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資格の存在意義と維持と必要性について

資格について少し聞きたいのですが 資格とはそれ程重要なものなのでしょうか? 私は常々疑問に思っていたのですが ある目的の為に猛勉強して 一時的にその知識を身につけ一時的にその目的を果たしたとしてもそれが数年たった後はどうでしょう すっかり忘れてしまったのではないでしょうか? 仕事関係や自動車免許のように日々日常的に使ったいたのならまだしも 漢字検定や英語検定等失礼ですが明らかに履歴書の資格欄を埋めるためのものとしか思えないもの等必要性あるんでしょうかね?上位の何段とかならその手の知識はかなりすごいとは思いますが下位の級とかは取る意味すらないと思うのですが・・・ 必要性に疑問を持つ例としてペーパードライバーや老年ドライバー等がいい例だと思います 俺は免許持ってるんだ!国から認められてるんだ!と言う セリフを前に聞きましたが何年前の話だと突っ込みたくなりますw何年も乗ってなくその知識が薄れている者反応速度や視覚に障害がある者に問題がないわけがない!と私は思うのです 資格と知識・経験を得て初めて意義が存在すると私は思うのですが反面大学受験みたいに入れば後は別にいいやーと 思う所もあります 皆さんはどう思っているでしょう? 教えて!と言う意味とは違うと思いますが 回答お願いします

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noname#50219
noname#50219
回答No.2

その資格を使って、どれだけ働いたか、事を成したか(キャリア)、ということが、資格に実質を持たせることだと考えます。 大学生になって、新品の学生が、大学での練磨によってどれだけ向上したか。 資格は取ったばかりのときは新品なんです。 テストを受けて、活動してよしと認定された状態。 それからどれだけ伸びたか?というのがキャリアです。 ですから、キャリア(経験、実力)の延長上で、一定のキャリアを積むと、資格が与えられる場合がある。 その資格を行使して、さらなるキャリアを積める、という話です。 ですから、資格によって業界や活動が分断されることはよくない。 消防士以外が消火活動をしてはいけない、警官以外が治安を守ってはいけない、建築家以外が家を建ててはいけない、政治家以外が政治をしてはいけない、そんなことは、ありません。芸術家以外も、芸術をします。 そのなかで、ある一定のキャリアを積み、基準を満たした者に、資格が与えられるわけです。 ですから、資格よりもキャリアが上回れば、資格が無くても大成するわけです。   お前、建築家でもないのにすごい家建てるな!すげぇすげぇ。料理人でもないのに、どこぞのプロよりはるかにうまいわ。すげぇすげぇ。 そのキャリアを認めるものが多ければ多いほど、その人が、その能力を活かしていける場所が増えるわけです。 お前、ほんまに料理人なの?なんかまずくない? こうなると、形無しになるわけです。資格は意味を成さなくなる。 ほんとに自動車免許持ってんの? という風に、「その資格を疑われてしまっては」資格の効果は死んでしまうわけです。 誰が認めるか? 国や自治体、法律などに認められれば資格、人や業界などに認められれば、キャリアとなります。 ですから、資格とキャリアは、意味的には同じです。 認められているか、そうでないか。 ただ、意味の無い資格やキャリアは、昔の栄光をずっと持ち続け、それにすがることや、一時その資格を有するに値していたが、今はそうではない。だけれど資格だけは残ってる。という場合です。 時間経過に負けないように、進んでいかなければ、キャリアや資格というのは、意味を成さないと思います。 むしろ、いまは実力も資格も無いけれど、近いうちに必ず、とか、勢いのある志をもった、未熟だけれども可能性を多く秘めた素材が、認められることもあります。ですから、資格やキャリアだけが、認められるわけではないんですね。たとえば学生も、これからを期待されて、優遇されているわけです。 大学に入ってからが、スタートですね。入ったときは、実質〇、可能性だけが認められているわけです。 その可能性を審査するのが、各学校の行うテストや面接なわけです。 問題を解く練習、答える練習、考える練習しかしてこなかったわけですから。本当は、練習だけでなく、実績を持った学生や若年層がもっと多く出るような社会が望ましいですね。 そういう実質を含む、つまり、リスクを持った本当のチャレンジを、若者がすることを認めれる、また高齢者や障害者がそういうチャレンジをすることを認めれる、そういう社会が望ましいと思います。 資格やキャリアは、そういう不確定な挑戦の後に、ついてくるものではないでしょうか。 何々のくせに、いっぱしの腕前ももたないくせに、資格も無いくせに、実力も無いくせに、という風に言う人たちは、認められてこなかった人たちだと思うのは、私だけでしょうか? たとえチャレンジが成功しなかったとしても、志や新しさを持って、全力で挑戦してきた人たちは、時が経過し古くなったとしても、そういう頭から否定するようなことは言わないと思います。 資格、キャリアがあるなしにかかわらず、チャレンジすることが、大事ですね。そのチャレンジを、門を閉ざして認めない集団は、只古びて惨めになってゆくだけです。チャレンジを促し、大きく門を開けておくことは、つまり、リスクを受け入れれる体勢を維持できている、安定した社会は、そういう勢いある力を吸収できるチャンスに恵まれています。 個人のチャレンジが求められている現代のような時は、同時に、社会が開かれなければならない、社会的な風習、風潮を変えていかなければならないんですね。つまり、有資格者無資格者問わず、チャレンジを認めることが、フラストレーションというたまった圧力を、有効に利用する方法だと思うわけです。 大学や研究室も、受験以外に、入学の門戸を開いておくべきですし、入学させること自体が、試験であってもいいかもしれません。大学一年の手前に、大学入学のための予備学年を設置するのもいいです。    自動車運転免許で言えば、ペーパードライバーや、高齢者ドライバーが、無料で、何度でも試験を受けれるような制度にすればいいと思います。  個人が他山の石で己を磨くチャンスを、個人に与えられる社会、そういう社会は、成長していくと考えます。

その他の回答 (1)

回答No.1

直接の回答ではありませんが、私は考えます。昔は医者になりたかったらしかるべき医者の内弟子になってそれなりの知識や技能を身につけたと師匠に認めらたら独立して医師として生きて行ったわけです。このような時代は医師の実績と評判が医師を続けられるかどうかを完全に決めていました。患者が物質的にも精神的にも直接評価をしていましたからそれが資格の審査になっていたわけです。  ところが時代が変わって医療の技術が高度化してくると治療の効果を患者が判断しにくくなってきたわけです。つまり医師の腕を患者が簡単に知ることができなくなってきたということになります。ここで資格というものが第三者(普通は国です)による判断によって保障される必要が出てきたのだろうと思います。そのほかの要因もあるかと思いますが、国が与える資格は自動車の運転免許証をはじめとするあらゆるものが医師免許証と同じ性格を持っているということはいえると思います。資格に関係した悪い出来事というのは別の問題として考えるべきであるとも思います。これはお金が必ず関係しているという共通点を持っているように思います。

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