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自分で自分のご機嫌をとる、ということをもう少し具体的に考えると?

メンタルクリニックに何年も通っています。一貫して医者に言われるのは「自分で自分のご機嫌がとれていない」ということ。「それは両親を見ているからだ」とも言われ続けています。そして治すには、自分がどんな状態なのかをわかることだと言われています。私はくよくよと思い悩む性質であり、また粘着質な性格もあり例えばストーカーになる人も私のようなタイプだそうです。(私自身はまだ理性があるのでストーカーにはなっていませんが、精神的に近いとは思います)最近、いろんなことがあってひどく落ち込み、睡眠薬の類を大量に飲んだりしました。でもやっぱり生きるからには前向きになろうと思っていたのに今日受診したら「それは表面的なことだけで、本質的な部分は何も変わっていない」と言われて、出端をくじかれたような、ショックでした。 漠然としていて私には禅問答のように思えて、うまく咀嚼できていません。 「自分で自分のご機嫌をとる」というのはどのように解釈すればいいのでしょうか。もう何年も言われ続けて私もずっと考えているのに未だわからず、どなたか出来れば専門的なアドバイスがありましたらよろしくお願いします。

みんなの回答

noname#9410
noname#9410
回答No.4

こんにちは。 私なりの解釈ですが… 「自分で自分のご機嫌をとる」というのは、「自分で自分を慰める」とか、「自分で自分を励ます」という言い方ができると思います。 自分が傷ついたとき、「そんなことに傷つく必要はない」と思う、自分が疑心暗鬼になっているとき、「今、自分は根拠のないことを考えている、他の人はこんなふうに考えていない可能性もある」と、何かにつけ、マイナスに働く自分の思考を、プラスに変換する、というか、軌道修正する、というか…自分が辛いとき、自分の心がやすらぐことを自分にしてあげる、ということだと思うのです。 昔の私は、自分に自信がなく、とても傷つきやすく、たとえば、友達がひそひそ話をしていると、何の根拠もなく、「自分の悪口を言われているのではないか」と感じてしまうのです。とにかく、悪いほう、悪いほうに考えていて、自分で自分をその場に居にくい状態にして、逃げていました。でも、それじゃいけないと思って、「これは自分の妄想だ、自分が気にするほど人は気にしていない、自分が疑い深いだけなんだ」と思うようにしてから、少しずつ、自分で自分をコントロールできるようになってきたのです。 最初は、それでも、どうしても信じきれなくて、疑ってばかりいました。けれど、良い人たちに、本当に親切にしてもらうことがあったりして、少しずつ、信じられるようになってきたのです。思い切って、自分のことを話してみたら、自分が思っている以上に、自分を心配してくれた、考えていてくれた、そんな場面にあったこともありました。幸運でした。 私は、傷ついたら、傷つきっぱなしで、自分を癒すことをしませんでした。それで、人を信じようともせず、血を流しっぱなしのまま、人と関わることを避け、独りぼっちでいたのです。ほんの一部の、心ない人たちを見てばかりいて。←これが、「それは両親を見ているからだ」ということに通じると思います。 他の人が、「何であんなに自信に満ち溢れていられるんだろう」と、不思議でなりませんでした。 私の目には、みんな、悩みなど持っていないように見え、自分だけ不幸な気がしていました。 でも、それは思い違いでした。いろんな人の話を聴くうちに、一見明るく振舞っていても、実は大変な苦労をしていたり、悩みを抱えていたりする、ということがわかってきました。すると、次に、皆、その悩みをどのように超えているのだろう、と考えるようになり、知りたくて知りたくてたまらず、機会をみては、質問するようになりました。 人の、人生のいろいろを聴き、悲しみをきき、自分自身が悲しいことを経験し、本当には誰もわかってくれない、結局は自分で超えるもんだいなのだと思ってから、自分を慰めるのがうまくなりました。 みんな、そうやって人知れず超えているんだと、思うようになりました。自分でそれができないと、いつまでも自分のことは人のせいで、よくなりません。ご両親にどんなことを言われ、どんなことをされようとも、あなたとは別の人格なのだと諦めて、あなたはあなたの心が落ち着くことを、自分にしてあげればよいのだと思います。 好きな音楽を聴く、映画を観る、本を読む、何でもいいのです。ちなみに、私は疲れてくると、しばらく誰にも逢わないし、何もしません。その状態に飽きてくると、また別のことを始められます。 前向きになれない状態で、むりやり前向きになろうとしなくてもいいと思います。どん底まで落ちたら、あとはイヤでもはいあがるしかないのですから。 自分を慰めたり励ましたりするということは、それ以前に、自分が何に傷つき、苦しんでいるのか、ということを自分でわかっていなければなりません。でないと、ただ自分を甘やかすだけで、何の効果もないからです。 自分のことなのに、これが案外難しいのです。 本当の心が、巧妙に別のものにすりかえられていることがあるのです。それは大人になればなるほど、世間体とか見栄とかいう鎧を着込んでしまって、それを本心と思い込むことがあるからです。 本当の自分に気づくと、涙がでてくることがあります。こんなにも愛情に飢えていたのか、って。 ほしいけれど手に入らないからイライラして。親に依存するから(「~してくれない」、とか)いつまでも自分のことがわからない。他者をあてにせず、自分の人生、自分で切り開こう、くらいの意気込みがあれば、誰に操作される人生でもないので、多少の苦労も気にならなくなります。自分の手でつくっている、という確かな手ごたえがあるから、死ぬことも考えなくなります。ただ、その生き方(たとえば、仕事)と自分の欲求が一致していれば、なおさら生きやすいでしょう。でも、そんな妄想さえ捨てて(仕事なんだから、一様に楽なものなんてないんだ、と考えること、など)、自分の心が楽になるために、今は、ご両親より自分のことを考えて、自分の心の欲するままに、自分がしたいと思っていることをやってみてください。自分の思い通りになるって、気持ちいいです。仕事でそれができなくても、プライベートな時間だけは、誰にも奪われずに、自分のやりたいようにやってみてください。 自分が苦しんで、苦しんで、見つけた答えが、自分を救ってくれます。本でも映画でも、なんでも、自分の心が反応して、涙が出てくるような言葉を捜してみてください。それがあなたにとっての答えです。 きっと、皆こうやって、自分で自分を励まして、頑張って生きているんだなぁと思うと、私もがんばらなくちゃ、と思えてくるのです。 案外、人に相談しても、自分にぴたっとくる返事がなかったりするので、そんなときは、自分で自分を慰めるしかないと思っています。そして、時に何気ない人の優しさに触れて、あったかい気持ちになって、そのこと自体に癒されたりもします。そうこうしているうちに、自分で自分の心をコントロールできるようになり、傷つくことが減り、傷ついても立ち直りが早くなったりします。わたしは、そこにくるまで、酷く裏切られ、否定され、もう誰にも期待しない、と心に決めたことがありました。そんな思いするくらいなら、1人でいたほうがずっと安らかだ、と。そのときから、過度に期待することもなければ、自分の心の隙間をいつでも誰かが埋めてくれるという妄想を捨てました。それが普通の距離なのかも、と思えるようになりました。絶望しても、いつでも、親切な人はいたし、誠実な人もいました。それが救いでした。ぼろぼろな私には、それを感じる余裕が全く無かったときがありましたが…。 長くなりましたが、誰も慰めてくれなければ、自分で自分を慰めるしかない、ということではないのでしょうか。 でないと、自分を慰めるためには、いつでも「誰か」が必要になってしまいます。そして、その誰かが自分にとって必要以上に重要な存在となり、その相手がいなくなれば、自分が壊れてしまう、ということになりかねないのですから。それは、他のひとには、とても重いことなのではないかと、私は感じて、どうにか1人で立っていられる強さが欲しいと、心底思ったものです。今でも、よちよちなんですけど… 自分を変えるって、時間がかかります。 でも、自分がなりたい自分になるためには、どれも必要な経験だと思うことにしています。 いつか、結晶することを祈って。 大切なのは、いつでも、自分が自分の本心に気づいていてあげている、ということだと思います。 核心さえみうしなわなければ、それに振り回されることもなくなります。今、質問者様は、蚊取り線香の渦巻きのように、一点の真実に向かって、進んでいる途中なのです。 一点に到着すれば、そこにいながらにして、360度見渡せるようになるでしょう。周りにいるから、一点を見るために、自分がいろんなところに移動しなくてはいけないから疲れてしまうけれど、いつか、あなたの一点にたどり着くと思います。考えることをやめなければ。 突然に答えは、みつかります。意志とは関係なく、涙がでます。 いつでも自分の本心を探すことをやめないでください。 傷ついている時は、傷ついている、と、怒っているときは、怒っている、と意識してください。この人に怒ることはいけないと否定しないで。相手が誰でも、どんなでも、怒るときは怒るし、腹立つときは腹立つのです。ただ、それを表に出すのではなく、自分が意識できて、「こんなことで怒ってても意味ない」とか、何でもいいから、自分の心が静まることを探して、それを自分にしてあげるのです。何もしない、ということをしてあげることもありです。それが、自分で自分のご機嫌をとる、ということなんじゃないかな、と思います。 長くなって(しかも参考にならなかったら)すみません。 もっとご自身をいたわってやってください。自分を大切にできるようになれば、自然に、イライラはおさまり、人にも優しい気持ちを持つことができるようになります。 応援しています。

lune5
質問者

お礼

切々とお答えくださって、本当にありがとございます。ほんとうに自分を大切にしようとようやく思っている今日このごろです。

回答No.3

醜い劣等感の塊とあなたが思っている対象そのものはあなた自身ではないですよね。つまり自分とは何だか分からないのではないですか。それが当然だと思います。わからないのがおかしいのではなくわからないのが当然だと思えませんか。

  • non_milky
  • ベストアンサー率34% (93/268)
回答No.2

「自分で自分のご機嫌をとる」って、 ちょっと抽象的で分かりづらいですよね。 私も似たようなことを言われたことがあります。 質問者さんは、誰かのご機嫌を取ったことがありますか。 その時、どういう風にしますか。 まずは、相手が何を言われて喜ぶのか、何をされると怒るのか 把握しようとするのではないでしょうか。 だから、まずは自分のことを知ること、だと思います。 具体的には、自分が落ち込む、傷付く時のパターンを知る。 「こういうことをされると落ち込むんだな」 「私はこういうこと言われると嫌なんだな」 というのを認識する。 認識していれば、落ち込んだ時に 「こういう時は、私はいつも落ち込む。」 と思えます。それだけで、ちょっと気が楽になります。 それから、逆のパターンで、どういう時に自分が喜ぶかも ゆっくりで良いので観察してみるといいと思います。

回答No.1

直接の答えになっていないと思いますが,参考になればと思います。あなたは自分が何者かがわかっていると思いこんでいるということはないですか。おそらく自分の体を自分と思っているのではないかと思います。これは誤りです。いくら空間の中に探しても自分は存在しません。私は自分は暗闇のようなものだと思っています。明るい目の前の世界のどこを見ても自分はいません。ところが眼を瞑ってみれば確かに自分はいます。だから自分のいる世界と外の世界は別のものなの自分のいる世界というのは自分だけしか生きていません。外の世界は夫々の人が生きています。一度この二つの世界が別々であるということを実感してみたらどうでしょう。

lune5
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。質問そのものが曖昧で、わかりにくかったと思います。わたしは自分のことも含めていま何もかもわからなくなっています。醜い劣等感の塊のような状態でしょうか・・。

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