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承久の乱について

後鳥羽上皇は、なぜ鎌倉との戦争に勝てると思い込んでしまったのですか?誰か上皇の暴走を止めれる人は、朝廷にはいなかったのですか?

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  • head1192
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回答No.5

鎌倉が全国を一元的に支配していたわけではなかった。 当時は朝廷と幕府の二元統治体制だった。 武士にも、鎌倉武士と朝廷に属する武士がいた。 その勢力は同等。 加えて朝廷には「錦の御旗」がある。 勝算は大いにあった。 げんに北条義時は戦の最中も朝廷に弓する罰当たりな行為に悩んでいた。 大江広元がひるむ義時を懸命に鼓舞したのだという。 他の鎌倉武士が朝廷に鞍替えする公算も大きかった、ということである。 鎌倉方が勝ったのは ①鎌倉武士の引き締めに成功したこと ②速攻により朝廷側の意表を突いたこと による。 けっして最初から勝利が約束されていたわけではない。 結果を知っている我々はえてして結果論で史実を評価しがちである。 それは歴史探究では禁忌である。

kiyurohi88
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

その他の回答 (4)

  • eroero4649
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回答No.4

私が武士や公家だったなら、暴走は絶対に止めないです。止めようとして自分が粛清されてしまうのが一番怖いですね。なぜならその時点ではその権力者(後鳥羽上皇)はまだ権力を持っていますから。 それよりも暴走をさせて勝つ側(幕府側)につけば、鎮圧されて権力を失った後鳥羽上皇から処罰されることはないですし、あわよくば幕府から恩賞を得ることもできるかもしれません。 誰かが「鎌倉殿の13人は仁義なき戦いをNHK大河にしたものだ」といってましたが、当時の武士って要はヤクザですからね。邪魔なやつはぶった切れの物騒な連中なのです。 時々ヤクザを使おうとして逆に陥れられてしまう世間知らずのベンチャー企業の社長なんかがいますけれど、それに似た部分はあったんじゃないかなと思います。御所の中から出たことがない上皇には、京都から外の事情というのは実感として分からなかったと思います。

  • 5555www
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回答No.3

下記の記事も少しは、お役に立てるかも???(東洋経済電子版) 「承久の乱」で後鳥羽上皇の惨敗に追い込んだ「三浦義村」の決断、要所要所で決して判断を間違えない https://news.yahoo.co.jp/articles/3de9a0931e0914098f1259f406db83b67062db8e?page=1

  • Nakay702
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回答No.2

以下のとおりお答えします。歴史は、ある意味、因果関係の「因と果」の連続ですので、お尋ねへの回答の中核と、その前後の事柄を少し含めてお答えします。 >後鳥羽上皇は、なぜ鎌倉との戦争に勝てると思い込んでしまったのですか? ⇒後鳥羽上皇を支持し、京方朝廷軍につく貴族、御家人、守護、地頭が圧倒的に多いと踏んだことが主因でしょう。事実、多くの近国の武将、大番役の在京の武士、有力御家人たち(尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義ら)が後鳥羽上皇のもとに集まった。参戦武将数で見る限り、幕府軍の21名(北条義時・足利義氏・三浦義村・武田信光ら)に対し、朝廷軍は27名(後鳥羽上皇・藤原秀康・糟屋久季・佐々木広綱・大江親広ら)の多きを数えた。後鳥羽上皇としては、ここに1つの過信があったに違いない。 しかし、実際に戦った兵員数で見ると、幕府軍は進軍の道々でも兵力を増強していって、最終的には19万騎に膨れ上がった。他方、京方朝廷軍のそれは総勢で2万騎程度と、幕府軍の10分の1強ほどに過ぎなかった。朝廷軍の武将はおもに朝廷より拝命した冠位・役職の恩賜に対する忠義のための参戦であるのに対し、鎌倉の武士は「どちらに味方をすれば勝てるかという状況分析や、一族内の利害関係(勝利すれば、敵方についた一族の所領を奪うことが出来る)なども検討した上で、その多くが損得勘定に基づいて鎌倉への支持を決めた」のであった。これこそが、幕府軍優勢の源であったと推測される。 >誰か上皇の暴走を止めれる人は、朝廷にはいなかったのですか? ⇒朝廷内とは限りませんが、上皇の暴走を(止めるまではいかないとしても)、それに異を唱えたり、反対したり、警告したりした者はいました。例えば、以下のとおりです。 ①後鳥羽上皇が義時を討つ意志を固めたとき、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿たちも、義時討伐に反対または消極的であった。 ②順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する一方、寺社に命じて義時調伏の加持祈祷を行わせた。討幕の風説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。こうして京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観していたらしい。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買ったという。 ③一説によれば、『愚管抄』を著わした慈円もまた、(この書をもって)後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとした、という。 以上、ご回答まで。 なお、詳細については、以下のサイトをご参照ください。 「承久(じょうきゅうのらん)の乱 https://ja.wikipedia.org/wiki/」。

  • f272
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回答No.1

後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発すれば、鎌倉方は朝敵となりそれに味方するものはほとんどいないと確信していたからです。実際には各地の御家人はどちらが勝ちそうかを冷静に判断し、勝ち馬に乗ったということでしょう。