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日本の政治史について

日本政治史についてです。 55年体制の始まりから終焉(1993年)までの日本政治史の流れについて、沖縄の状況も含めて概要をまとめるとどんな感じになりますかね? 短文ではなく少し眺めにまとめるとどんな感じになりますかね?

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  • Nakay702
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回答No.3

「質問者からの補足」を拝見しました。 >まさにこのような解答をまっていました。ありがとうございます。 では、55年体制の利点と問題点について自分の見解はどうでしょうか? ⇒以下のとおりお答えします。 1.私は、55年体制は好きでした。特に、中選挙区制はよかった。「政権交代が起きやすい」小選挙区比例代表並立制というのは、推進派がそう謳っただけで、実際は逆で、1人区では政権党が圧倒的に強くなって政権交代のせの字もなくなった。また、政権党内では同調圧力が高まり、派閥間の牽制力や競争が消えて、「〇〇1強」とか「〇〇独裁」の色が強まった。これは、日本の民主制にために非常によくない傾向だと思う。 2.自民党の甘言に乗せられて、社会党の村山富市氏が首相になったことは、55年体制期の最大の愚行であり、暴挙であり、汚点であり、恥であった。この一件以来、社会党は多くの有権者の反感を買い、嘲笑され、急速に党勢を失っていった。「社会民主党」と看板を塗り替えても、何ら効き目もなく、民衆にそっぽを向かれたままである。「さもありなん」の感しきりである。現在の議席数、両院足してわずかに2名、選挙民は暗黙のうちに「社会党・社民党よ、あの大罪を心底悔いるべし」と語っているのだ。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10082/12630)
回答No.2

>日本政治史についてです。 55年体制の始まりから終焉(1993年)までの日本政治史の流れについて、沖縄の状況も含めて概要をまとめるとどんな感じになりますかね? 短文ではなく少し眺めにまとめるとどんな感じになりますかね? ⇒以下のとおりお答えします。  55年体制とは、1955年から始まったことに由来する日本の政党政治の体制で、自由民主党による一党支配が38年間続き、1993年の細川護熙内閣の誕生によって終焉した。 当初、日米安保条約をめぐる考え方の違いから左派と右派に分裂していた社会党が統一されるという動きがあった。この動きに危機感を持った民主党政権(鳩山一郎内閣)は、それまで政権を争うライバルだった自由党と合併した。(今の「自由民主党」という党名は「自由党」と「民主党」を合わせてたものに由来する。)こうして与党の自民党と、それに対抗する社会党ができあがった。以上が、55年体制ができた時局的背景である。 自民党は「保守」、社会党は「革新」を目指す政治の方向性の違いがあった。ゆえに、本来なら「保守・革新の二大政党制」となるべきところであったが、この55年以来何度衆参の議員選挙をしても、常に自民党が過半数以上を占め、社会党はその半分程度の議席しか獲得できなかった。こうして強い与党の自民党とその半分ぐらいの野党第1党の社会党というの体制がずっと続いた。55年体制は「二大政党制」でもなく、「一党独裁体制」でもない、その中間の「1と1/2大政党制」を特徴とした。なお、沖縄県の政党も中央政党の支部となっていくが、県民の利益に反する場合は「与野党の対立を超えて」中央政党の決定に逆らうということがよくあった。 自民党はずっと政権の座についてはいたが、結党以来党是としてきた憲法改正に必要な議席(2/3以上)を確保することはできなかった。常に野党が1/3の議席は取ったからである。ということで、政権交代は起きないが、憲法を変えることもできないというバランスで成り立っていたのが55年体制だったとも言える。55年体制が長く続いた理由の1つは、当時の中選挙区制という選挙制度(全国を約130の区に分けて、1つの区で複数の候補が当選する)にあった。例えば、定数3人の区があるとする。いくら自民党が強くても3人全員自民というのはむずかしく、2位ないし3位には必ず野党が入るという結果になることが多かった。 同一区で複数人選出ということから、中選挙区制では同じ選挙区内で自民党の候補同士による戦いが起こった。自民党という一つの党でありながら、党内に常にライバルがいるということになる。それで、党内でグループを作ってお互いを牽制し合うという状況が生まれてきた。そして、その派閥間で政権をたらい回しするのが恒例となった。つまり政党による政権交代は起きないが、派閥による疑似的な政権交代が起きていた。これによって国民の不満が多少は解消され、自民党の政権が長く続いた理由になっていた。 しかし、一つの党による支配が長く続くと政権は腐敗するとよく言われる。自民党も例外ではなく、これが55年体制の最大の問題点と言えるかもしれない。1976年には田中角栄内閣のロッキード事件、1988年には竹下登内閣のリクルート事件といった政権を揺るがす汚職事件が起きた。そのたびに国民の政治不信は高まり、政治改革の必要が叫ばれる。1989年には第15回参議院選挙でついに自民党は過半数を割り、社会党委員長の土井たか子による「山は動いた」という名言が生まれた。1993年8月、衆議院選挙で自民党が惨敗。ついに衆議院でも過半数を割った。自民党の有力者だった小沢一郎らが自民党を飛び出して作った新生党や、同じく自民党から分かれた新党さきがけ、そして元熊本県知事の細川護熙が作った日本新党が新党ブームによって多くの議席を獲得し、これらが連立を組み、細川護熙内閣が成立した。38年ぶりに自民党以外の内閣が誕生したのである。選挙制度も中選挙区制から、政権交代が起きやすい小選挙区比例代表並立制へと変えられた。これにより、38年続いた55年体制は崩壊した。 ただし、細川内閣は長くは続かず、その後継の羽田孜内閣も短命に終わった。自民党は社会党と新党さきがけと連立を組み、「自社さ連立内閣」を樹立。なんと、自民党はライバルだった社会党の村山富市を首相にして政権に返り咲いた。その後、自民党は連立の相手を変えながらも政権を維持する。2009年に民主党による政権交代が起きるが、2012年には再び自民党が政権を奪取した。94年の政権交代に際し、社会党の村山首相が沖縄の米軍を容認するという大転換を行うと、沖縄社会党は中央社会党と断絶し、沖縄社会党は独自の道を歩むようになった。本土での社会党の衰退の一因ともなった。 まとめ:55年体制とは、1955年から38年間続いた日本の政党政治の体制で、自民党が政権を保持し、社会党が野党第1党という状況が続いた。政権交代は起きなかったが、自民党が改憲に必要な2/3議席を得ることもできなかった。2大政党制ではなく「1と1/2政党制」と言われた。一党支配が長く続き、政権の汚職事件が多発するようになった。それで、1993年、細川護熙連立内閣の誕生により、55年体制は崩壊した。

Yuudaix5
質問者

補足

まさにこのような解答をまっていました。ありがとうございます。 では、55年体制の利点と問題点について自分の見解はどうでしょうか?

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  • sutorama
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回答No.1

1983年の「比例代表制」の採用から見たほうが良いかもです 「自民党以外ならどこでも良い」という考えや「候補者は嫌いじゃないけど、自民党は嫌い」という戦略が、今でも続いていますから、それこそソコからの10年ぐらいの間(1993年)に、急に「自衛隊は違憲」とか「憲法九条を守れ」といった、印象操作を野党が覚えて成功します それに使われたのが沖縄問題でもあり、今でも変わっていません

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