)
行動分析学なんて心理学では、行動や思考を決定する要素を因子として、分解して考えていますよ。 脳生理学的に言えば、ヘントウ核という快/不快を判断する部分が、ある因子は快であるか不快であるか学習し、海馬が記憶している、ということになります。 抽象的な心理学よりも科学的に行動分析学や脳科学、認知心理学の視点で攻めてみてはいかがでしょう?
お礼
行動分析学は始めてききました。勉強してみます。 脳科学、認知心理学は以前からすごく興味があるんですが、脳科学の方はまだこれからいっそうの発展を期待するという感じがします。 認知心理学は、かじった程度ですが、とても参考になる考え方でした。 ただどちらも、こころの全容を対象とするには少し物足りなくも感じる反面、それを対象とする学問も自分の探した範囲では見当たらないです。 回答であげられてる学問の科学的成果についてはいつも網を張っていて、参考になるものは取り入れていきたいです。 お返事ありがとうございました。
- kaitaradou
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私は主観は分からない(原理的に要素に分けられない)から主観で居られるのだと思っています。もし主観が要素に分解できるのならば(たとえすぐに再構築するとしても)主観は主観として存続することはできないと思います。普段,自分(主観)と思っているのは対象化されてしまったものであって,これは主体である主観ではないわけです。この意味で自分探しという言葉ほど危険なものはないと思います。蛇が自分の尻尾を呑み込んで最後は消えてしまうように(もちろん実際は途中で死んでしまうと思いますが)人が,真の自分を探せたと思ったとたん自分は消失してしまうということになるように思います。回答にはなりませんが,主観を構成する要素を考える場合、分からない(=わけられない)ものだけが存在できるという原理?は大切なように思います。要素に分けられたら存在できないというのはミ水が水素と酸素から成り立っているということと同じだと思います。そもそも、ものを考える主体が主体として存在できるのは,主体自身は思考の対象にならないからこそではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 こういう考え方もあるんだな-と感心しています。 とても意味深い回答内容なので、まだじっくり考えてる途中なんですが、お礼だけでも先にしておこうと思いました。 分解分析できないからこそ主観主体は主体足りえる、というふうに大まかに受け取っているのですが、あっているでしょうか。 水の例えは、要素に分けてしまうと、認識のレベル次元が変わってしまう、といわれてるのだと思います。 また、主観は分からないから主観であるという冒頭から、ものを考える~思考の対象にならない-という最後まで、分けてしまったとたん意味、性質が違うものになる、といわれてるかと思います。 もう少し考えてみます。 ご意見ありがとうございました。
お礼
先の質問~このカテでいくつか質問させて貰ってるのですが、回答者様の回答レベルが高くて、勉強しないといけないことがどんどん増えてきてます。多分一年くらい勉強しないといけないかも、と思います。 以前の質問わざわざ読んでいただきありがとうございます。このときの回答でも、今回言われるとおり、確か脳科学認知心理学などが参考になるという回答を頂いていました。 心の哲学~こんな分野がもうあるのですね~、驚いています。参考の著作は、機会があれば絶対読もうと思っています。 3者が作る三角形~認知科学はかじっていますが、現象学分析哲学がさっぱりです。これらもまた勉強ですね-これは。 最後の認知科学と現象学の接点については(~遠い目~)勉強するのもだいぶ後になりそうです。「哲学研究」もですねー。というより読んで理解できるのか、俺!、という感じで。 とりあえず、先に教えていただいた現象学と、今回の心の哲学はすごく興味を惹かれるので、暇を見つけてぜひ学んでみたいと思います。 いろいろと御教授ありがとうございます。大変参考になります。