補足欄拝見しました。
フーコーはね、権力というのは、一部の人間が握っているものではない、と考えた。
たとえば国家や、資本が、支配するための強制装置として、行使するものではない。
権力というのは、網の目のように遍在している。
たとえば、普遍的であるように感じられてきた「真理」や「科学」といった「近代の知」さえも権力の網の目を構成している、と考える。
さらにフーコーの発想の新しさは、人間がふたりいると、つねにそこには権力関係が成立しているとするんです。
ただし、その関係を固定したものとはとらえない。行為関係のなかに内在しているとする。
権力は主体の外部に存在して主体に押しつけられたもの、ではないんです。
そうとらえたところにフーコーの発想の新しさがあり、ユニークさがあるんです。
近代の社会というのは、主体を「権力的な主体」として形成させてゆくものである、とフーコーはとらえます。
たとえば規則というのは、規則には従わなければならない、ということを身体のレヴェルで覚えさせることにほかならない。そうすることによって、近代社会は「権力関係を承認していく主体」へと作り上げていく。
つまり、主体であるということは「権力関係の場」に入っていく、ということなんです。
わたしたちはフーコーを知ることによって、えらいことに気がつかされてしまった。
たとえば、マルクス主義華やかなりしころは、国家権力が悪くって、人民は抑圧されてて、っていう単純な二項対立で世界を眺めることができた(んじゃないか、と想像してるだけですが)。
国家権力を倒して、人民による政府をうち立てることさえできたら、すべてはうまくいく、みたいなユートピアをどこかで持つことができた。
ところがフーコーはそうじゃない、っていうんです。
ひとがひとに話す。
それだけで、すでに権力的な関係の場は成立する。
すべての文章、すべての表現に、力と欲望の政治学がはたらいている。
>権力作用を拒絶してボランティア活動をすると
権力作用を拒絶することなんて、できないんです。
国家権力の及ばない場での活動はできるかもしれないけれど、そこはそこで権力の場が成立する。
けれども、少なくともそこに権力関係がある、と認識することは、重要だと思います。
自分が言っていること、書いていることの裏には、無意識のうちに他者を支配しよう、支配に従わないものは排除しよう、とする欲望があるのではないか、と問い返すことは、すごく重要だと思います。
ハーバーマスはそこに「対話」ということを持ってくるんです。
わたしたちが、互いに相手を主体として認めあうような「対話的関係」を基盤として成り立っていることを認識するならば、合意を見出すことができる。
現実をリアルに見極めろ、というフーコーと、見極めたあとにそれでも理想を築こうとするハーバーマスって感じですよね。
お礼
うはー。すごい回答です。ありがとうございます。 参考になりました!! いま『<ぼく>と…』を読んでいるところです。 かなり分かりやすい本ですね! ここから先は自分で頑張ってみます。 また分からなくなったら質問を立てます! その時もどうぞよろしくお願いします。 ありがとうございました!!m(_ _)m