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学校が楽しい人の心理。
僕は幼稚園から最終学歴の専門学校まで学校において楽しいと思う事はまずありえませんでした。 学校で行動を共にする人はお互いに損得感情的に必要だから付き合いが必要で半ば嫌々行動を共にしてました。(その為、お互い内心では見下しあっていた)。 横目で楽しそうにはしゃぐ女子の集団や元気の良い男子集団を見ると心から楽しんでいる様でとてもうらやましかったです。そういう集団に属したくても容姿や性格の点からまず無理でした。 たまに「学校は家に居るより楽しいよ」と言う人がいますが、そういう人はなんで楽しめるんでしょうか?。やはり人間関係が充実しているんでしょうか?。
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わたしは小学校高学年から中学卒業まで、必ずしも人間関係が充実している、とは言えませんでした。 けれども、学校へ行くのが楽しくない、とは思えませんでした。むしろ、人間関係の部分を除けば、その頃の学校生活も十分楽しかったと思っています。 あの頃の年代は、友人関係がとても難しく、どちらかというと仲間はずれだったり、いじめられたりしていました。それでも学校に通い続けられたのは「新しい知識を得られる喜び」があったからだと思います。 学校に行く目的って「人間関係を築くこと」も大切ですが、不毛な人間関係しか築けないのなら、学業そのものを大切にしたほうがよいと思います。 薄っぺらで不毛な人間関係は、人間を疲れさせ、自分を磨くチャンスを失っていくだけです。性格も悪くなっていっちゃいますしね。 そんな人間関係に時間を費やすなら、自分磨きに時間をかけましょう。 あの頃の「自分磨き」に相当すること、と言えば、やはり「勉強すること」しかなかったんですね。(わたしには。) あの時代以降のわたしは、幸い、理解ある友人に恵まれ、人間関係の築きかたを学ぶことができ、大学では学業だけでなく、人間関係も充実した学生生活を送ることができました。 以下は余談ですが・・・ まずは、どこかのグループに入ろうとするより、自分を理解してくれている、あるいは興味を持ってくれている人を見つけましょう。 そういう人は、必ずしも「元気そうな」「明るい」「集団」の中にいるとは、限りません。 また、自分で容姿や性格がよくない、と思っている人でも、誰が見ても両方とも「まるでダメだ」と思われるようなレベルの人は、あまりいませんね。 美男・美女なんて、上を見ればきりがないですし、悪いといっても、言うほど悪くはないことがほとんどだと思います。 性格が暗い=落ち着いてる、と見てくれる人もいますし、「性格」に関しては、本当に悪い人ほどその自覚がないものです。 あなたは、たまたま自分に合う人に出会えなかっただけなのではないか、と思いますよ。 学校の中というのは、意外と閉鎖的な世界ですからね。 もっとも、最近の若い人たちは、語彙が少なすぎるため会話そのものが成り立たず、人間関係うんぬん以前に問題がある、って人もいるようですが・・・あなたは、違いますよね?
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人間関係が充実しているからでしょうね、と思ったのですが、 ♯2さんの意見を見るとそうとも限らないみたいですね。 というより、楽しそうに見えたら人間関係が充実しているとも限らないということでしょうね。 楽しい輪の中に属せるか、というより自分の本当の友達がいるか、でしょうね。 私は小・中・高・大と人間関係のうまくいった時、ひどかった時、あるのですが、 やはりうまくいっていた時は学校は楽しかったです、そしていかなかったときは学校は苦痛でした。 けれど苦痛な中でも、素晴らしい友達が1人いたので苦しいばかりではなかったです。 大学からは人と出会うことに自分で努力をしたのですが、高校までは人との出会いは天に任せきっていたので、その友達と出会えたのは自分の努力ではなく、奇跡でした。 最初、ponnkoponnkoさんがうまくいかなかったのは自分のせいでは?と思ったのですが、 ♯1さんへのお礼を見て、運もあるのかな、と思い、上記のことを振り返りました。 でもこの先、自分が卑屈な気持でいたらそういう人が集まるのは確実だとは思います。 道徳の教科書に載ってそうな心をもって接しようとしていた時も何かしら劣等意識があったのではないでしょうか。 私は小学校、中学校ぐらいまでは劣等感があって、やっぱり似たような人種しか友達にいなかったですが、 高校ぐらいからは自分は自分だと開き直って、変に自信を持ったところ、あらゆるジャンル(ランクと言い換えてもいいです)の友達ができました。 どうしたらいいかは質問では訊いていらっしゃらないのでこう言うのも図々しいとわかっているんですが、 ♯2さんのおっしゃるように、妙な劣等感をとりあえず克服して自信をつければ今の状況は変わると思います。 今の少々負に傾いた気持を無くすと、絶対に周囲の環境は変わりますよ。 私は人との出会いは高校までは運、それ以降は努力だと思っているんです。
- rightegg
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こんばんは。 >私の周りには極端に満たされてない人が集まる構図が成り立っているんです。 自分で仰ってるじゃないですか。 そういう構図ではないから楽しいのです。 別に不思議でもなんでもありません。 先の回答にもある様にあなたが与えず与えられなかった感情が存在している訳ですから。 問題はあなたが何故そんな人間関係しか築けなかったかの方でしょうね。 だって学校は卒業すればまた新しい人間関係が始まる訳で、毎回毎回嫌な思いをしながら同じ事を繰り返してきたんですよね? 「容姿や性格」と仰っていますが、それだけでそんなギスギスした関係は生まれませんよ。 やはりあなたにもどこか直すべき点があるように思えてなりません。 あ、質問は何故楽しめるかでしたね。 仰る通り、人間関係そのものが楽しいのです。 仲の良い友人と馬鹿な事を言って、時にはまじめに話して、そういうのがすごく楽しいのですよ。 僕はもう社会人ですが、今でも友人と話すと楽しくて時間を忘れますし、馬鹿な計画を立てて自分たちだけの世界で楽しんだりしています。
> 楽しそうにはしゃぐ女子の集団や元気の良い男子集団を見ると心から楽しんでいる様で ここなんですが、心からはしゃいでいるように見える集団の子たちだって、 実は様々な不安を抱えていて大変だったりするのです。 そういう不安をごまかすために、大袈裟ともとれるほどに楽しそうにしていたりします。 女子集団なんて特に大変です。集団化されていればされているほど、 その集団に人気やステータスがあればあるほど、内部ではかなりドロドロです。 みんながみんな、常にハッピーなんてことはあり得ません。 それでも社会的に機能したいがために、ちょっと無理矢理にでも楽しさを装うのです。 見栄や意地だったりもすれば、実は夢も希望もない、ただの空元気だったりもします。 または、意図的にプラス思考を心がけているのかもしれません。 もちろん中には本当に心からハッピーな人もいますが、 全体から見れば少数ではないでしょうか。 私は中学前半ぐらいまでは、無理に上辺を作って「楽しい集団」に属そうとしていましたが、やはり疲れます。 高校になって、集団ではなく「自分ひとり」で存在し、「ひとりで学校を楽しむ」ことを覚えました。 そういう友達同士で、必要なときは行動を共にし、必要でないときはお互い勝手に行動する。 学校がとても楽しかったです。 学校=楽しい楽しい友達関係 ではないからです。 意味のない劣等感を克服し、自分に自信を持って、 あとは目的意識を明確に普通に精進していれば、学校でも仕事でもなんでも、楽しいのでは?
- akazu11
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「お互いに損得感情的に必要だから付き合いが必要で半ば嫌々行動を共にしてました。」というのは、あなたがそう考えるから相手もそうなった結果だと思いますよ。その人が他の人に対しても同様に損得勘定だけで付き合っていたと思います?違いますよ。「与えよ、さらば与えられん」という言葉はあまりにも有名ですが、いろんな事に置き換えられます。 まずはあなたが相手に対して好意なり好奇心なり友情なりを伝えなければ、今後全ての人があなたに対してそういう感情しか抱かなくなると思います。学校・職場関係なしに、全ての人間関係において。
お礼
>>「お互いに損得感情的に必要だから付き合いが必要で半ば嫌々行動を共にしてました。」というのは、あなたがそう考えるから相手もそうなった結果だと思いますよ。 いやいや私も若かりし頃そう思ってました。そして、道徳の教科書に載ってそうな心をもって接しようとか思っていた時もありましたが、私の周りには極端に満たされてない人が集まる構図が成り立っているんです。普段のコミュニケーションもどちらが相手を見下せるかというテーマに沿って会話がなされるような常にぐずついた空気しか存在しなかったんです。