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ポリコレ
最近LGBTだとかコンプラとかそういう人種差別というか 昔はそんなうるさくなかったけど なんか最近会社から何から差別をしないで多様性を なんてのがはびこってるけどさ 多様性とかって 自らと違った立場の意見を尊重し、相互に認め合う ってことだと思うんだけど 多様性を認めろってのはわかるけど なんか強要じみたことしてないか? コロナでマスクしろとか職域接種とか もそうだけどさ強要してないか? ワクチン打たないなら首だとか飛行機乗れないとか・・・・ ただ不寛容さだけが先行してね?_ ほかにもなにか間違えたり違う意見言ったりしたら やたらと批判していじめ的な差別したり メディアでも前にあったスタップ細胞の件でも 1人を勝手な理屈でつるし上げてトイレにまで押しかけて 責任者は自殺してるし 世の中なんか息苦しくないか? 学生でも社会人でもみんなちじこまっちゃって 間違いはしたくないからおとなしくしてよう みたいな? こういうのって全部アメリカから来てないか? そんな感じないですかね?
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アメリカ人が不寛容で差別的なだけなのに、日本まで押し付けてくるから本当迷惑ですね。 日本人に「黒人差別をやめろ」とか言いながら、自分たちはアジア人を理由もなく殴ったりするし。 あんな奴らについていったら、心も体も荒廃するだけです。
- staratras
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「コンプライアンス」「ポリティカル・コレクトネス」など日本の社会の潮流の多くがアメリカの影響を受けていることは確かですが、私たちが息苦しさを感じる主な要因である「社会の同調圧力」は昔からあり、外国の影響と言うより日本人の特性の一つでしょう。個人の立場から見れば「みんなと同じことをするほうが安心」ということになります。このことは外国人にも知られているようで、(最近は不用意に口に出すのは一種のタブーでしょうけれど)いわゆる「エスニック・ジョーク」でもこれをネタにしたものがあります。 最近の日本社会で「息苦しさ」をいっそう実感するようになったとすれば、もともと同調圧力から「世間の目」を気にする傾向が強かったところに「コンプライアンス」「ポリティカル・コレクトネス」という一種の外圧が加わったように感じられるからでしょう。よく考えると変なことですが。 「自ら省みて縮(なお)くんば千万人と雖も吾征かん」というように、本来自分自身の良心が「正義」「正しさ」を判断する最終的な規範であるべきだ、という考え方が日本にはありました。ところが「コンプラ」「ポリコレ」は必ずしもそうではなく、「社会的に正しいとされている規範の遵守」を求めています。 これだけでも大変ですが、日本の場合もっと深刻なのは、自分が所属している集団(職場・学校など)のルールと社会全体の規範が食い違っている場合の対処が容易ではないことです。多くの場合、個人は(内心ではこれはおかしいと感じても)職場の同調圧力で職場のルールの方に従ってしまい、(みんなと同じことをするほうが安心)「職場ぐるみ」の不正や不適切な行為が蔓延する結果になってしまっています。 もちろん日本にも「自ら省みて縮(なお)くんば千万人と雖も吾征かん」という気骨のある人がまったくいないわけではありませんでした。ただし、そうした良心的な勇気ある人を日本の社会はどう扱ってきたのか、冷遇して遠ざけていなかったか、ここが最大のポイントだと思います。この反省を抜きにしていくら「コンプラ」「ポリコレ」を語っても所詮画餅に等しいと考えます。
- eroero4649
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今の資本主義経済はアメリカを中心に回っていますし、第二次世界大戦後のアメリカは文化や流行の発信地でもあります。流行る音楽、流行るドラマ、流行る映画、流行る大衆ファッション、流行るSNS、まーほとんどがアメリカ発です。 世界はアメリカを中心に回っているのは間違いない事実でしょうね。ロシアや中国もいうたところでアメリカの影響なしで生きていけるわけではないですからね。
お礼
ならアメリカを日本から追い出そう