添削お願いします!
私は高校生で、もうすぐ期末テストです。
日本史の問題(論述)があらかじめ発表されているので頑張って作りました。
間違えていることがあると困るので、ご指南頂きたいと思っております。こっちの方がいい・ここの部分は要らない等のアドバイスもお願いいたします。
問題)
幕末1860年代の公武合体論と公議政体論の違いを具体的な忠実の推移をあげながら説明しなさい。
但し、桜田門外の変 文久の幕末改革 船中八策 朝廷
の語句を用いるものとする。
回答)
開明的な老中首座であった阿部正弘は、雄藩藩主の意見を取り入れた政治を行っていたが、譜代大名らの反発を受け、開国派の堀田正睦に老中首座の座を譲った。譲った後も権力を掌握し続けるが安政 4(1857)年に死去する。
翌安政5(1858)年に13代将軍家定が死去すると、安政 の将軍継嗣問題が発生。
一橋慶喜を推す一橋派と、徳川慶福を推す南紀派に分かれて争う。
老中首座である堀田正睦は、安政5(1858)年に日米修好通商 条約の調印を求められた時に於いて、夷狄嫌いな孝明天皇に調印の 勅許を得ようとし、失敗。幕府の権威を失墜させた。
一橋派であった堀田正睦の失策に対し、南紀派且つ、政治的方便上、開国派であった井伊直弼は、失脚を画策し、大老に就任。強権 を発動し、朝廷の勅許無しで調印に踏み切った。更に、直弼は、一 橋派の人々を次々と処罰し、専制政治を布いた。
これを、安政の大獄という。処罰された主要人物は、吉田松陰、橋本左内らが処刑。一橋慶喜、松平春嶽(慶永)、山内容堂(豊 信)らが謹慎。水戸斉昭は隠居に追い込まれた。
この安政の大獄によって、一橋派の公家も処罰され、沈静化したかにみえたが、安政7(1860)年3月24日桜田門外の変が起こる。直弼に恨みを持つ、水戸藩の脱藩浪士ら18名の襲撃を受けて、井伊直弼が死亡する事件である。時の権力者である大老が大名屋敷から、城内に登城する合間に殺されたことによって、幕府の威光は地に堕ちた。
公武合体論は、島津久光によって提唱された政策論である。朝廷の伝統的権威と幕府を結びつけることによって幕府の権力の再構築を行うことを目的とした政策。久光は文久の幕政改革によって人事を一新し、朝廷と連動して兵を率いての改革を行った。
公議政体論は、土佐藩脱藩浪士坂本龍馬の考案した政策を、船中で同じく土佐の後藤象二郎が書き留め、船中八策として、山内容堂に上申。更に、それが慶喜に上奏され、最終的には帝に奏上された政策。諸藩藩主による諸侯会議の携帯を目的としており、その中に、徳川家も一諸侯として含まれていた。尊皇佐幕派の支持を得ていたが、王政復古の大号令によって構想が瓦解する。
以上お願いします!