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年老いた自分の生きる意味

私の職場では難関資格を持っていたり、自分でソフトを開発したり、外国語をペラペラ話せる新人が入社しています。最近入社してくる若い方はスペックが高い人が多く、新しい知識もどんどん吸収するため、最初は教える側だったけど、あっという間に仕事も追い抜かれてしまいました。こちらが質問することも多くなりました。 仕事とは別に、子供の頃から続けている趣味がありますが。とても高いクオリティの作品を出す人が、まだ未成年と知って驚くことが多いです。その人たちに全く力量が及ばないのに、いい歳した自分が並んで作業をしていることが、たまに恥ずかしくなります。 趣味なのだから実力を気にする必要はないのかも知れませんが、「いい歳してまだやってるの?」「それだけ長いこと続けてきたのに、その程度の実力なの?」と思われてしまいそうで。 歳をとって頭も身体も老化して、そういう大人が誇れることって「経験に裏打ちされた実力」だと思うのですが。それが無くて若い人に簡単に抜かされちゃう人って、生きている意味あるのかな?と感じてしまいます。生きていて恥ずかしいというか、今まで何やってたんだろうって。人生に意味あった? 後輩に抜かされて劣等感に悩まされている人の中にも、「でも自分は家族を養わなければいけないから」と踏ん張っている人がいるかも知れませんが。私は養う家族もなく踏ん張る理由もないので、実力もないのに生にしがみついている自分がみっともないなぁと感じてしまうのです。 若手や後輩にどんどん実力で追い抜かれていると感じる方は、どのような気持ちで生きていますか? それとも私は精神的な病気でしょうか。

みんなの回答

回答No.5

 若手や後輩に「実力」で追い抜かれても「人生」で追い抜かれているわけではないですよね!  「人間力」や「幸福力」で追い抜かれているわけでもないわけです。 あなたには「人生の先輩」として若手や後輩にはない素晴らしい「リソース」があるわけですからもっと自分に自信を持ちましょう。

  • nonamelane
  • ベストアンサー率28% (390/1358)
回答No.4

この数十年で大学の学部の内容も様変わりしたと思います。逆に何十年も同じでは彼らもビジネスにならない。講師も変わり要求も変わる。更に更に、で初めて商売が成り立ちます。新人が更なる特技を持っていても、それを素直に認めながら、自分達がいたからこそなのだと思うと良いです。 私は自分の子供にすら追い抜かれた感が否めません。海外在ですが、ここで育てここで教育を受けた子供に英語すらかなうはずがない。まだ若いのに子供の年収は私達の年収を超えました。英語すらレベルが違うのが身に染みて分かります。 それを喜ぶべきなのにどこか複雑です。その程度なのかときっと思われているでしょう。馬鹿にされているでしょう。でもそれで良いのです。彼らは自分で努力するしかないからです。親や上司があてにならない、助けにならないと思えば自分で努力し伸びるしかないからです。そのお手伝いをするみっともない自分を認め、でもそんな自分がいるからこそ、次世代は輝けると考えるようにしています。

回答No.3

年齢・性別関係なく、頭を垂れ、教えを乞うことに何のわだかまりもありません。自分が、他の人と違った優れたところがあるかもしれないと思うことをやめてます。努力しているのは、教わり上手になることを意識しています。

  • tennine7
  • ベストアンサー率18% (221/1225)
回答No.2

回答させて頂きます 40オーバーのおっさんです 私は何回も転職して今の会社にいます 私の会社は転職組が結構多く新しい人も スキル高い人多数って感じます 正直 私も20、30代の若手に 特にパソコン、ネット関係で こりゃ勝てないなって感じる事ありますね でもどうせ最初から勝てないんだから そこは無理に張り合ったりせず 教えて下さいという姿勢で謙虚に 接しますね 仰る事判りますが 私は余り気にしてませんね あなた様は少なくとも 精神病ではありませんし 反応も普通だと思いました ただ気にしすぎかな いつの時代もベテランは 若手に追い抜かれるのは 世の常 いま 私たちが抜かれる番になったのですよ 私も結婚してませんし人生において 特別な目標もありませんが 日々の生活、仕事 黙々とこなしてます どんな気持ちで生きてるか? と聞かれたら 健康で普通に働けるうちは 普通に仕事して生きてますって 答えます 余り考えすぎも宜しくないですよ 気持ち的にもっと 気楽に行ったらどうでしょうか

  • maskoto
  • ベストアンサー率53% (539/1011)
回答No.1

私の知っている ある、かなりのお年を召した方は こう話されていました 「俺も、もう年で、10年先には生きていないだろうが、一本の木を支える一枚の葉っぱのようにこの先も生きて行こうと思っている」と、 これを聞いて、 葉っぱは、春に芽吹き、夏には光合成をして木に栄養を送り そして、晩秋には散ってしまいますが、 それでも腐葉土となり死してもなお木を支えています 木は人間社会、もしくは大自然(大宇宙)そのものの例え これに対して葉っぱは自分で、生きている間も死んだ後も何かしら(この世の)お役に立てるように生きよう と言う意味なのかと思いました 私も、そのように生きていけたら、と思っています 〜以上、私事を書かせて頂きました〜

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